第206話 元息子は、現兄につき
テレーズと和解を果たし、誰にも言えない秘密の共犯関係を結んでから数週間。
生後八ヶ月を迎えたテレーズの日常は、ある一つの「極めて複雑で、精神的な拷問に近い試練」によって彩られていた。
「テレーズ! お兄ちゃんだよ! ほら、きょうはパパといっしょに作った新しい積み木を持ってきたんだ!」
ベビーベッドの柵からひょっこりと顔を出し、夏の太陽のような満面の笑みを浮かべてテレーズを覗き込んでくる金髪の少年。
フランス王太子、ルイ・ジョゼフ。
彼こそが、テレーズの抱える悩みの種であった。
(……ああ。私の可愛い天使。こうして健やかに、血色良く育ってくれているのは、本当に、本当に嬉しいのだけれど……)
テレーズは、夏用の薄く涼やかなシーツの上でお座りをしながら、心の中で盛大なため息をついた。
(なんで、この私が《《妹》》で、あなたが《《兄》》なのよ!!)
そう。
テレーズにとって、ジョゼフは自分が腹を痛めて産んだ『愛する息子』である。しかし、今生においてテレーズは『彼の妹』として産み落とされた。
つまり、「元・息子」が「現・兄」になって世話を焼いてくるという、家系図も前世の記憶もバグり散らかした、前代未聞の奇妙な関係性が成立してしまっているのだ。
「ほらテレーズ、見ててね。お兄ちゃんが、高く積み上げてあげるから!」
ジョゼフは、ベッドの上に積み木を並べ、一生懸命に塔を作り始めた。
(……ジョゼフ。あなた、手先が器用なのはパパ譲りね。ほら、そこは重心がずれているわ。三段目で崩れるわよ)
かつて母親として彼を育てた経験を持つテレーズは、建築家のような視線で彼の遊びを分析する。
「よし! 三段目……ああっ!」
ガシャーン!
案の定、積み木はバランスを崩して派手に崩れ落ちた。
「うぅ……ごめんね、テレーズ。びっくりした?」
シュンと肩を落とし、泣きそうな顔になるジョゼフ。
元母として、「気にすることはないわ。もう一度やり直せばいいのよ」と、優しく言葉をかけて頭を撫でて慰めてあげるところだ。
今のテレーズだって言葉を話すことはできる。泥棒と二人きりの時には、完璧なフランス語で宮廷マナーのダメ出しを流暢に喋っているのだから。
だが、愛するジョゼフの前で「実は中身はお母様なのよ」などと語り出すわけにはいかない。この平和な世界を守るためには、言葉を封じ、完全無欠の『愛らしい妹』を演じ切らなければならないのだ。それに何より、生後八ヶ月の短すぎる腕では、彼の頭を撫でることにすら到底届かない。
「……あうー。(気にしてないわよ。ほら、もう一回やってごらんなさい)」
テレーズが短い腕を精一杯伸ばして、転がった積み木をポンッと叩いて見せると、ジョゼフはパァッと顔を輝かせた。
「テレーズ! お兄ちゃんにもう一回作れって言ってくれてるの!? うん! ぼく、頑張る!」
(……ふふっ。単純で可愛いところは、少しも変わらないわね)
テレーズは、心の奥底で母親としての慈愛を爆発させながら、ニコニコと笑う赤ちゃんプレイを完璧にこなしていた。
だが。
この「元・息子に世話を焼かれる」という状況は、時として、誇り高き王妃のプライドを粉々に打ち砕く『地獄の羞恥心』をもたらすのである。
* * *
じりじりとした強い日差しが照りつける、夏の昼下がり。
泥棒が、ジャンヌと別室で予算会議を行っている間、テレーズはジョゼフと二人きりで風通しの良いサロンに残されていた。
「テレーズ、お腹すいたでしょ! 今日はね、ママンがお仕事だから、ぼくがテレーズのご飯をあげるように頼まれてるんだ!」
ジョゼフは、メイドが運んできた『特製離乳食』の入った銀の器を手に、得意げに胸を張った。
ピタッ。
テレーズの全身が、彫像のようにカチコチに硬直した。
(……は? 待って。今、なんて言った?)
「ほら、お口あけて! テレーズ、あーっ!」
ジョゼフが、小さな匙で夏野菜の冷製ポタージュをすくい、テレーズの口元へと運んできた。
(……や、やめろぉぉぉぉぉっ!!!)
テレーズの心の中で、王妃の尊厳が断末魔の悲鳴を上げた。
ルイにオムツを替えられそうになった時と同じレベルの精神的危機である。
前世で、自分が手塩にかけて育て、自分がスプーンで離乳食を食べさせてあげていた愛する息子。
その息子に! 今世では自分が! 「あーん」と口を開けて、無力な赤ん坊として餌付けされなければならないだと!?
(無理無理無理無理! 死ぬ! 精神的に死ぬわ! かつてのフランス王妃たるこの私が! いくら前世の息子とはいえ、こんな7歳の子供に口元を汚されながら飯を食わされるなんて、絶対に許されない!!)
テレーズは、ギュッと口を一文字に結び、プイッと顔を背けた。
「あれ? テレーズ、にんじんさん嫌い?」
「んーっ!(嫌いじゃないわ! あなたに食べさせられるのが嫌なのよ! スプーンを置きなさい、自分で食べるから!)」
テレーズは短い腕を伸ばし、ジョゼフの手からスプーンを奪い取ろうとした。
しかし、赤ん坊の筋力とリーチでは、7歳の少年の手には届かない。
「だめだよテレーズ! まだ自分じゃ上手に食べられないでしょ? ぼくがお兄ちゃんなんだから、ちゃんと食べさせてあげる! ママンにも約束したんだ!」
(あの泥棒め……! 絶対に分かっててわざとやってるわね! 復讐よ! 今度あいつが寝ている間に、顔面にハイハイで乗っかってやるわ……っ!)
テレーズは、絶対に口を開けまいと、石像のように固まった。
しかし、ジョゼフは諦めなかった。
彼は、どうすれば妹が喜んで食べてくれるかを、彼なりに一生懸命考えたのだろう。スプーンを右手に持ったまま、突然、左手をピンと横に伸ばし、奇妙な動きを始めた。
「ブーーン! ブブブブブーーーン!!」
(……は? なによそれ。何の儀式?)
「テレーズ、見て見て! パパが作ってる『じょうききかんしゃ』だよ! シュッシュッポッポー!!」
ジョゼフは、スプーンを機関車に見立て、空中でぐるぐると旋回させ始めた。
「きかんしゃが、テレーズのお口に向かって走りまーす! シュッシュッ! トンネルあけてくださーい! プアーーッ!!」
(……っ!)
あまりのシュールな光景に、テレーズは絶句した。
前世のベルサイユ宮殿では、こんな下品……いや、奇抜な食事の作法など絶対に存在しなかった。7歳の由緒正しきフランス王太子が、機関車の真似をして「プアーッ」などと叫んでいるのだ。宮廷の作法係が見たら卒倒するに違いない。
だが。
その、妹を喜ばせようと必死になっているジョゼフの顔は、あまりにも真剣で、あまりにも優しくて。
そして何より、彼が今、心の底から『幸せそうに笑っている』という事実が、テレーズの胸の奥をギュッと締め付けた。
『ママン……ぼく、お腹すいたよ……。パンが、食べたいよ……っ』
脳裏にフラッシュバックするのは、タンプル塔の暗闇の中で、痩せこけ、涙を流していた彼の姿。
あの時、私は彼に、一片のパンすら与えてやることができなかった。
ただ格子越しに泣くことしかできなかった、無力な母親。
それが今。
彼は丸々と健康的な頬をして、妹である自分にご飯を食べさせようと、満面の笑みで機関車の真似をしているのだ。
(……反則よ。こんなの……抗えるわけないじゃない)
テレーズは、そっと目を閉じ、そして。
王妃としてのプライドも、前世の母親としての威厳もすべてかなぐり捨てて、小さく口を開けた。
「あーん」
「やった! トンネル通過しまーす! しゅっぱーつ!」
パクッ。
ジョゼフの運んだスプーンが、テレーズの口の中に、ひんやりと甘いポタージュを運んでくる。
「美味しい? テレーズ! えへへ、ぼくが上手に食べさせたからだね!」
ジョゼフは、自分のことのように嬉しそうに笑い、純白のナプキンでテレーズの口元を優しく拭ってくれた。
「あーうー♡(……ええ。とても美味しいわ。ありがとう、私の可愛いジョゼフ)」
テレーズは、複雑な感情で涙目になりながらも、彼に向かって最高の笑顔を向けてやった。
屈辱感は、確かにあった。
だがそれ以上に、彼が元気に生きていること、そして彼から直接「愛情」を受け取ることができるこの奇妙な時間が、テレーズにとって何よりも得難い、神様からのプレゼントのように思えたのだ。
* * *
「……あら。ジョゼフ、上手に食べさせてくれたのね。ありがとう」
予算会議を終えて戻ってきた泥棒が、空になった銀の器を見て目を丸くした。
「うん! テレーズ、ぼくの『きかんしゃ作戦』ですごく喜んで食べてくれたよ!」
「まあ、機関車作戦? すごいわねジョゼフ。さすがはお兄ちゃん!」
「えへへー!」
泥棒は、ジョゼフの頭をワシャワシャと撫で回したあと、ベッドの中で横になっているテレーズの方をチラリと見た。
そして、ジョゼフから見えない角度で、ニヤァッと、極めて邪悪な笑みを浮かべたのである。
(どう? 元・王妃様。かつての息子に『あーん』される気分は。プライド、粉々に砕け散った?)
彼女の目が、間違いなくそう語っていた。
この女、やっぱり分かっていてわざとジョゼフにやらせたのだ!!
(……っ! この泥棒! 本当に性格が悪いわね! 今夜の寝かしつけの時、絶対に大声で泣き叫んで寝不足にしてやるんだから!)
テレーズがベッドの中から般若のような目で睨み返すと、泥棒はクスクスと笑いながら、テレーズをヒョイッと抱き上げた。
「さあ、お腹もいっぱいになったことだし、テレーズはお昼寝の時間ね。ジョゼフ、一緒に子守唄を歌ってあげてくれる?」
「うん! ぼく、ママンに教えてもらったお歌、歌えるよ!」
泥棒の腕の中で揺られながら、ジョゼフがテレーズの顔を覗き込み、優しい声で歌い始めた。
「ねんねんころりよ、おころりよ……♪」
……それは、東の島国の子守唄だった。
泥棒が、ジョゼフを寝かしつける時によく歌っていたという、異国のメロディ。
本来なら、フランス王室の伝統にはない、平民の、それも野蛮な異国の歌。モーツァルトが奏でるような華やかな和音もなければ、壮大なオーケストラもない。
でも、その素朴で優しい音階は、不思議とテレーズの心を落ち着かせてくれた。
「坊やはよい子だ、ねんねしな……♪」
ジョゼフの舌ったらずな歌声が、テレーズの耳に心地よく響く。
彼がテレーズの小さな手を、自分の指で優しくトントンと叩きながらリズムを取ってくれる。
(……本当に、変な感じ)
開け放たれた窓から吹き込む夏の風と、ゆっくりと重くなる瞼を感じながら、テレーズは心の中で呟いた。
前世で、自分が子守唄を歌って寝かしつけていた息子が。
今世では、泥棒から教わった異国の歌で、自分を寝かしつけている。
歴史のバグが引き起こした、デタラメで、ハチャメチャで、尊厳も何もあったものじゃない日常。
でも──。
(悪くないわね……。お兄様に守られる人生というのも)
テレーズは、ジョゼフの指を小さな手でギュッと握り返し、泥棒の温かい胸の中で、ゆっくりと眠りの底へと沈んでいった。
「……寝たね、ママン」
「ええ。ジョゼフのお歌が上手だったからね。ありがとう」
薄れゆく意識の中で、二人の声が聞こえる。
この、少しお節介で、だけど世界で一番優しい『テレーズのお兄ちゃん』の成長を、今度は一番近くで、妹として見守っていけるのだ。
それが、タンプル塔の地獄を味わった自分にとって、どれほどの救いであるか。
この泥棒女は、きっと分かっていて、テレーズにこんな『罰ゲームのようなご褒美』を与えているのだろう。
(……本当に、食えない泥棒ね。でも……今回だけは、感謝してあげるわ)
テレーズは、心の中でそっと毒づきながら、かつてないほど安らかで、幸福な夢の中へと落ちていったのであった。




