第208話 新首飾り事件
パリから遠く離れた、プロイセン王国・ベルリンの裏路地。
日の光も差し込まない薄暗い地下室で、二人の男がテーブルを挟んで向かい合っていた。
「……準備は整ったか、カミーユ」
深いフードを被り、怪しくも妖艶な笑みを浮かべる男——稀代の詐欺師であり、魔術師を自称する男、アレッサンドロ・ディ・カリオストロ。
「ええ。完璧です、カリオストロ伯爵。パリに潜伏させている我が同志たちに、大量の『怪文書』を刷らせました」
答えたのは、ボロボロのコートを着た神経質そうな青年。
かつてパリで革命の火種を撒き散らそうとし、マリー・アントワネットたちによって粉砕され、国を追われた若き扇動家、カミーユ・デムーランであった。
「くくく……。憎きマリー・アントワネットめ。我々をコケにしてくれた恨み、今こそ晴らす時だ。偽りの人気など、この『首飾り』一つで、崩壊させてやる」
カリオストロの目の前には、設計図のような紙が広げられていた。
そこには、数百個の最高級ダイヤモンドを贅沢に配置した、見たこともないほど豪奢な首飾りの絵が描かれている。
「すでに、パリの愚かな宝石商どもには『王妃様の極秘の注文だ』と吹き込み、この超高額な首飾りを宮殿に納品させた。そして同時に、カミーユ、お前が用意したビラをパリ中にばら撒くのだ」
『王妃マリー・アントワネットは、民衆が汗水流して納めた税金を横領し、自分を飾り立てるための宝石を買った』と。
「……素晴らしい」
カミーユの瞳が、狂気のような暗い情熱にギラギラと輝いた。
「民衆というものは、常に『怒り』の対象を求めているのです! いくら今、パンが安かろうと、生活が豊かであろうと関係ない! 絶対的権力者が、自分たちの金をネコババして贅沢をしているという『疑惑』さえぶら下げてやれば……連中は群衆心理に呑まれ、一瞬で暴徒と化す!!」
「その通りだ。王室の信頼は地に堕ち、再びチュイルリー宮殿は怒れるパリ市民の炎に包まれるだろう。……さあ、復讐の狼煙を上げろ! この歴史的な大事件の名を、『首飾り事件』と名付けるのだ!!」
「ははははははっ!! 燃えろ! 燃え上がれ、フランス!!」
薄暗い地下室に、二人の復讐者による、邪悪な高笑いが響き渡った。
フランス王室を奈落の底へ突き落とす、完璧で致命的な罠。
史実においても、マリー・アントワネットの評判を地に堕とし、フランス革命への決定的な引き金となった最大の事件が、今生でもついに牙を剥いたのである。
* * *
数日後。チュイルリー宮殿、王妃のサロン。
「……なにこれ」
私は、目の前のテーブルに置かれたビロードの箱を開け、呆れたような声を上げた。
中に入っていたのは、目が潰れそうなほどギラギラと輝く、巨大なダイヤモンドの首飾りだった。
「計算するまでもありませんが……純度、カット、カラット数のすべてにおいて規格外。市場価値にして、およそ160万リーブルは下らないかと」
ラプラスが、眼鏡を押し上げながら冷静に分析する。
「ひゃっ!? ひゃ、ひゃくろくじゅうまんっ!?」
ジャンヌが、泡を吹いて倒れそうになった。
「王妃様! まさか、国庫の裏金を使ってこんな無駄な石っころを買ったのではありませんわよね!? 今月の予算はすでに蒸気機関の改良費でカツカツなんですのよ!?」
「買ってないわよ! そもそも、こんな肩が凝りそうな趣味の悪い首飾り、頼まれてもいらないわ!」
私が全力で否定した、その時。
「……あうぅっ!!(こ、これは……っ!!)」
ベビーベッドの中で、愛娘テレーズが、ガタガタと激しく震え出した。
(お母様! これは罠よ!!)
テレーズのサファイアブルーの瞳が、血走ったように見開かれ、私に猛烈なアイコンタクトを送ってくる。
(前世で……私をギロチンへと追いやった、一番の原因!『首飾り事件』よ! 誰かが私の名前を騙って宝石商に買わせ、その罪を私に被せようとしているの! 早く火消しをしないと、パリの民衆が暴動を起こすわ!!)
テレーズの顔は蒼白だった。
無理もない。前世で彼女は、全く身に覚えのないこの首飾りのせいで「税金を無駄遣いする浪費女」のレッテルを貼られ、取り返しのつかない憎悪を向けられたのだから。
「テレーズ、大丈夫よ。落ち着いて」
私がベビーベッドをそっと撫でて安心させようとした、まさにそのタイミングで。
「……緊急事態です」
バルコニーの窓から、護衛のアーサーが音もなく部屋に飛び込んできた。
「パリ市内に潜伏していた工作員の手により、市街地の至る所に『怪文書』がばら撒かれました。内容は……王妃様が国庫を横領し、160万リーブルの首飾りを購入した、というものです」
「なっ……!?」
ナポレオンが、腰のサーベルに手をかけた。
「卑劣な……! 姿なき扇動攻撃か! アーサー、ただちに近衛隊を出動させ、市街の暴動を鎮圧せよ!!」
「あぁぁっ……あうぅーっ!!(ほら見なさい! 始まってしまったわ! お母様、早く逃げて! 暴徒が宮殿に押し寄せてくるわ!!)」
テレーズが、半泣きになりながらベッドの柵にしがみついた。
完璧なタイミングでの怪文書の散布。
いかに防衛線が強固であろうと、内側からの『民衆の怒り』に火をつけられれば、国は簡単に崩壊する。
サロンに極度の緊張が走った。
が。
「……鎮圧の必要は、全くありません」
アーサーは、どこか不思議そうな、そして若干拍子抜けしたような顔で、首を横に振った。
「パリの民衆は、一人たりとも扇動されていません。それどころか……怪文書をばら撒いた工作員たちが、現在、ブチギレたパリ市民たちによって袋叩きに遭い、次々とセーヌ川に投げ込まれています」
「…………は?」
私も、アベンジャーズも、そしてテレーズも、ぽかんと口を開けた。
* * *
数十分前。パリ市街地、市場の広場。
「読め! 読むんだパリの諸君!! 王妃マリー・アントワネットは、我々の血税を盗み、160万リーブルもの宝石を買ったのだ! あの女は悪魔だ! さあ、武器を取れ!!」
カミーユの差し金である扇動家の男が、木箱の上に立ち、声高に怪文書を読み上げていた。
周囲には、パン屋の主人や、鍛冶屋、日雇い労働者など、大勢のパリ市民が集まってきている。
「さあ、怒りの声を上げろ! チュイルリー宮殿へ進軍するのだ!!」
男が拳を振り上げた、その瞬間。
「……ぷっ。あはははははははっ!!!」
群衆の中から、大爆笑が巻き起こった。
「おいおい兄ちゃん、あんた頭おかしいんじゃねえか?」
パン屋の主人が、怪文書のビラをヒラヒラとさせながら、腹を抱えて笑った。
「あのアントワネット様が? 160万リーブルも出して、ただの『石っころ』を買ったぁ? んなわけねーだろ!!」
「そうよそうよ!」
肉屋の女将が手を叩いて同調する。
「あの王妃様はね、自分の持ってた宝石やシルクのドレスを全部売り払って、ウチらのために『下水道』を作ってくれたんだよ!? ドケチ……じゃなくて、あんなに倹約家で立派なお方が、今さら首飾りなんて買うもんですか!」
「だいたいよぉ、160万リーブルも国庫に金が余ってたら、あの王妃様とオタクの国王様のことだぜ? 絶対に『新しい蒸気船』とか『新型の装甲列車』とか作るに決まってるじゃねえか!!」
「間違いねえ! 先月も、王妃様が『次は飛行船を量産するわよ!』って息巻いてたって、出入りの大工が言ってたぜ!」
ワハハハ! と、市場に健康的な笑い声が響き渡る。
「えっ……? あ、いや、しかし、実際に宮殿には首飾りが……」
扇動家の男は、予想外の反応にパニックになっていた。
「うるせえ! ウチらの大事な国母様を、変なデマでコケにすんじゃねえ!!」
「てめえ、どこの国のスパイだ! イギリスか!? プロイセンか!?」
「ひぃぃっ!?」
「野郎ども、やっちまえ!! 王妃様に泥を塗ろうとするクズは、セーヌ川の底に沈めてやる!!」
怒れるパリ市民のスコップやフランスパンによる猛烈な物理攻撃を受け、扇動家たちはあえなくボコボコにされ、川へと放り込まれたのであった。
* * *
チュイルリー宮殿、サロン。
「……という状況です。現在、パリの治安は極めて良好。民衆の王室に対する支持率は、このデマ騒動に対する怒りの反動で、むしろ過去最高を記録しております」
アーサーの報告を聞いて、サロンはしばらくの間、シン……と静まり返った。
「……うそ……」
ベビーベッドの中で、テレーズは小さな両手で顔を覆い、ワナワナと震えていた。
前世で自分を殺した最強のトラウマ事件が。「あんなドケチが石っころに金を使うわけないだろ(笑)」という、パリ市民の満場一致のツッコミによって、物理的に粉砕されてしまったのだ。
「ぷっ……あははははっ!! なによそれ!」
私がこらえきれずに吹き出すと、ジャンヌもナポレオンも、お腹を抱えて笑い出した。
「さすがは我らが王妃様! 民衆の信頼度が桁違いですわ!」
「群衆心理を逆手にとった、最高の防衛線だな。いやはや、痛快だ」
「あ、あうーっ!(笑い事じゃないわよ! 私のトラウマを返して!! なにがドケチよ! 悔しいけど……悔しいけど、民衆が私の味方をしてくれたみたいで、ちょっと嬉しいじゃないのよぉぉっ!)」
テレーズは、ベッドの上でポカポカとシーツを叩きながら、安堵と悔しさが入り混じった涙目でジタバタと暴れていた。
「さて、と。それじゃあ、この首飾りを持ってきた宝石商はどうなったのかしら?」
私がアーサーに尋ねる。
「はい。まんまと詐欺師に乗せられ、無断で王妃様の名前を使われたことに気づき、現在、宮殿の門の前で土下座して泣いております。代金が回収できなければ、破産すると」
「……かわいそうに。いいわ、アーサー。彼を中に入れてちょうだい」
数分後。
ボロボロと涙を流してひれ伏す宝石商の前に、私は木箱をドンッと置いた。
「騙されたとはいえ、あなたも被害者ね。国庫からは一銭も出せないけれど……私の個人的な『特許収入』の余剰金が貯まっていたから、これで買い取ってあげるわ」
「お、王妃様……!! なんという慈悲深さ……!! このご恩は一生忘れません!!」
宝石商は、私をまるで女神のように拝み倒し、木箱を抱えて帰っていった。
ちなみに、本来なら160万リーブルの価値があるものだが、詐欺事件の証拠品ということもあり、買収額はたったの『10万リーブル』である。
「よしっ! 超格安でダイヤの塊をゲットしたわ!!」
私は、ギラギラと輝く首飾りを手に取り、ルイに向けてウインクした。
「ルイ! これ、どうする? 全部バラバラにして、新しい蒸気機関車のドリルの刃にする?」
「えっ? いやいやアントワネット、さすがにそれはもったいないよ! こんなに綺麗なダイヤなんだから……そうだ!」
ルイは、ベビーベッドの中で疲労困憊しているテレーズの方を見た。
「テレーズが将来、立派なレディになってお嫁に行く時の『嫁入り道具』として、大切に保管しておこうよ。きっと、世界一似合うと思うな!」
「きゃっ!? あ、あーうー♡(……っ! パパ……!)」
テレーズの顔が、ボンッとリンゴのように真っ赤になった。
前世では自分を破滅させた呪いのアイテムが、今世では、父親からの『未来の結婚祝い』としてプレゼントされたのだ。その感情の振れ幅に、元・王妃のプライドも形無しである。
「いいわね、それ! ありがとう詐欺師さん! 悪役のおかげで、タダみたいな値段で最高のプレゼントが手に入っちゃったわ!」
私は、首飾りを太陽の光に透かしながら、大満足で笑った。
* * *
一方、その頃。
プロイセンの薄暗い地下室では。
「な、なぜだ……っ!? なぜ暴動が起きない!! 俺の完璧な復讐計画が!!」
パリの工作員から送られてきた『市民はデマだと大爆笑。工作員はセーヌ川に沈められました』という絶望的な報告書を握りしめ、カリオストロが血の涙を流して絶叫していた。
「嘘だろ……。160万リーブルの横領だぞ!? 普通怒るだろ!? なんの疑いもなく『あのアントワネット様が買うわけない』って、どれだけ信頼されてんだよあの女ぁぁぁっ!!」
カミーユも、頭を抱えて床を転げ回っている。
「許さん……許さんぞマリー・アントワネット!! おのれぇぇぇっ!!」
マリー・アントワネット、29歳。
史実における最大の悲劇『首飾り事件』は、これまで積み上げてきた「圧倒的な内政の功績」という鉄壁の防衛線によって、敵に致命的なダメージを与えるどころか、テレーズの嫁入り道具を格安で提供するだけの『超絶ラッキーなイベント』へと、変貌を遂げてしまったのであった。




