第202話 断頭台の記憶
カーテンの隙間から時折、光の筋が差し込む中。私は床に這いつくばったまま、ベビーベッドの柵を握りしめて私を見下ろす赤ん坊の視線に射貫かれていた。
「答えて。……私のすべてを奪った泥棒。お前は一体、何者なの?」
その声には、逃げ場のない絶対的な王妃の威厳と、血を吐くような憎悪が込められていた。誤魔化すことなど絶対に不可能だ。彼女は史実の地獄を経験し、そしてこの半年間、ベビーベッドの中から私の行動のすべてを観察してきたのだから。
「わ、私は……」
私は、カラカラに乾いた喉から、震える声を絞り出した。
「私は……未来から来たの。二百年以上先の、フランスとは違う、遠い東の島国から……。そこで、ごく普通の平民の娘として生きていた、ただの小娘よ」
「……二百年先の、東の島の平民?」
テレーズの細い眉が、ピクリと動いた。
「ええ。そして……私は、すごく食い意地が張っていて。……奮発して買った高級マカロンを、丸呑みして、喉に詰まらせて……窒息死したの」
「…………は?」
テレーズの顔から、一瞬だけ王妃の威厳がすっぽりと抜け落ち、純度百パーセントの『呆れ』が顔を出した。
「喉に詰まらせて……死んだ? 暗殺でも、病でもなく? マカロンで!?」
「……はい」
「あんな小さくて優雅なお菓子で、どうやって死ぬのよ!」
「口の中の水分を、全部持って行かれたのよ……!」
「……ふっ、あはははっ! なにそれ。……なんなのよ、それ」
テレーズは、ベビーベッドの柵から手を離し、仰向けにコロンと転がると、乾いた笑い声を上げた。しかし、その笑い声は、次第にひきつった嗚咽へと変わっていった。
「……そんな、マカロン一つで死ぬような小娘が。あの『絶望の運命』をひっくり返してしまったというのね」
テレーズの瞳から、ツーッと、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「この半年間、ずっと見ていたわ。あなたが創り上げた、この『あり得ない夢』のような世界を。……ルイは堂々と胸を張り、蒸気と鉄を操り、あなたを心から愛する『王』になっていた。貴族どもはあなたの言いなり。そして……私を憎み、ギロチンへと引きずり出した民衆たちが! あなたの名前を呼び『国母』と慕っていた!!」
彼女は、小さな両手で自分の顔を覆い、激しく肩を震わせた。
「……教えてよ。どうして、私にはできなかったの?」
それは、自分自身の『圧倒的な無力感』に対する、自己嫌悪の吐露だった。
「私は、誇り高き皇女として教育を受けてきたわ! なのに、借金の返し方も、民衆の飢えの救い方も分からなかった! ただ、寂しくて、不安で……美しいドレスを着て、お菓子を食べていれば、愛されると信じていたのよ……!」
「結末は、あの血塗られた断頭台と、タンプル塔で飢えて死んだ可愛い息子の姿。……私なんて、初めからいらない存在だったのよ。私がいなくなって、あなたに入れ替わった途端にすべてが上手くいった。……こんな残酷な答え合わせ、神様はひどすぎるわ……っ!」
赤ん坊の小さな体で、声を殺して泣きじゃくるかつてのフランス王妃。
その痛ましく、あまりにも悲惨な魂の叫びを聞いて。私は自分が「歴史のフラグを折った」と浮かれていたことが、いかに彼女の尊厳を無自覚に踏みにじっていたかを思い知らされた。
(……違う。違うわ、マリー・アントワネット)
私は、ガタガタと震える足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
「……ふざけないでよ」
「え……?」
涙に濡れたテレーズが、驚いたように私を見る。
私は、ベビーベッドの柵をバンッ! と両手で掴み、テレーズを真っ直ぐに見下ろした。
「あなたが無能だったから? あなたが悪い王妃だったから? ……冗談じゃないわ。自分をそんな風に卑下するなんて、絶対に許さない!!」
「私がすべてを上手くやれたのは、私が優秀だったからじゃないわ! 『未来の歴史』という、絶対に負けないカンニングペーパーを持っていたからよ! 病気は細菌が原因だとか、借金を放置すれば革命が起きるとか、ただ知っていただけ!」
私は、声を荒げて彼女に真実を叩きつけた。
「何の知識もないたった18歳の女の子が! 莫大な借金を抱え、腐敗した貴族がうごめく宮廷に一人で放り込まれて、どうやって国を救えっていうのよ! 夫は振り向いてくれない、国民からは外国の女だと蔑まれる。……そんな地獄の中で、あなたが寂しさを紛らわせるためにケーキやドレスに逃げたことの、一体何が『罪』だっていうの!!」
史実のマリー・アントワネットは、決して悪女などではなかった。
「あなたは、最後の最後まで逃げることなく、王妃としての誇りを胸に断頭台に立った! だからこそ、未来の人間たちはあなたの悲劇を忘れずに語り継ぎ……その記憶が、時を超えて、今のこの『フランスを救う力』に繋がったのよ!!」
私の言葉に、テレーズは目を丸くして呆然としていた。
「私が国を救えたのは、あなたがその身を挺して『歴史の失敗』を残してくれたからよ。だから、今のこの平和なフランスは、私が作ったんじゃない。……あなたと私の、二人で創り上げたものなのよ!!」
涙が、私の頬を伝ってボロボロとこぼれ落ちた。
私は、ベッドの中にいる小さなテレーズの体を、震える両手で抱き上げ、私の胸にギュッと抱きしめた。
「……な、なにをするの……! 離して、泥棒……っ!」
テレーズが小さな手で私の胸をポカポカと叩き、抵抗しようとする。
しかし、私はその小さな体を、絶対に離さなかった。
「……ちょっと、泥棒。なんであなた、こんなに筋肉が硬いのよ……っ」
「毎日スクワットと畑仕事してるからよ。これくらい頑丈な体幹じゃないと、フランスの国難は背負えないわ」
「……馬鹿みたい」
テレーズは毒づきながらも、抵抗する力をふっと緩めた。
「ごめんなさい。あなたの体を奪ってしまって。でも、私は……あなたの夫を、あなたの息子を、絶対に地獄へは行かせないと誓って、必死に生きてきたわ。……そして今、あなたは私の『娘』として帰ってきてくれた」
私は、テレーズの背中を優しく撫でた。
「……もう、恐がらなくていいのよ。ここは牢獄じゃないわ。誰もあなたを罵らない。誰もあなたの首を刎ねたりしない」
チク、タク……ポロロン……。
部屋の片隅で、ルイが削り出した精密な歯車が時を刻み、ジョゼフが作ったオルゴールが『ああ、お母さん』のメロディを優しく奏で続けている。
「……聞こえる? ジョゼフが、あなたのためにパパと一緒に一生懸命作ったの。あの子は今生では、タンプル塔で飢えることはない。あなたの目の前で、あなたを命懸けで守ろうとする『世界一優しいお兄ちゃん』として生きているのよ」
「あ、ああ……っジョ、ゼフ……」
テレーズの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「私が、この国にいるすべての敵をぶっ飛ばしてあげる。……そして、マカロンでもケーキでも、絶対に喉に詰まらせないくらい安全で極上のお菓子を、死ぬまでお腹いっぱい食べさせてあげる!!」
「……っ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」
生後半年を迎えて、初めて。
薄暗い寝室に、テレーズの大きな、大きな『赤ん坊の泣き声』が響き渡った。
それは、これまでのすべての恐怖と絶望を吐き出すような、純粋で、無防備で、愛おしい号泣だった。
「よしよし、いい子ね。……私のかわいい娘」
私は、泣きじゃくる彼女を抱きしめたまま、優しく背中をトントンと叩き続けた。
未来から来た『現代の魂』と、過去の地獄から蘇った『真の王妃の魂』。
本来なら殺し合うほど憎み合うはずの二人のマリー・アントワネットは、涙と笑いと、少しの筋肉の違和感を挟みつつ、誰よりも深く理解し合える「世界でただ一つの母娘」としての絆を、静かに結んだのであった。




