第210話 伯父の髭と夢
1785年、秋。
パリ中央ターミナル駅のプラットホームに、金属が擦れる鋭いブレーキ音とともに『ベルサイユ・エクスプレス』が滑り込んだ。
「ば、馬鹿な……! 本当に地を滑るように走ってきたぞ!」
特等客車から飛び出してきた大柄な男——神聖ローマ帝国皇帝にして私の実兄、ヨーゼフ2世は、興奮冷めやらぬ様子で機関車の漆黒の車体を撫で回した。
だが、その声の端で「ゴホッ」と短く乾いた咳を漏らし、口元をハンカチで覆う。
「しかもこのサスペンション! 馬車特有の脳髄を揺らすような振動が全くなかった。信じられん!」
「お気に召して光栄です、義兄上!」
作業着姿のルイと、純白のドレスを着た私が近づくと、ヨーゼフはハンカチを素早く懐にしまい、目を見開いた。
「おお、マリー! ルイ陛下! パリの街並みには度肝を抜かれたぞ。かつての悪臭漂うスラムの面影が微塵もないではないか」
「ふふっ。ゴミの分別を徹底させただけですわ。……お兄様、少しお疲れではありませんか? お顔色が優れないようですが」
「長旅の疲れが少し出ただけだ。それより、その『徹底』が規格外なのだ、お前たちは」
ヨーゼフは苦笑して誤魔化し、私たちはそのまま馬車でチュイルリー宮殿へと向かった。
* * *
宮殿の作戦会議室。
ワイングラスを傾けながら、ヨーゼフは真剣な眼差しで口を開いた。
「マリー、ルイ陛下。今日ここへ来たのは、ただの視察ではない。……『次なる要請』をするためだ」
ヨーゼフの語るところによれば、かつて私がオーストリアの保守派貴族に突きつけた「農奴解放と市場アクセス権」が功を奏したらしい。
農奴から解放された民衆は自発的に農業を近代化し、オーストリアはかつてない空前の農業バブルを迎えているという。
「だが、生産量が上がりすぎて、馬車や川船では到底運びきれん。作物が倉庫で腐っていくのを指をくわえて見ているなど、皇帝として許せんのだ」
ヨーゼフは身を乗り出した。しかし、その呼吸はどこか浅く、無理をして声を張っているように聞こえた。
「だからこそ、この目で確かめに来た。ルイ陛下、マリー。あの『鉄の馬』と、レール敷設技術のライセンスを、我が神聖ローマ帝国に供与していただきたい!」
「技術供与の件は、明日の首脳会談でジャンヌたちを交えてじっくり話し合いましょう。……それよりお兄様、ゆっくりお休みになって。新しい家族を紹介するわ」
「おお、そうであった! 手紙で聞いてから、ずっと楽しみにしていたのだ!」
政治の話を切り上げ、私たちはプライベート・サロンへと移動した。
* * *
サロンの窓辺。
ベビーベッドの中で、生後数ヶ月のマリー・テレーズが静かに横たわっている。
(来たわね……)
テレーズは、入室してきた大柄な男をじっと見つめた。
(兄様……)
前世では、小言ばかり言う口うるさい兄だと思っていた。だが、タンプル塔の牢獄で死の淵に立たされた時、実家がいかに自分を救おうと奔走してくれていたかを知った。
その兄が今、立派な皇帝として国を導き、こんなにも晴れやかな笑顔を浮かべている。
(……お兄様。元気だったのね。よかった。本当に……)
テレーズのサファイアブルーの瞳が、じんわりと熱い涙で潤んだ。
だが、近づいてきた兄の顔を至近距離で見た瞬間、彼女の心の奥に「冷たい不安」がよぎった。
(……お兄様? どうしてそんなに、目の下に濃い影を作っているの……? 無理に作ったような作り笑い……。それに、呼吸のたびに微かに胸が鳴っているわ)
史実において、ヨーゼフ2世の命を奪うこととなる不治の病――『結核』。
18世紀のヨーロッパにおいて「白いペスト」とも呼ばれたこの病魔は、特効薬など存在せず、発症すれば肺を静かに食い破り、確実な死をもたらす絶望の代名詞であった。
その『死の気配』が、すでに今の彼の体を蝕み始めていることに、テレーズの鋭い観察眼は気づいてしまったのだ。
そんな彼女の不安をよそに、ヨーゼフはベビーベッドを覗き込み、息を呑んだ。
「おおお……! なんという美しさだ。まさにハプスブルクとブルボンの血が結実した天使ではないか!!」
(ええ、ええ。もっと褒めなさい。あなたの可愛い妹なのだから……って、ちょっとお兄様、無理しないで……!)
テレーズが心配そうに身をよじった、その瞬間。
「ああ、たまらん!! 伯父様でちゅよ〜! テレーズちゃ〜ん、いないいない、ばぁっ!!」
ヨーゼフは皇帝の威厳をすべてかなぐり捨て、顔をだらしなく崩しながらベビーベッドに顔を突っ込んできたのだ。
(…………は?)
テレーズの心配と涙は、一瞬で干上がった。
「おおよしよし、伯父様が抱っこしてあげまちゅからね〜!」
ヨーゼフは嫌がるテレーズをヒョイと抱き上げると、無精髭の生えた硬い頬を、テレーズの柔らかいほっぺに全力でスリスリと擦り付け始めた。
「ジョリッ、ジョリジョリジョリッ!!」
「あ、あううううっ!!?(痛い痛い痛い!! 病気かもって心配して損したわ! なにやってんのよこのヒゲ皇帝!!)」
テレーズの心の中で警報が鳴り響く。
「いやぁ、マリー! この子は本当に大人しいな! 私のヒゲの感触が気に入ったみたいだぞ! ほ〜ら、ジョリジョリ……ゴホッ! ゴホッ!!」
突如、ヨーゼフは顔を赤くして激しく咳き込み、テレーズを慌てて私へと差し出した。
「お兄様! 大丈夫ですか!?」
「す、すまない……。少し気管に埃が……ゲホッ」
懐からハンカチを取り出し、口元を押さえて荒い息を吐く。
(……強がっているけれど、やっぱりおかしいわ。あの咳、ただの埃じゃない)
私に抱きしめられたテレーズは、赤く擦れた頬をヒクヒクさせながら、痛ましげな目でヨーゼフを睨みつけた。
(……前言撤回。やっぱりこの兄、デリカシーに欠けるただの堅物よ。でも……お願いだから、無理して倒れたりしないでよね……)
「さて、ルイ陛下! 可愛い姪っ子の顔も見られたし、今夜は互いの国の未来について、酒でも飲みながら男同士で語り合おうではないか!」
「ええ、大歓迎です義兄上! 実は最近、宮殿の地下に新しい『蒸気式ロウリュ・サウナ』を完成させたばかりでしてね! ぜひご案内しましょう!」
呼吸を整え、再び気丈に笑い声を上げるヨーゼフと、それに意気投合してサロンを出て行くルイの背中を見送りながら。
「……あうぅぅ。(……最悪だわ。私の尊厳がまた一つ削られた……けれど、お兄様の体は絶対に診てもらうべきだわ)」
テレーズが、私の腕の中で力なくうなだれる。
「よしよし。後でローズウォーター入りの最高級クリームを塗ってあげるからね」
私は彼女の小さな頭を撫でながら、明日から始まる「大陸規模の熾烈な外交交渉」の行方に思いを馳せるのだった。
翌日。
チュイルリー宮殿の会議室にて、フランスとオーストリアによる、極秘の首脳会談が開催された。
オーストリア側はヨーゼフ2世ただ一人。
対するフランス側は、私とルイ、そしてナポレオン、タレーラン、ジャンヌといった我が国の最高頭脳アベンジャーズが勢揃いしていた。
さらに、会議室の片隅には『情操教育の一環』という名目で、マリー・テレーズのベビーベッドが置かれている。もちろん、これは彼女が政治の裏側を監査するための特等席である。
「……さて、皇帝陛下。我が国の『蒸気機関車』および『水硬性セメント』の技術ライセンス供与の件ですが」
ジャンヌが、銀縁眼鏡をギラリと妖しく光らせながら、分厚い契約書をドンッとテーブルに置いた。
「現在、オーストリアの農業は空前のバブルを迎えており、莫大な国庫の潤いがあることは我が財務局も把握しております。そこで、特許使用料として『初期導入費一千万リーブル』、さらに今後敷設される鉄道路線の収益から『毎年四十五パーセントのロイヤリティ』を頂戴したいと存じますわ」
「なっ……よ、四十五パーセントだと!?」
ヨーゼフは、目玉が飛び出んばかりに驚愕し、持っていた羽ペンを取り落とした。
「いくらなんでも暴利すぎる! それでは我が国の農民たちが汗水流して得た利益の半分が、そっくりそのままフランスに吸い上げられてしまうではないか!」
「技術にはそれだけの価値がありますわ。払えないのであれば、今まで通り馬車でチンタラと運ぶしかありませんわね。……作物が腐る前に、よくお考えになって?」
ジャンヌは、悪魔の金庫番としての本領を遺憾なく発揮し、一切の容赦なくヨーゼフを追い詰めていく。
(……ちょっと!! なにあの眼鏡女!!)
ベビーベッドの中で、テレーズは腸が煮えくり返っていた。
(私の実家から、血の最後の一滴まで絞り取る気!? いくら技術が凄くても、四十五パーセントなんて国家の独立を脅かすレベルの不平等条約じゃないの! この泥棒、早くあの女を止めなさいよ!!)
テレーズは、私に向けて猛烈なアイコンタクトを送り、小さな指でベビーベッドの柵をトントン、トン、とリズミカルに叩き始めた。
それは、私とテレーズの間で密かに決めていた『サイン』だった。
(……ん? テレーズからのサインね)
私は、紅茶を飲むふりをしながら、テレーズの指の動きを読み取った。
『実家からボッタくるな。関税免除と引き換えに技術を無償供与しろ。そして大陸横断鉄道を敷け』
(……なるほど。目先のライセンス料より、関税撤廃による巨大経済圏の構築を狙えってことね。さすが元・王妃、スケールが違うわ!)
私はカップをコトリと置き、静かに口を開いた。
「ジャンヌ。その契約書は下げなさい」
「……え? 王妃様、しかしこれほどの利益を逃すなど……」
「いいから」
私はジャンヌをピシャリと制し、ヨーゼフに向かって、全く別の『地図』を広げて見せた。
「お兄様。ライセンス料なんて、一リーブルもいりませんわ」
「な、なんだと!?」
ヨーゼフだけでなく、ジャンヌやナポレオンまでもが驚きの声を上げた。
「私は、フランスの技術でお兄様の国から小銭を巻き上げるつもりはありません。……その代わり、一つ条件があります」
私は、地図の上でパリとウィーンを真っ直ぐに結ぶ線を引いた。
「フランスとオーストリア。両国の間に存在するすべての『関税』を完全撤廃してください。そして、パリからウィーンまで、途中の国境を無視して一直線に繋がる『大陸横断鉄道』を、両国の共同出資で敷設するのです」
会議室が、水を打ったように静まり返った。
「大陸横断……鉄道……」
「ええ。私たちの国が鉄の道で直結し、関税ゼロで物資が自由に行き来するようになれば……ヨーロッパの中央は、事実上、フランスとハプスブルク家が支配する『単一の超巨大経済圏』になります。そうなれば、ライセンス料なんて目じゃないほどの天文学的な富が、両国に永遠にもたらされ続けるわ」
それは、現代で言えばEUの経済統合を、鉄道という物理的なインフラで一世紀前倒しで実現してしまうという、あまりにも壮大で狂気的なビジョンだった。
「……素晴らしい」
ナポレオンが、震える手で顔を覆い、歓喜の笑みを漏らした。
「この鉄道網が完成すれば、他国は我々二つの大国に経済的に依存せざるを得なくなる。……完璧な、覇権の掌握だ」
「な、なるほど……! 鉄道のロイヤリティなどという小さな果実ではなく、ヨーロッパ全体の物流の心臓部を握るということですね! 王妃様、私の浅はかでしたわ!!」
ジャンヌも、さらに上の桁の利益を計算し、目を回して倒れそうになっている。
そして何より、ヨーゼフ2世は、震える手で地図を見つめ、私に向かって深い畏敬の念を込めた目を向けた。
「マリー。お前は……そこまで世界全体を見据えていたのか。小国の利益の奪い合いではなく、ヨーロッパ全体の平和と繁栄を、鉄の道で創り上げようというのだな」
「ええ、お兄様。私たちは、もう争う必要なんてないのよ」
私は優雅に微笑みながら、心の中でベビーベッドのテレーズに(ナイスアシストよ!)とウィンクを送った。
テレーズもまた、(ふん、当然でしょ。私の実家とフランスの利益、両方を最大化するのが真の王妃の務めよ)と、ドヤ顔で小さく頷き返していた。
最強の母娘によるステルス・タッグ外交が、ここにヨーロッパの歴史を根本から書き換える『巨大な鉄の絆』を生み出したのである。
* * *
その日の夜。
外交交渉の大成功を祝し、チュイルリー宮殿の地下に新設された『王立デトックス・サウナ』では、男たちだけの熱い宴が繰り広げられていた。
シュゥゥゥゥッ!!
熱く焼けたサウナストーンに白樺のアロマ水がかけられ、凄まじい熱波が室内を満たす。
「おおおおっ!! なんだこの熱気は! 息をするだけで肺が焼けるようだぞ!!」
全裸でサウナハットを被ったヨーゼフが、滝のような汗を流しながら絶叫する。
「ハッハッハ! 義兄上、これこそが我がフランスの誇る最強の健康インフラ『サウナ』です! さあ、このヴィヒタで背中を叩かせてください! 血流が爆発的に良くなりますよ!!」
「うおぉっ! 痛い! だが……ここ最近、ずっと胸の奥が鉛のように重苦しくてな。不思議とこの熱気で、悪いものが吹き飛ぶような気がする……!」
バシッ、バシッ! と、同じく全裸のルイが、見事な大胸筋を揺らしながらヨーゼフの背中を叩く。
しかし、ルイは手首の感触から、ヨーゼフの背中が異常なほど熱く、呼吸が小刻みに乱れていることに気付いていた。
「……無理はしないでください、義兄上。もし体調が優れないなら、サンソン先生に診てもらった方が……」
「ハハハ! 帝国の未来を背負う皇帝が、この程度の熱気でへこたれてたまるか!」
ヨーゼフは、汗を拭いながら、目の前にいる妹の夫——ルイ16世の肉体をまじまじと見つめ、強がって笑い飛ばした。
かつてウィーンで聞いていた「気弱で太った錠前オタク」という噂は、微塵も感じられない。毎日のスクワットと肉体労働で鍛え上げられた、分厚い胸板と丸太のような腕。そして何より、瞳に宿る「国を背負う男」としての絶対的な自信と覇気。
(……マリーめ。こんなにも頼もしい男を夫にしていたとは。私の心配など、全くの杞憂であったな)
サウナの奥では、アーサーが全身の古い傷跡を隠すこともなく、無言で熱波に耐え、ナポレオンもまた、小柄ながらも引き締まった体で静かに汗を流している。
身分も国境も関係ない。ただの「一人の男」として、裸で熱さと向き合い、語り合う。
ヨーゼフは、己の肉体を蝕む病魔の気配を気力で押さえ込みながら、汗まみれの顔で真剣に語りかけた。
「ルイ陛下」
「私の可愛い妹を、そしてフランスの民を、これほどまでに立派に守り抜いてくれていること……兄として、そして同盟国の君主として、心から感謝する」
「義兄上……」
ルイは、ニカッと太陽のように笑った。
「僕一人じゃない。マリーがいて、ここにいる最高の仲間たちがいたからできたことさ。……これからも、オーストリアとフランスで、一緒に世界を良くしていきましょう!」
「ああ! 約束しよう!」
熱いサウナ室の中で、二人の君主の固い握手が交わされた。
それは、どんな外交文書よりも熱く、そして強固な「男たちの絆」であった。
* * *
数日後。
すべての視察と交渉を終え、ヨーゼフ2世がウィーンへと帰国する朝。
パリ中央ターミナル駅のプラットホームで、私たちは彼を見送りに来ていた。
「マリー。今回の訪問で、私はこの国がどれほど素晴らしい未来を歩んでいるか、骨の髄まで理解したよ」
ヨーゼフは、私に向かって深く微笑みかけた。
「お前は、本当に立派な『国母』になったな。母上も、きっと天国で誇らしく思っているだろう。……体を大切にな」
「お兄様こそ、お顔色が少し優れませんわ。帝国のために働くのも立派ですが、どうか無理は禁物ですよ。鉄道が完成したら、一番にウィーンへ遊びに行きますからね」
「ハハハ、帝国の未来を背負う皇帝が、弱音など吐けるものか! 次に会う時は、さらに強国となったオーストリアを見せてやろう!」
強がって笑う兄と、別れの抱擁を交わす中。
私の腕に抱かれたテレーズは、静かに、兄の顔を見つめていた。
(……お兄様。あなたは相変わらず、少し不器用で、熱苦しくて、ヒゲがジョリジョリで痛かったけれど。……でも、本当に立派な皇帝になったわね)
前世では、常に心配ばかりかけていた兄。
今、病魔という見えない敵を抱えながらも、弱みを見せずにオーストリアを背負い、フランスと手を取り合って平和な未来へと向かって帰っていく。
その背中を見送りながら、テレーズは、彼が遠からずこの世を去る運命にあることを予感し、奥歯を噛み締めた。
(……お母様)
テレーズは、私を見上げ、その首元に小さな頭をコテンと預けた。
(私は絶対に、お兄様を……私の実家を助けられるだけの力を、このフランスで手に入れてみせるわ。……ありがとう、泥棒。私たちに、抗う力をくれて)
「あーうー♡」
テレーズが、この数ヶ月で一番の、純度百パーセントの「無邪気な笑顔」を見せると、ヨーゼフは最後に「おおっ! テレーズちゃんも伯父様との別れが寂しいのでちゅね〜!」と咳き込みながらも号泣し、特別列車へと乗り込んでいった。
「ふふっ。テレーズも、お兄様とのお別れが寂しいのね」
私が彼女の頭を撫でると、テレーズはフイッと顔を背けて、私の腕の中で静かに目を閉じた。
秋風が吹き抜けるプラットホーム。
遠ざかっていく汽笛の音を聞きながら、私は、この平和な世界が、大陸を越えてどこまでも広がっていく未来を、確信していた。
二人のマリー・アントワネットが結んだ、秘密の共犯関係。
それは、フランスだけでなく、ヨーロッパ全土の歴史を、最高にハッピーな黄金時代へと導く、最強のタッグの始まりだったのである。




