第207話 秋風と乳母車
1785年、秋。
木々が黄金色や赤に染まり始め、パリの街に心地よい涼風が吹き抜ける季節。
マリー・テレーズは、かつてないほどの『屈辱的な乗り物』に乗せられ、パリの市街地を移動していた。
「……ちょっと泥棒。王妃たるこの私が、こんなカゴに詰め込まれて街を歩くなんて正気の沙汰じゃないわ。今すぐ馬車を出しなさい、四頭立ての馬車を!」
テレーズは、乳母車のフードの陰で小さな腕を組み、文句を垂れた。
「文句言わないの。今日はお忍びのお散歩なんだから。それに、スミートン先生特製のサスペンションよ? パリの石畳でも全然揺れないでしょ?」
私は、地味な平民風のドレスを着て、自らの手でガラガラと乳母車を押しながらクスクスと笑った。
現在、護衛のアーサーは「屋根の上」からステルスで私たちを警護している。周囲に一般市民の姿はない。だからこそ、私はこうして堂々と『大人の言葉』で話すことができているのだ。
「乗り心地の問題じゃないわ! だいたい、パリの街なんて……汚物と悪臭と、暴徒の巣窟じゃないの。私に向けられたあの憎悪の瞳と、腐ったキャベツの臭い……思い出すだけで吐き気がするわ」
テレーズは、忌々しい前世の記憶を思い出し、ブルッと身震いした。
ベルサイユからパリへ引きずり出されたあの日。この街の通りは、飢えと怒りに狂った群衆で埋め尽くされ、道端にはゴミと汚水が溢れていた。パリは、テレーズにとって『死と絶望の象徴』そのものなのだ。
「まあまあ。とりあえず、外の景色を見てみなさいな」
私に促され、テレーズは渋々、乳母車のフードから外を覗き込んだ。
そして。
「……え?」
テレーズは、自分の目を疑った。
「……どういうこと? あの腐った卵のような悪臭は? 泥水はどこへ行ったの?」
臭くない。
パリ特有の、吐き気を催すような排泄物と生ゴミの臭いが、一切しないのだ。
それどころか、石畳はチリ一つなく掃き清められ、道の両端には美しい水路が整備され、澄んだ水がサラサラと流れている。
鼻をくすぐるのは、香ばしく焼けたパンの匂いと、どこかのカフェから漂ってくる芳ばしいコーヒーの香りだけだった。
「どう? 綺麗になったでしょ? これが今の……」
私が自慢げに言いかけた、その時。
「おおっ、これは奥さん! 可愛いお嬢ちゃんと一緒で! いつもウチのパンをご贔屓にしてくれてありがとよ!」
道の向こうから、恰幅のいいパン屋の主人が、カゴを抱えて陽気に話しかけてきたのだ。
「……ッ!!」
テレーズは、瞬時に『危険(他人の目)』を察知した。
「あうっ!? きゃぁっ、あーうー♡」
さっきまで腕を組んで眉間にシワを寄せていたテレーズは、コンマ一秒で表情筋を弛緩させ、両手をパタパタと振りながら『純度百パーセントの愛らしい赤ちゃんの笑顔』へと移行した。
「……切り替え早っ!!」
私が、引き攣った笑顔で私を見下ろしているのがわかった。
「当たり前でしょ泥棒! 私が喋れるなんてバレたら魔女裁判にかけられるわ! ほら、早く愛想良く応対しなさい!」
テレーズは、満面の笑みのまま、小声で私を強烈に威嚇した。
「あ、あはは……こんにちは、ジャックさん。今日もいい匂いね」
私はタジタジになりながら、パン屋の主人に挨拶を返した。
「奥さん、聞いてくれよ! 昨日、ついにウチの店にも王妃様が作ってくれた『工場の製粉機』から、最高級の小麦粉が届いたんだ! おかげで、白くてフワフワのパンが、平民の俺たちでも腹一杯食える値段で作れるようになったんだぜ!」
主人は、焼きたての大きな白パンを豪快に笑いながら見せてくれた。
「あのマリー・アントワネット様は、本当に俺たちの『国母』だ! あんたもそう思うだろ?」
「え、ええ。そうね。王妃様も、きっと喜んでるわ」
「ほら、お嬢ちゃんにもオマケだ! 王室直轄の農園から回ってきた、甘くて柔らかいカボチャのペーストだよ。栄養満点だからな!」
主人が、小さな木のスプーンでカボチャのペーストをすくい、私の口元へと差し出してきた。
「あ、あう?(えっ、私に?)」
前世のパリ市民といえば、王族の私に石を投げつける暴徒だった。そのパリ市民が、私に向かって満面の笑みで、タダで食べ物を恵んでくれるというのか。
「ほらテレーズ、あーん」
私に促され、私は『無邪気な赤ちゃん』を演じたまま、小さく口を開けてペーストを口に含んだ。
(……っ! 甘い……)
砂糖の甘さではない。野菜そのものが持つ、太陽の光をたっぷりと浴びた豊潤な甘みが、口の中でとろけるように広がっていく。
「きゃははっ♡ あーうー!(な、なんて美味しいの!)」
「ははは! お嬢ちゃん、いい笑顔だ! いっぱい食べてくれよな!」
主人の大きな笑い声に見送られながら、私たちは再び秋のパリを歩き出した。
* * *
パン屋の主人の姿が角を曲がって見えなくなった瞬間。
「……行ったわね」
テレーズは、両手をパタパタさせるのをピタリとやめ、再び小さな腕を組んで、極めて真顔の『大人のトーン』に戻った。
「信じられないわ」
「え? なにが?」
「さっきのペーストよ。王室直轄地のカボチャと言っていたけれど、土壌の改良と品種改良が完璧に行き届いている証拠ね。あのベルサイユのシェフが作るポタージュより、素材の甘みが極限まで引き出されているわ。……平民のパン屋がこれをタダのオマケで配るなんて、この国の食糧事情は、一体どれだけ豊かになっているのよ」
「ぶっ……あははははっ!!」
テレーズの冷静すぎる『超高度な食レポ』を聞いて、私はついにこらえきれず、お腹を抱えて爆笑し始めた。
「笑い事じゃないわよ! 私は真面目に分析しているの!」
「ご、ごめん、だって……あんなに可愛い声で『きゃはは♡』って笑ってた十秒後に、腕組んで農業分析し始めるんだもん! テレーズ、本当に中身オッサンみたいよ!」
「お、オッサン!? 誰がオッサンよ、この泥棒!!」
私たちは、人目につかない並木道を歩きながら、そんな風に軽口を叩き合っていた。
しかし。
乳母車に揺られながら、テレーズの瞳に映るパリの景色は、進めば進むほど、彼女の心から『軽口』を奪い去っていった。
道行く人々は、誰もが血色が良く、清潔な服を着ている。
子供たちは石畳の上を元気に走り回り、路地裏でうずくまって餓死している者など一人もいない。
遠くからは『ベルサイユ・エクスプレス』の力強い汽笛の音が響き、蒸気機関という新しい時代の心臓が、この国に豊かな血をドクドクと巡らせているのがわかる。
(……信じられない)
テレーズは、前世の自分の治世を思い返していた。王室の権威を守るため、彼女は借金をしてまで豪華なドレスを着飾り、夜な夜な舞踏会を開いていた。それが王妃としての『仕事』だと思っていたからだ。
でも、ドレスを新調するたびに、この街の人々は飢え、怒りを募らせていった。
だが、この泥棒はどうだ。
彼女は、王妃の権威を示す宝石やドレスを売り払い、その金で下水道を掘り、工場を建て、鉄道を敷いた。
泥だらけになって働き、平民の真似事だと貴族から後ろ指を指されても、決して立ち止まらなかったのだ。
『あのマリー・アントワネット様は、本当に俺たちの国母だ!』
先ほどのパン屋の主人の言葉が、脳裏にこだまする。
「……ねえ。泥棒」
私は、乳母車の背もたれに寄りかかりながら、ポツリとこぼした。
「私には……絶対に、できなかったわ」
「え?」
私は、乳母車を押す足をゆっくりと止めた。
「あなたが未来から来たから? 未来の知識があったから? ……ううん、違うわね。いくら知識があっても、それを実行する『覚悟』と、泥を被ってでも国を良くしようとする『途方もない愛情』がなければ、こんな奇跡の街を創り上げることはできないわ」
テレーズは、乳母車の上から、私の顔を静かに見上げた。
彼女の顔は、前世の私と同じ。華奢で、どこにでもいるような女性の顔だ。
それなのに、彼女はこの巨大なフランスという国家の借金と向き合い、諸外国の脅威を退け、そして何より——この気難しくて暴動ばかり起こしていたパリの民衆たちの心を、掌握してしまったのだ。
「ギロチンから逃れるためだけじゃない。あなたは、この国の民を、私の夫を、私の息子を……心の底から愛して、彼らが笑って暮らせる世界を創るために、その身を粉にして戦い続けてきたのね」
テレーズは、ポカポカと温かい秋の陽射しの中で、自分の心の中にあった最後の「意地」が、スゥッと溶けて消えていくのを感じていた。
「……完敗よ」
体を奪われた憎しみも、嫉妬も、もうない。
あるのはただ、眼の前に広がるこの美しいパリの景色と、それを創り上げてくれた彼女に対する、圧倒的なまでの『敬意』だった。
「……テレーズ」
私は、少しだけ目を潤ませると、乳母車から私をヒョイッと抱き上げ、その温かい胸に抱きしめた。
「あなたがいたからよ。あなたが、その身を挺して残してくれた『教訓』があったから。……私が一人で創ったんじゃないわ。これは、私たち二人で創り上げたパリよ」
「……ふふっ。相変わらず、調子のいい人ね」
テレーズは、短い腕を伸ばし、彼女のドレスの首元を小さな指でギュッと掴んだ。
「ねえ、テレーズ。見てごらんなさい」
彼女が指差す先。
そこには、夕日に照らされて黄金色に輝くセーヌ川と、活気に満ちた美しいパリのパノラマが広がっていた。
「これが、私たちが守る国よ。……あなたが大きくなったら、一緒にこの街で、美味しいケーキをたくさん食べ歩きしましょうね」
「……ええ。約束よ」
テレーズは、彼女の肩に小さな頭を乗せ、美しい夕日を見つめながら、ハッキリとした大人の言葉で答えた。
「ねえ。……もう、『泥棒』って呼ぶのは、今日でやめにするわ」
「え? ふふっ、じゃあ、なんて呼んでくれるの?」
「……勘違いしないでよね。あなたのこれまでの功績と、この美しいパリを創り上げた努力に免じて、特別に許可してあげるだけなんだから」
私は、顔を赤くしながらプイッと目を逸らし、しかし、その背中に回した小さな手には、ギュッと力を込めた。
「ありがとう。あなたは、私なんかよりずっと、ずっと……素晴らしいフランス王妃よ。――『お母様』」
秋風が、二人のマリー・アントワネットの髪を優しく揺らす。
テレーズが前世で、どれほど血の涙を流して願っても見ることができなかった、美しく平和なフランスの夕暮れ。
この奇跡の景色を、私はこれから先。
彼女の娘として、彼女の最大の理解者として、一番特等席で見守っていくことができるのだ。
(……ええ。悪くないわ。これからの私の二度目の人生も)
テレーズは、『お母様』の温かい体温に包まれながら、かつてないほどの安らぎの中で、ゆっくりと幸せな眠りの底へと沈んでいったのであった。




