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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第211話 パリを救った天使の号泣

 1785年、初冬。

 コレラなどの水系感染症の脅威を克服したパリ。街は清潔さを取り戻し、市民たちは健康と繁栄の黄金時代を謳歌していた。


 しかし。人類史において「病魔」というものは、決して一つではない。


 環境の衛生改善だけでは防ぎきれない『死の影』が、ヨーロッパ全土からフランスの国境を越えようとしていた。


「……王妃様。報告によれば、隣国で『天然痘』の大流行の兆しが見られます。パリへの侵入も、時間の問題かと」


 チュイルリー宮殿の会議室。

 王室主治医であるシャルル=アンリ・サンソンが、いつになく険しい顔で分厚い医療報告書をテーブルに置いた。


「天然痘……」


 その名を聞いた瞬間、会議室にいた全員の顔から血の気が引いた。


 致死率が二割から五割に達し、運良く生き延びたとしても、顔や体に一生消えない醜い痕を残す、悪魔のような伝染病。


 かつてのフランス国王、ルイ15世の命を奪ったのもこの病であり、身分や貧富に関係なく無差別に襲いかかる「絶対的な死神」として、18世紀のヨーロッパで恐れられていた病魔である。


「……マズいですね。我が国のインフラがどれほど強固でも、飛沫や接触で感染するウイルスを防ぐことは不可能です」

 ナポレオンが、懐中時計の蓋をカチンと閉じて忌々しげに言った。


「もしパリでパンデミックが起きれば、労働者はバタバタと倒れ、工場のラインは止まります。それはすなわち、フランス経済の死を意味しますわ!」

 ジャンヌも、帳簿を抱きしめながら青ざめている。


「どうにかできないのか、サンソン先生! 街ごと煮沸消毒するわけにもいかないだろうか!?」


 ルイが頭を抱える。


「……ええ。天然痘には、対抗する手段があるわ」


 絶望に包まれる会議室で、私は扇子をパチンと開き、静かに立ち上がった。


「え?」

 全員の視線が私に集中する。


「サンソン先生。農村部で、こんな噂を聞いたことはないかしら? 『牛の乳搾りをしている娘は、天然痘にかからない。あるいは、かかっても軽く済む』って」


「牛の……乳搾りの娘、ですか?」

 サンソンが目を見開く。


「そうよ。牛にも『牛痘』という、天然痘によく似た、でも人間に感染してもほとんど重症化しない病気があるの。その牛痘のうみを、ほんの少しだけ人間の腕の傷口にすり込んで意図的に感染させるのよ。そうすれば、人間の体の中に『見えない防衛部隊』が作られて、本物の凶悪な天然痘ウイルスを弾き返せるようになるわ!」


 ——史実において、イギリスの医師エドワード・ジェンナーが「牛痘法」を確立して発表するのは、1796年のことだ。


 私は、その歴史を十年前倒しし、ワクチンという概念をこの場に投下したのである。


「な、なんと……! 弱い病魔を先に取り込み、体を慣らしておくというのですか! 毒をもって毒を制する、東洋の予防医学にも通じる圧倒的なロジック……!!」


 サンソンは、雷に打たれたように震え上がった。


「ラプラス先生、確率は?」

 私が問うと、ラプラスは猛烈な勢いで黒板に数式を書き殴り始めた。


「……生体反応のデータが不足していますが、理論的推論としては完璧です! 牛痘のウイルスが天然痘の抗原と類似構造を持つと仮定すれば、免疫獲得の成功率は98%を越えます!」


「よし、決まりね! サンソン先生、すぐに健康な牛から牛痘のワクチンを培養してちょうだい! パリの市民全員に接種させるわよ!!」


 私は、勝利を確信して高らかに宣言した。

 ……だが、それは『科学』を信じる私たちの視点であって、18世紀の『民衆の常識』は、そんなに甘いものではなかったのだ。


 * * *


 数日後。

 チュイルリー宮殿の前庭には、怒りと恐怖に満ちた数千人のパリ市民が押し寄せていた。


「ふざけるな!! 俺たちに『牛の病気』の膿を塗りたくるだと!?」


「そんなもん体にイれたら、頭から角が生えて、牛になっちまうぞ!!」


「王室は、俺たちを家畜にする気か!!」


 広場は、凄まじい大パニックと暴動寸前の熱気に包まれていた。


「……王妃様。事態は最悪です」

 バルコニーから見下ろしながら、アーサーが冷徹に報告する。


「市民たちは『牛痘法』を未知の黒魔術か毒薬だと信じ込んでいます。無理もありません。健康な体にわざわざ病気の膿を擦り込むなど、彼らの常識では理解の範疇を超えています」


「くっ……! イギリスのジェンナーも、発表した時に『牛になる』って風刺画を描かれて大バッシングされたって歴史で習ったけど、本当にそのままの反応をするなんて……!」

 私は、頭を抱えてうめいた。


「マリー。ここは強制的に軍を出動させ、一人残らず拘束して接種させるしか……」

 ナポレオンが物騒な提案をするが、私は首を横に振った。


「ダメよ。そんなことをしたら、それこそ『王室の暴政』だわ。せっかく築き上げた市民との絆が壊れてしまう」


「だがアントワネット! このままじゃ、パリの街が天然痘で全滅してしまうよ!」

 ルイが焦燥感に駆られて叫ぶ。


「ええ。だから、言葉で説得できないなら『行動』で示すしかないわ。……私たちが、一番最初に、みんなの目の前で打ってみせるのよ!」


 私は扇子を強く握りしめ、覚悟を決めた。


「王族全員で『公開接種』を行うわ! 私たちが角も生えず、元気にピンピンしている姿を見せれば、市民たちも安心するはずよ!!」


 * * *


 翌日。

 チュイルリー宮殿の中庭に特設されたステージには、数万人のパリ市民が固唾を呑んで見守る中、私たちフランス王室の家族がズラリと並んでいた。


 私、ルイ、ジョゼフ、そしてテレーズである。


「パリの市民たちよ!! よく見なさい!!」


 私がメガホンで広場に向けて高らかに宣言する。


「この『種痘』は、あなたたちの命を守る最強の盾よ! 何も恐れることはないわ! まずは、私たち王族が自らの体にこの薬を取り込み、完全な安全を証明してみせるわ!!」


 私の言葉に、広場はシンと静まり返った。


「サンソン先生、ルイ! 用意はいいわね!」


「はい、王妃様。牛痘ワクチンの培養は完璧です」

 白衣を着たサンソン先生が、ガラスの小瓶を恭しく掲げる。


「そして、接種の痛みを極限まで減らすために、僕が徹夜で開発したのがこれだ!!」

 ルイが、真鍮製の奇妙な形をした機械を取り出した。


「名付けて『空気圧式無痛ポンピング種痘器』!!」


「「「お、おおお……?」」」

 市民たちがざわめく。


「従来の、ナイフで皮膚をガリガリと削る野蛮な方法じゃない! 空気圧を利用して、微細な針束をバネの力でシュパッ! と皮膚の表面にだけ一瞬で打ち込み、同時に薬液を擦り込む画期的なデバイスだ!! これなら痛みは蚊に刺された程度で済む!!」


(……出たわね、オタク王の魔改造医療ガジェット! でも、これなら子供たちも怖がらずに済むわ!)


「まずは僕からだ!」

 ルイは腕まくりをし、太い腕をサンソン先生に差し出した。


 シュパッ!


「ほら、痛くない! そして牛にもならない!!」

 ルイは、ドヤ顔で筋肉をアピールした。


「次は私ね!」

 私も堂々と腕を出し、シュパッ! と接種を受けた。チクッとしたが、本当に蚊に刺された程度の痛みだった。


「ほら、見ての通りよ! 角なんか生えないし、とっても元気よ!」

 私がクルリと回って見せると、市民たちから「おお……!」「王様と王妃様が平気なら、本当に安全なのか……?」と、安堵のどよめきが広がり始めた。


「さあ、次はジョゼフの番よ」

 私が優しく声をかけると。


「ぼ、ぼく……」


 ジョゼフは、真鍮の不気味な注射器を前に、顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。


 いかに成長したとはいえ、彼はまだ7歳の男の子。尖った針の恐怖は、理屈では抑えきれないのだ。


「で、殿下……。無理をなさらなくても……」

 サンソン先生が困惑する。


「……殿下。兵士たるもの、見えない敵にも立ち向かう勇気が必要ですぞ」

 ステージの袖から、ナポレオンが腕を組んで冷徹にハッパをかける。


「痛ければ私が代わりに……いえ、それは生体構造上、意味を成しませんね」

 アーサーが、全く役に立たない過保護な発言をする。


「うぅ……っ。で、でも……」

 ジョゼフが涙目になって後ずさりそうになった、その時。


「あうー!(しっかりしなさい、お兄ちゃん!)」


 ベビーベッドの中から、テレーズが、短い腕をパタパタさせてジョゼフに向かって声援を送った。


 その瞬間。

 ジョゼフの瞳に、バチッ! と「兄としての誇り」の炎が宿った。


(……そうだ。ぼくは、お兄ちゃんなんだ! テレーズの前で、情けないところなんか見せられない!! ぼくが、テレーズを守るんだから!!)


「……ぼくは、フランス王太子だ! これくらい、平気だもん!!」


 ジョゼフは、震える右腕をグッと前に突き出した。

 サンソン先生が、素早く種痘器を当てる。


 シュパッ!


「…………あれ?」


 ジョゼフは、目をギュッと瞑っていたが、恐る恐る目を開けた。


「いたくない……。パパの機械、ぜんぜん痛くないよ!!」


「よくやったぞ、ジョゼフ!! お前は世界一勇敢な王子だ!!」

 ルイが、ジョゼフを高く抱き上げて歓喜の声を上げる。


「「「うおおおおおおっ!! 王太子殿下、万歳!!!」」」

 その勇気ある姿に、広場のパリ市民たちから割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。


 恐怖の空気は、完全に払拭された。

 王室が自らの体を張って証明したことで、群衆の迷信は完璧に粉砕されたのだ。


「さあ! 最後は、我が国の宝、可愛いマリー・テレーズ王女よ!」


 私が満面の笑みでベビーベッドを振り返った、その時。


(……は?)


 ベッドの中のテレーズは、顔面を土気色にして、全身の血を完全に凍りつかせていた。


(ちょっと待ちなさいよ。……あの野蛮な針を、この私に突き刺すって言うの!?)


 テレーズのサファイアブルーの瞳が、パニックで激しく泳ぐ。


 彼女は、前世でギロチンにかけられたトラウマから、「刃物」や「尖ったもの」に対する恐怖が人一倍、いや常人の何百倍も強かった。


(しかも、牛の膿!? 牛の病気のドロドロの膿を、私の、この透き通るような白百合の肌に塗り込む!? 不敬罪よ! 王族に対する最悪の侮辱よ!! 誰か、今すぐこの儀式を止めなさい!!)


 テレーズは、私に向けて殺意と懇願の入り混じった猛烈なアイコンタクトを送った。


(ママン! ちょっとママン!! 私は絶対にやらないわよ! お腹が痛いとか適当な理由をつけて私をベッドごと部屋に戻しなさい! さもないと寝首を掻くわよ!!)


「さあ、テレーズもチックンしようねー♡」


 だが、私は彼女のテレパシーをガン無視し、満面の笑みで彼女をベッドからヒョイと抱き上げた。


(この悪魔ァァァァッ!! わざとね!? 絶対に分かっててやってるわね!!)


「テレーズ、大丈夫だよ! パパの機械、全然痛くなかったから!」

 ジョゼフが、心配そうに覗き込んでくる。


(あなたに心配されたくないわよ! あんな鉄のバケモノみたいな注射器、ギロチンより怖いわよ!! 逃げる……! 逃げなきゃ……っ!)


 テレーズは、赤ん坊の小さな手足を必死にジタバタさせて私の腕から抜け出そうとしたが、大人のホールド力から逃れられるはずもない。


「サンソン先生、お願いね」


「はっ。王女殿下、少しだけチクッとしますよ」


 サンソンが、冷たい真鍮の機械を、テレーズの細くて柔らかい腕に押し当てた。


(やめて! 私は絶対泣かないわ! フランス王妃の誇りにかけて、民衆の前で無様に泣き叫ぶなんて……そんな醜態、絶対に晒さないわ!!)


 テレーズは、ギュッと目を閉じ、唇から血が出るほど強く噛み締めた。


 ——シュパッ。


 瞬間。

 パパが「蚊に刺された程度」と自慢していた、バネ式の鋭利な衝撃が、赤ん坊の極めて繊細で痛みに敏感な神経を、ダイレクトに直撃した。


(——ッッッ!?!?)


 痛い。

 普通に、めちゃくちゃ痛い。

 大人の分厚い皮膚ならともかく、プルプルの赤ちゃん肌には、それはもう強烈に痛かった。


(い、いッッッッったぁぁぁぁぁぁぁぁい!!!!!!)


 テレーズの脳内で、王妃のプライドという名のダムが、音を立てて木っ端微塵に決壊した。


 生理的な涙が、ポロポロと大きな瞳から溢れ出す。堪えようとすればするほど、顔中の筋肉がくしゃくしゃに歪んでいく。


「……っ……ふぇ……」


(ダメよ、泣いちゃダメ! 私は誇り高きマリー・アントワネット……! 泣くものか……っ!)


「あ、あうぅぅ……」


(泣かない、私は……!)


「——びぇぇぇぇぇぇぇぇんっ!!! ふぎゃぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」


 ダメだった。

 チュイルリー宮殿の前庭に、テレーズの全力の、そして魂からの大号泣が響き渡った。


 顔を真っ赤にして、短い手足をバタつかせ、これ以上ないほど「普通の赤ん坊」として、彼女は広場のど真ん中で泣き叫んだのだ。


「ああっ! ごめんねテレーズ! 痛かったでちゅね〜!!」

 ルイが慌てて駆け寄り、オロオロしている。


「テレーズ! だいじょうぶ!? 痛いの痛いの、飛んでけー!!」

 ジョゼフが、泣きじゃくる妹の手を握りしめ、必死になだめようとする。


 ……その光景を見ていた、広場の数万人のパリ市民たちは。


「……わぁ……」


「あんなに賢そうで、お人形みたいだった王女様も……やっぱり、普通の赤ちゃんなんだな」


 誰かが、ポツリと呟いた。

 その言葉を皮切りに、群衆の中に、クスクスという笑い声と、えも言われぬ『安堵の空気』が広がり始めた。


「なんだか、ホッとしたぜ。王族も、ウチのガキと同じで注射が怖いんだな」


「本当に安全な薬だからこそ、王女様にも打ったってことだ! よし、俺たちも打つぞ!!」


「俺のガキも頼むぜ、サンソン先生!!」


 完璧すぎる王室が、最後にちょっとだけ見せた「赤ちゃんの無様な号泣」。


 それが最高のスパイスとなり、市民たちの王室への『親近感』と『信頼』を、完全に限界突破させたのである。


「「「王室万歳!! フランス万歳!!」」」


 割れんばかりの歓声が響き渡る中。


(……もう、お嫁に行けない。私の尊厳が、王妃としてのプライドが、群衆の前で完全に死んだわ……。ママンのバカぁぁぁっ……)


 テレーズは、私の腕の中で、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、絶望の淵に沈んでいた。


「ふふっ。よく頑張ったわね、私の可愛いテレーズ。痛かったわね、ごめんね」


 私は、泣きじゃくる彼女の背中を、優しくトントンと叩いてやった。


(……うるさい、触らないで。……でも……トントンするのは、やめないで……っ)


 テレーズは、悔しいやら安心したやらで、複雑な感情を抱えながらも、私の温かい胸の中で、やがて泣き疲れてスゥスゥと眠りに落ちていった。


 * * *


 かくして、王族自らが体を張った「公開種痘」は大成功を収めた。


 翌日から、パリ市内に設置された臨時接種所には市民が長蛇の列を作り、牛痘ワクチンは驚異的なスピードで普及していった。


「素晴らしい成果ですわ! これで労働人口の減少を防ぎ、経済の停滞リスクを完全にゼロにできました!」

 ジャンヌが、帳簿を抱えて歓喜の舞を踊る。


「見えざる敵に対する、最強のバイオ防衛網の完成ですね。王妃様と、テレーズ王女殿下の大号泣という『心理的戦術』には、脱帽です」


 ナポレオンが、皮肉めいた笑みを浮かべながら敬礼する。


 天然痘という、ヨーロッパ中を震え上がらせる死の病魔は、フランスにおいてはその牙を剥く前に、完璧な物理と科学の防壁によって防ぎ切られた。


 マリー・アントワネット、29歳。

 娘の尊厳を代償にして手に入れた、病なき健康都市フランス。


 私たちの愛する国は、今日もまた一つ、誰もが笑顔で暮らせる無敵のユートピアへと進化を遂げたのである。

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