第201話 告白
初夏の陽射しが強まり、パリの街に瑞々しい青葉の香りが漂い始めた頃。
チュイルリー宮殿の奥深くにある王妃の寝室は、眩しい日差しを遮るためにカーテンが引かれ、昼間であるにもかかわらず、薄暗く、どこか息苦しいほどの静寂に包まれていた。
この日、宮殿は異様なほどに静かだった。
ルイは新しい蒸気機関車の試運転のために郊外のテストコースへ出かけ、ジョゼフも「将来のエンジニアの勉強だ!」と大はしゃぎでそれに同行していった。
アベンジャーズの面々もそれぞれ政務や視察で出払っており、教育係の女官たちには私から「今日は私が一人で面倒を見るから」と休みを与えていた。
寝室にいるのは、私と、ベビーベッドの中にいる生後半年の娘、マリー・テレーズの二人きりだった。
(……静かね)
私は、ソファに深く腰掛けながら、微かに震える手で紅茶のカップを口へ運んだ。
生後半年。
普通の赤ん坊であれば、寝返りを打ち、少しずつ離乳食を口にし始め、意味のない言葉を発しては、親の注意を引こうとキャッキャと笑う時期だ。
しかし。
部屋の中央に鎮座する豪奢なベビーベッドから、赤ん坊特有の「生きた気配」というものが、一切感じられないのだ。
私がソファからそっと立ち上がり、ベッドの中を覗き込むと、テレーズは純白のシーツの上で仰向けになり、目をぱっちりと開けたまま、じっと虚空を見つめていた。
「……テレーズ。暑くない? 汗、かいてない?」
私が囁きかけると、テレーズはゆっくりと首を巡らせ、私と視線を合わせた。
その深く、冷たいサファイアブルーの瞳。
そこには、母親に対する甘えも、無邪気さも、微塵もない。まるで美術館に飾られた精巧なビスク・ドールのように、完全な無表情で私を見つめ返してくるだけだ。
生後三ヶ月の頃に感じた「奇妙な違和感」は、半年経った今、もはや確信に近い「恐怖」へと変わっていた。
彼女は、笑わない。泣かない。そして、絶対に『赤ん坊らしい無駄な動き』をしない。ジョゼフやルイが部屋にいる時は、かろうじて「愛想のない赤ん坊」のフリをしているが、こうして私と二人きりになった瞬間、彼女は一切の『演技』を放棄し、まるで死体のように静まり返るのだ。
(この子は、一体何なの……?)
私は、ごまかすようにオルゴールのぜんまいを巻き、再びソファへと戻った。
ポロロン……と、ジョゼフが作った『きらきら星』のメロディが、薄暗い部屋に虚しく響く。
その時だった。
「……いつまで」
背後から。
私の鼓膜を、直接、氷の針で突き刺すような『声』が響いた。
ビクッ!!!
私は、手からティーカップを落としそうになりながら、弾かれたように振り返った。
「……え?」
部屋には、私とテレーズしかいないはずだ。
しかし、今の声は、明らかに『意味を持った言葉』だった。しかも、極めて流暢で、冷酷なまでに洗練された、フランス宮廷の貴婦人の発音。
幻聴か。
そう思おうとした私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
ベビーベッドの柵を、小さな、本当に小さな白魚のような両手が、ギュッと掴んでいた。
そして、生後半年の赤ん坊が。まだ自力で立ち上がることなど到底不可能なはずのテレーズが、柵にしがみつくようにして、ゆっくりと、その小さな体を持ち上げていたのだ。
「テレーズ……!? ダメよ、まだ立てないのに、怪我を……ッ!」
私が慌てて駆け寄ろうとした、次の瞬間。
「……近寄らないで頂けるかしら。泥棒の分際で、気安く私に触れないで」
——ピタリと、私の足が縫い止められた。
テレーズの小さな口が、確かに動いていた。
そこから発せられたのは、赤ん坊の未発達な声帯から出たとは思えない、低く、威厳に満ち、そして絶対的な『支配力』を帯びた声だった。
「な……に……?」
私は、恐怖で喉が引き攣り、声がかすれた。
ベビーベッドの中から、柵越しに私を見下ろすテレーズの顔には。生後半年の赤ん坊には絶対に不可能な、極めて理知的で、残酷で、そして私に対する『底知れぬ憎悪と軽蔑』に満ちた、冷たい大人の女の笑みが浮かんでいた。
「……いつまで、そんな滑稽な芝居を続けるつもりかしらって、そう聞いたのよ」
テレーズが、完璧なフランス語で言葉を紡ぐ。
「半年間……ええ、この半年間。私はずっと、じっと観察させてもらったわ。この馬鹿げた、狂気の沙汰としか思えない『偽物の世界』をね」
彼女は、小さな手で柵を掴んだまま、まるで私の魂の奥底までを見透かすような、深いサファイアブルーの瞳で私を射抜いた。
「アベンジャーズ? 蒸気機関車? 装甲列車? ……ふふっ、本当に笑わせてくれるわ。あの頼りなくて、いつも鍵穴ばかり覗き込んでいた《《私》》の夫が、あんなふうに自信に満ちた顔で鉄の塊を動かしている。あの、《《私》》からすべてを奪い、私をギロチンにかけた憎きパリの暴徒どもが、《《私》》の顔を見て『王妃様万歳』と涙を流して感謝している」
テレーズの口から飛び出す、不可解な言葉の数々。
しかし、その言葉の端々に散りばめられた『キーワード』が、私の脳内で恐ろしい結末へと結びついていく。
ギロチン。
パリの暴徒。
《《私》》の夫。
「……あ、あなた……まさか……」
私は、後退りしようとしたが、腰が抜け、そのまま床にへたり込んでしまった。
ガタガタと震える私の唇から、その『名前』が漏れ出す。
「……マリー・アントワネット……?」
その名前を聞いた瞬間。
赤ん坊の姿をした『それ』は、満足そうに、そして底冷えのするような残酷な笑みを深くした。
「ええ、そうよ。……よく分かったわね、泥棒」
ドクンッ!!!!
心臓が、恐怖で破裂しそうだった。
初夏の陽気など嘘のように、部屋の温度が一気に急降下し、まるで氷室に突き落とされたかのような錯覚に陥った。
「私が……真のフランス王妃、マリー・アントワネットよ。そして今、私が口を利いているのは、本来なら私がいるべきその場所に居座っている……『私の体を乗っ取った、得体の知れないバケモノ』に向かって、よ」
最悪の、本当に最悪のホラーだった。
私が、現代日本から転生し、ギロチンの運命を回避するために必死にサバイバルを繰り広げてきた、この『マリー・アントワネットの体』。
その、本来の持ち主があろうことか、私がこの体で産み落とした娘、マリー・テレーズの器の中に入り込んで、私を怨念に満ちた目で見つめているのだ。
「……どう、して……。どうして、あなたが……」
「どうして? こちらが聞きたいくらいだわ!!」
テレーズの声が、ふいに激昂を帯びた。
「私はね……! 私は、コンシェルジュリー牢獄の、あの暗くて、カビ臭くて、ネズミが這い回る冷たい石の床の上で、髪を短く刈り上げられて……後ろ手に縛られたまま、荷馬車に乗せられて市中を引き回されたのよ!!」
彼女の目から、初めて『感情』が溢れ出した。
それは、どうしようもない絶望と、恐怖と、凄まじい怒りの炎。
「民衆からツバを吐きかけられ、罵声を浴びせられ……。そして、あの断頭台の冷たい階段を登った! 首筋に落ちてくる、あの冷たい鋼鉄の刃の音……! その直前の、群衆の歓喜の叫び声……!それが、私の人生の結末だった! 私が味わった、すべての真実よ!!」
テレーズは、小さな手でベッドの柵をギリギリと締め上げながら、私に向かって呪詛を吐き出した。
「なのに……! なぜ!?私が死の淵で見た光の先にあったのは、天使の腕の中でも、神の御前でもなかった。……気がつけば、私は赤ん坊の体の中に閉じ込められ、自分の腹から産み落とされていた。そして、私の目の前には、私自身の顔をした『お前』が、私の夫に抱きしめられながら、気味の悪い作り笑いを浮かべていたのよ!!」
彼女の言葉が、鋭い刃となって私の心を滅多刺しにしていく。
私がこの国を救い、平和をもたらしたという自負。
そのすべてが、彼女からすれば『自分の人生を勝手に書き換えられた、おぞましい強奪劇』に他ならないのだ。
「……泣かない、天使……」
私は、震えながら呟いた。
「あなたが……これまで一度も、泣かなかったのは……」
「当たり前でしょう!!」
テレーズは、顔を真っ赤にして激怒した。
「私が、フランス王妃であるこの私が! なぜ、お前のような正体不明の泥棒女にオムツを替えられ、あのクソ忌々しい平民どもの前で、みっともなく『オギャア』などと泣き叫ばなければならないの!!屈辱よ……! ミルクを欲しがるのも、排泄をするのも……私が私としての自我を持ったまま、こんな無力な赤ん坊の姿で生き恥を晒さなければならないなんて、これ以上の地獄があるかしら!!」
アベンジャーズたちが「天才的なステルス性能」だの「合理性の極致」だのと称賛していた彼女の行動の真実。
それは、極限まで高められた『王妃としてのプライド』と、私に対する『絶対的な拒絶』がもたらした、狂気の忍耐だったのだ。
「……ごめん、なさい……。私、知らなくて……」
「謝罪など求めていないわ!!」
テレーズは、私を睨みつけたまま、さらに決定的な言葉を突きつけてきた。
「……あのオルゴールの音色。……ジョゼフが『お兄ちゃんだよ』と微笑みかけてくれた時。私がどれほど……どれほど泣き叫んで、彼を抱きしめたかったか分かる!?」
テレーズの瞳の奥で、炎のような怒りが、ふっと悲痛な色へと変わった。
「タンプル塔の牢獄で、私の腕の中から引き剥がされ……一人ぼっちで泣きながら死んでいったはずの、私の可愛い息子が。生きて、私の目の前で笑っていたのよ! でも、私には抱きしめることができなかった! だっておぞましい偽物のあなたが、すぐ横で母親面をして笑っていたから!!」
絶叫。
それは、赤ん坊の未熟な声帯が限界を超えて発した、血を吐くような魂の叫びだった。
史実において、マリー・アントワネットが最も心を痛め、絶望のどん底に突き落とされた出来事。それは自身の死ではなく、最愛の子供たちと引き離され、虐待の末に悲惨な死を遂げたことだ。
その無念と愛を抱いたまま死んだ彼女が、今生で目を覚ました時。
愛する息子は元気に生きていた。しかし、その息子を抱きしめ、母親としての愛情を独占しているのは、自分ではない「得体の知れない偽物」なのだ。
これ以上の残酷な残酷な拷問があるだろうか。
「……っ!」
私は、胸を強く締め付けられ、息ができなくなった。
私は彼女の体を乗っ取った。
私は彼女の夫を、相棒に変えた。
私は彼女の息子から、「ママン」と呼ばれている。
私が必死に築き上げてきた幸福は、すべて彼女の犠牲の上に成り立っている『盗品』なのだ。
「……答えて」
テレーズは、息を乱しながら、氷のような声で私に命令した。
「お前は、誰?私のすべてを奪った泥棒。お前は一体、何者なの……?」
薄暗い寝室。
カーテンの隙間から差し込む細い光が、床に不気味な影を落とす中。
私は、自分が産み落とした『私自身の真の魂』を前にして、極限の恐怖と罪悪感に押しつぶされ、ただガタガタと震えながら、床に這いつくばることしかできなかった。
これが、歴史の強制力か。
どんなに物理的な防衛線を築こうとも、どんなに経済を豊かにしようとも。
『真のマリー・アントワネット』という最大の因果が、最も身近で、最も無防備な『娘』という姿をとって、私の喉元に鋭い刃を突きつけてきたのだ。




