第204話 タンプル塔の悪夢
私とテレーズが『秘密の共犯関係』を結んでから、数週間が過ぎた。
「……ちょっと泥棒。お茶の淹れ方が雑よ。カップを置く時は、ソーサーと音が鳴らないように小指を添えなさいな。平民の食堂じゃないのよ?」
「はいはい。気をつけますよ、王妃様」
「『はい』は一回! 全く、私が直々に宮廷マナーを叩き込んであげているというのに、あなたって本当にガサツなんだから」
昼間、部屋に二人きりになった時の彼女は、すっかり「口うるさい姑」ならぬ「口うるさい赤ん坊」として、私の所作にダメ出しをしてくるようになっていた。
だが、人が来れば瞬時に「あうー♡」と愛らしい天使に変貌し、完璧な赤ちゃんプレイを披露する。そのオンとオフの切り替えの早さは、さすがはかつてヨーロッパ中を魅了した社交界の華である。
そんなドタバタでシュールな日常は、私にとっても不思議と心地のいいものになりつつあった。
……しかし。
彼女のその強気で高飛車な態度は、あくまで「太陽が昇っている間」だけの、かりそめのものだったのだ。
* * *
——ピシャンッ!!
ゴロゴロゴロ……ズドォォォンッ!!
その日の夜。日中のまとわりつくような熱気を切り裂くように、パリは激しい夏の雷雨に見舞われていた。窓ガラスを叩きつける大粒の雨の音。そして、腹の底まで響くような凄まじい雷鳴。
ベッドの上でテレーズの小さな体は、まるで氷水の中に放り込まれたように、ガタガタと激しく震えていた。
(……やめて)
彼女は、目を固く閉じ、小さな両手で自分の耳を塞ぐようにして、体を丸めていた。大人の自我を持っているからこそ。史実の地獄を経験した彼女の脳裏には、雷雨の音が『別の音』に変換されてフラッシュバックしてくるのだ。
ピシャンッ! という雷鳴は、ギロチンの刃が、勢いよく滑り落ちてくる音。
窓を打つ激しい雨の音は、自分を憎み、石を投げつけてきた群衆の、狂気に満ちた怒号と嘲笑。
そして、ゴロゴロという低い地鳴りは——タンプル塔の冷たい石造りの牢獄へ向かう、護送馬車の車輪の音。
(やめて……来ないで……ッ!)
テレーズの息が浅くなり、ヒュー、ヒューと苦しげな音が漏れる。過呼吸だった。赤ん坊の未発達な肺では、極限の恐怖によるパニックを抑えきれない。
彼女の閉じた瞼の裏に、もっとも恐ろしく、もっとも悲痛な『あの日の記憶』が鮮明に蘇る。
『ママン!! ママンッ!! ぼくを置いていかないで!!』
暗く冷たいタンプル塔の牢獄。
汚い服を着せられ、痩せ細った愛する息子が、粗暴な看守たちに無理やり腕を引かれ、泣き叫びながら自分から引き離されていく。
『やめて!! その子を連れて行かないで!! 私の命ならどうなってもいい!! だからお願い、あの子だけは……私の息子だけは返してぇぇぇっ!!!』
冷たい石の床に這いつくばり、看守の足にすがりついて血を吐くように懇願した。
しかし、無慈悲なブーツに蹴り飛ばされ、鉄格子の扉は重い音を立てて閉ざされた。
それが、彼女が愛する息子を見た、最後の瞬間だった。彼はその後、暗闇の独房に幽閉され、病と虐待の末に、十歳で一人ぼっちで死んでいったのだ。
(あぁ……っ。……ジョゼフ……っ。ごめんなさい……お母様を、許して……っ!)
息ができない。喉が引き攣り、暗闇の底へと沈んでいく。恐怖と絶望に押しつぶされそうになった、その時。
「……テレーズ」
ふわりと。
温かくて、とても柔らかい『何か』が、彼女の震える小さな体を包み込んだ。
「え……?」
テレーズが恐る恐る目を開けると、そこには、暗闇の中でもハッキリとわかる、優しく、そして力強い『母親の瞳』があった。
「……泥棒……」
「雷が鳴っているわね。……怖かったのね」
私は、ガタガタと震えるテレーズの体をベッドから抱き上げると、そのまま自分の胸にギュッと抱きしめた。
「違う……。私は、雷なんて……」
テレーズは、王妃のプライドで強がろうとしたが、その小さな手は、私のパジャマの胸元を、すがりつくように強く、強く握りしめていた。
その瞳からは、ボロボロと大粒の涙が溢れ出し、止まらない。
「こわい……。こわいよ……っ。刃の音が……みんなの怒鳴り声が、聞こえるの……。あの子が……私の息子が、遠くで泣いているの……。暗くて、冷たいところで、私を呼んでいるのに……助けに行けないの……ッ!!」
彼女は、私の胸に顔を押し当て、ついに堰を切ったように泣きじゃくった。
前世の彼女は、誰にも弱音を吐くことができなかった。
夫は先に処刑され、子供たちとは引き離され。たった一人で、誇り高きフランス王妃としての威厳を保ちながら、あの地獄のような裁判と処刑台を乗り越えなければならなかったのだ。
その孤独と恐怖がどれほどのものだったか、私には想像することすら恐ろしい。
「……大丈夫よ。大丈夫」
私は、彼女の背中を、一定のリズムで優しくトントンと叩き続けた。
そして、私の心臓の鼓動が、彼女の小さな体にしっかりと伝わるように、力強く抱きしめた。
「聞いて、テレーズ。あの雨の音は、群衆の怒号じゃないわ。明日、私たちの畑を美味しく育ててくれる、恵みの雨の音よ」
「……雨……」
「そう。そして、あの雷の音は、ギロチンなんかじゃない。……自然が奏でる、ただの大きな太鼓の音よ。誰も、あなたを憎んでなんていない。誰も、あなたを傷つけたりしないわ」
私は、彼女の涙で濡れた頬に、そっと自分の頬を擦り寄せた。
「あなたはもう、あの暗くて冷たい牢獄にはいないのよ」
「でも……あの子は……ジョゼフは……っ」
「ジョゼフなら、隣の部屋で、よだれを垂らしながらグッスリ眠っているわよ」
私は、クスクスと笑いながら言った。
「パパと一緒に作ったおもちゃの剣を、大事そうに抱きしめてね。『明日はテレーズに、お花を摘んであげよう』って寝言を言っていたわ。……ルイだって、明日の蒸気機関の設計を考えながら、大きないびきをかいて寝ている」
その言葉を聞いて、テレーズの体が、ビクッと反応した。
「フランスは今、世界で一番豊かで、平和な国になった。もう、誰も飢えていない。誰も怒っていないわ」
私は、テレーズの体を少しだけ離し、そのサファイアブルーの瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「誰も、あなたから家族を奪ったりしない。私が、絶対にそんな真似はさせない。……パリの民衆たちも、みんなあなたの味方よ」
「泥棒……」
「だから、もう一人で震えなくていいの。怖い夢を見たら、いつでも私を呼びなさい。私が何度でも、あなたを抱きしめて、この温かい現実へ引き戻してあげるから」
私は、彼女の額に、静かに口づけを落とした。
「あなたは今、私が命を懸けて産んだ、私の大切な『娘』なのだから」
——ズドォォォォンッ!!
再び、外で大きな雷鳴が轟いた。
しかし。私の腕の中にいるテレーズは、もう震えていなかった。
(……温かい)
テレーズの心の中にあった、冷たく分厚い「孤独の氷」が、主人公の圧倒的な母性と命の鼓動の温もりによって、確実に溶け出していく。
(ああ……そうか)
テレーズは、その温もりの中で気づいた。
かつて冷酷な牢獄で、愛する息子が泣き叫びながら求めていた「ママン」という言葉。自分はそれに応えてやれなかった。母親でありながら、何も守れなかったという絶望。
けれど今。自分がその言葉を叫べば、絶対に手を離さず、すべてから守り抜いてくれる『母親』が、すぐここにいるのだ。
「……っ、うわぁぁぁぁん……っ! ママン……ッ、ママン……ッ!!」
テレーズは、小さな両手で私のパジャマを握りしめ、私の胸に顔を埋めて、大きな声で泣きじゃくった。
それは、もはや「王妃としての悲痛な叫び」ではなかった。
怖い夢を見て、母親の温もりを求めて泣く、ただの普通の女の子の泣き声だった。
「よしよし。いい子ね」
私は、彼女が泣き止むまで、ずっと、ずっとその小さな体を抱きしめ続けた。
嵐の夜は、やがて過ぎ去っていく。
この夜の抱擁が、二人のマリー・アントワネットの間にあった「偽物」と「本物」という壁を打ち砕き、決して誰にも引き裂くことのできない『真の母娘の絆』を深めたのであった。




