第203話 秘密の共犯関係
生後半年にして、初めて部屋中に響き渡った号泣。
私の胸の中で、これまでのすべての恐怖と絶望を吐き出すように泣きじゃくった『真のマリー・アントワネット』は、ひとしきり涙を流し終えると、ハッと我に返ったように私の腕から身をよじって離れた。
「……っ! み、見ないでちょうだい!」
テレーズは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった小さな顔をシーツにズボッと埋め、耳まで真っ赤にしてジタバタと暴れた。
「 はしたない! フランス王妃たる私が、赤ん坊みたいな真似を……っ!! 忘れて! 今のは全部忘れなさい泥棒!!」
「はいはい、わかったわよ。……ほら、お鼻拭くわよ。チーンして」
「触らないでって言ってるでしょ! 自分で拭ける……拭けな……っ、ああもう! この体、腕が短すぎて顔に届かないのよ!! 」
私は、手足をバタつかせて悔しがる彼女の顔を、柔らかいガーゼで優しく拭き取ってやった。つい先ほどまでのホラー展開と、シリアスな空気はどこへやら。毒気を抜かれた彼女は、ただの「極端にプライドが高くて口の達者な、可愛いツンデレの赤ちゃん」へと成り下がっていた。
「……勘違いしないでよね」
顔を拭き終わったテレーズは、ベッドの上にちょこんと座り直し、ふいっとそっぽを向いた。
「あなたのことを許したわけじゃないわ。私が味わった恐怖は、決して消えるものではないもの。……でも。ルイを立派な王にしてくれたことと、ジョゼフをタンプル塔の未来から救ってくれたことだけは、認めてあげる。だから……テレーズとして、あなたの『娘』になってあげることは、やぶさかではないわ」
「ふふっ。ええ、光栄よ、元・王妃様」
私は、わざとらしくカーテシーの真似事をして見せた。
「じゃあ、このことは私たち二人だけの『秘密』ね。あなたが本物のマリー・アントワネットだってことは、絶対に他の人にバレちゃダメよ。ルイやジョゼフが知ったら、パニックになっちゃうから」
「言われるまでもないわ。逆にどう説明しろって言うのよ!」
テレーズは、小さな腕を組んで、フンッと鼻を鳴らした。
「あなたが未来の知識で防衛や経済を立て直したのは認めるわ。でも、政治の裏側……貴族たちのドロドロとした腹の探り合いは、私の領域よ」
テレーズの青い瞳が、不敵に光る。
「とりあえず、明日のタレーランとの会談の時、私を抱いていきなさい。あの男の腹の底を見抜くのは私の十八番だから。私が『機嫌の悪い泣き声』を出したら、相手の提案には裏があるから蹴りなさい。……いいわね?」
「えー、頼もしいけど……。私、体育会系だから、そういう腹芸みたいなの苦手なんだけど」
私たちが、そんな風に軽口を叩き合い、奇妙な『最強の共犯関係』を築き始めた、まさにその時だった。
「ただいまー!! アントワネット! テレーズ!!」
「ママン! テレーズ! 帰ったよー!!」
バーンッ! と寝室の扉が開き、日差しをたっぷりと浴びて蒸気機関車の試運転から帰還したルイとジョゼフが、元気いっぱいに飛び込んできた。
(……ヤバい!)
私はギョッとしてテレーズを振り返った。
つい数秒前まで「政治の裏側は私の領域よ!」と偉そうに腕を組んでいた、誇り高き元・フランス王妃。
彼女が、このままの態度でルイたちに接してしまったら、一発で異常性がバレてしまう……!
しかし。
私の心配は、全くの杞憂に終わった。
「テレーズ! お兄ちゃんが帰ってきたよー!」
ジョゼフがベビーベッドに駆け寄った瞬間。
「……あぅー! きゃぁっ、あーうー♡」
テレーズは、完璧な笑顔を顔に貼り付け、両手をパタパタと振りながら、この世のものとは思えないほど無邪気で愛らしい『赤ちゃんの声』を出したのである。
「ぶっ!!?」
私は、危うく盛大に吹き出しそうになり、慌てて両手で口を塞いだ。
(お、お前ぇぇぇーっ!! 順応早すぎるだろ!! さっきまで「はしたない!」とか言ってた王妃のプライドはどこ行ったの!?)
私の心の中のツッコミなど露知らず、テレーズはジョゼフに向けてニコニコと笑いかけている。
「うわぁっ! テレーズが笑ってくれた! パパ見て! テレーズがお出迎えしてくれたよ!!」
「おおっ! さすがは僕の天使! パパが抱っこしてあげよう!!」
汗ばんだ顔をススと油で真っ黒に汚したルイが、デレデレの笑顔でテレーズをヒョイッと抱き上げた。
そして、その汚れた頬を、テレーズの透き通るような白いプニプニのほっぺに、スリスリと擦り寄せたのだ。
「テレーズ〜! パパでしゅよ〜! 試運転、大成功だったんでしゅよ〜!」
——その瞬間。
テレーズの表情は「キャッキャ♡」と笑ったまま固定されていたが、私の方に向けられた『瞳』だけが、親を殺されたような凄まじい怒りと殺意に満ちていた。
(……泥棒! ちょっと泥棒! 早くこの汗と油まみれの男を引き剥がしなさい!! だいたい何なのよこの男は! 私の知っている『目を合わせようともしなかった気弱な夫』はどこに行ったの!? なぜこんなに馴れ馴れしく赤ちゃん言葉を使ってくるのよ!! 気持ち悪いわ!!)
(いやいや、あなたの夫でしょ!? しかもお父さんでしょ!! 我慢して!!)
私は必死でアイコンタクトを返し、ひきつった笑顔でルイに声をかけた。
「ル、ルイ! ほら、テレーズが汚れちゃうから! お風呂に入ってからにして!」
「えー? 大丈夫だよ、これくらい! な、テレーズ!」
「あ、あぅぅ……(ギロチンよ! お前の首を歯車に挟んでやるわ!)」
テレーズの瞳の奥で、暴君の炎が燃え盛っている。
さらに悪いことに、今度はジョゼフが「ぼくも、ぼくも!」と近づいてきて、小さな手でテレーズのお腹をコチョコチョとくすぐり始めたのだ。
「テレーズ、こちょこちょ〜! こちょこちょこちょ〜!」
「きゃはははっ♡ あー、うー♡」
テレーズは、赤ん坊の生理的反射で笑い声を上げながらも、その瞳は私に助けを求めていた。
(……殺して。ねえ、もういっそ殺して。ジョゼフが元気なのは嬉しいわ。嬉しいけれど……なぜ私が、自分の息子にあやされて腹をくすぐられているの? プライドが……私の残された最後の王妃としてのプライドが、粉々に砕け散っていくわ……っ!!)
(が、がんばって元王妃様! 赤ちゃんプレイだと思って!! ここを乗り切れば、後で最高のミルクを作ってあげるから!!)
私は、必死に笑いを堪えながら、心の中で彼女にエールを送った。
かつてヨーロッパ中の貴族を跪かせたマリー・アントワネットが、今は自分の夫と息子のおもちゃにされて、愛想笑いを振りまくことしかできない。
「……あれ? なんか、臭くないか?」
ふいに、ルイが鼻をクンクンと鳴らした。
ジョゼフも「ほんとだ、ウンチの匂いがする!」と鼻をつまむ。
ピタッ、と。
テレーズの全身が、彫像のように硬直した。
「おお! テレーズ、ウンチ出たのか! よーし、パパがオムツを替えて綺麗にしてあげようねー!」
ルイが、手慣れた様子でテレーズをベビーベッドに寝かせ、オムツの布に手をかけようとした。
——その時。
(……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!!)
テレーズの瞳が、これまでにないほどの限界突破のSOSを私に放った。
(これだけはダメ! これだけは絶対に許さない!! 夫に! 下半身の粗相を処理されるなど!! しかも赤ん坊の姿で!! 断頭台の階段を登るより恥辱だわ! 死ぬ! 精神的に死ぬわ! 泥棒、助けなさい!! もし助けなかったら、夜中にあなたの顔面に乗って窒息死させてやるからね!!)
「ス、ストォォォォォップ!!!」
私は、ベッドとルイの間に、猛烈なスライディングで割って入った。
「だ、ダメよルイ! あなた汗と油で手がドロドロじゃない! これからの季節、ただでさえ蒸れやすいのにバイ菌が入ったら大変よ! 私がやるから!」
「そ、そうか? アントワネットがそういうなら任せるけど……」
キョトンとするルイを押し退け、私はテレーズを抱え込んで、光の速さでオムツを交換した。テレーズは、真っ赤な顔で涙目になりながら、私の服の袖を小さな手でギュッと握りしめていた。その手は「よくやったわ泥棒。褒めてあげる」とブルブル震えている。
「ふう……綺麗になったわね、テレーズ」
私が新しいオムツに替え終えると、テレーズはホッとしたように「あぅっ」と一つ鳴き、力尽きたようにスゥッと目を閉じて、本物の眠りについた。
精神的疲労がピークに達したのだろう。
そりゃそうだ。大人の魂のまま赤ちゃんの不自由な体を操り、しかも愛する家族に赤ちゃん扱いされる屈辱に耐え続けるのだから。
「……可愛いなぁ。寝顔は本物の天使だね」
ルイが、テレーズの寝顔を見つめて、とろけるような笑顔を浮かべた。
「ええ。……本当に、可愛いわ」
私は、カーテンの隙間からそよぐ風を感じながら、スゥスゥと静かな寝息を立てるテレーズの柔らかな髪を撫で、心の底から微笑んだ。
これから先。
私は彼女の「お世話係」兼「プライドを守るための盾」として、このドタバタな秘密の共犯関係を続けていくことになるのだろう。
でも、悪くない。
未来の知識を持つ現代日本の『偽物』と、宮廷の裏側を知り尽くした18世紀の『本物』。
この二人の「マリー・アントワネット」が手を結べば、外交でも、国内の政治でも、向かうところ敵なしの『最強の母娘タッグ』になれるはずだ。
マリー・アントワネット、29歳。
こうして、フランス王室の最も奥深くに、世界中を巻き込むことになる、誰にも言えない「秘密の赤ちゃんプレイ」の日常が幕を開けたのである。




