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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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208/213

第200話 泣かない天使

 1785年、春。

 記録的な猛吹雪がパリを氷漬けにした過酷な冬は去り、チュイルリー宮殿の庭園には、色とりどりのチューリップや薔薇が咲き誇る、美しく穏やかな季節が到来していた。


 ぽかぽかとした陽光が差し込む、王妃のプライベート・サロン。


 そこでは、世界で最も強固な防衛線と黒字経済を誇るフランス王室の、何よりも平和で尊い「日常の風景」が繰り広げられていた。


「ほら、テレーズ! きょうはね、パパといっしょに作った新しい『からくり人形』を持ってきたんだよ! ぜんまいを巻くと、剣を振るんだ。かっこいいでしょ!」


 7歳になった王太子ジョゼフは、すっかり「頼れるお兄ちゃん」の顔つきになり、ベビーベッドの中を覗き込んでは、甲斐甲斐しく妹の相手をしていた。


 彼の手には、ルイが精巧な歯車を組み込んで作った、小さな近衛兵の人形が握られている。


「この兵隊さんが、悪いやつからテレーズを守ってくれるからね。でも、一番強いのはお兄ちゃんだから、安心してね!」


 ジョゼフが胸を張って笑いかけると、ベビーベッドの中に横たわる小さな命——生後三ヶ月を迎えたフランス王女、マリー・テレーズは、静かにその深いブルーの瞳を向けた。


 透き通るような白い肌に、プラチナブロンドの柔らかな産毛。

 まるでルネサンスの巨匠が描いた天使の絵画から、そのまま抜け出してきたかのような、恐ろしいまでに整った美しい赤ん坊である。


 テレーズは、ジョゼフの言葉を聞いているのかいないのか、じっと彼の顔を見つめた後。


 ふいっ、と。

 まるで「騒々しいわね」とでも言いたげな、極めて優雅で静かな所作で顔を背け、スゥッと目を閉じてしまった。


「あれ……? テレーズ、眠いの? そっか、じゃあお兄ちゃん、静かにしてるね」


 ジョゼフは少しも気を悪くすることなく、妹の睡眠を邪魔しないよう、抜き足差し足でサロンの隅へと移動していった。


「……ふふっ。ジョゼフは本当に、立派なお兄ちゃんになったわね」

 私は、ソファでハーブティーを傾けながら、その微笑ましい光景に目を細めていた。


 あの夜、吹雪の中を走ってサンソン先生を呼びに行ってくれた日から、ジョゼフは急速に大人びた。過剰なプレッシャーに潰されそうだった泣き虫の面影はなくなり、今では誰よりも妹を溺愛し、守ろうとする小さな騎士として振る舞っている。


 そして、夫であるルイもまた。


「アントワネット! 見てくれ、新しい『ゆりかご』が完成したよ! 今回はスミートン先生のサスペンション技術を応用して、赤ちゃんの安眠を妨げない完全無振動の『磁気浮遊式ベッド』を……」


「ルイ。気持ちは嬉しいけれど、さすがにやりすぎよ。磁石の反発力で赤ちゃんを浮かせるなんて、ちょっとオカルトじみてるじゃないの。今の普通の木製ベッドで十分よ」


「そ、そうかな……? テレーズには、世界一快適な環境を用意してあげたいんだけど……」


 すっかり親バカをこじらせた天才エンジニア王を軽くあしらいながら、私は再び、スゥスゥと静かな寝息を立てる我が娘へと視線を戻した。


 ——平和だ。

 何もかもが順調で、幸福の絶頂。


 ……だというのに。

 ここ最近、私の胸の奥には、どうにも拭い去ることのできない「奇妙な違和感」が、じわじわと、まるで墨のように広がり続けていたのだった。


 * * *


「……王妃様、どうかなさいましたか? 渋い顔をして。ハーブティーの温度が低かったでしょうか?」


 私の傍らに控えていたアーサーが、かすかに首を傾げて尋ねてきた。


「えっ? ああ、ううん、違うのよアーサー。お茶は完璧よ」

 私はティーカップを置き、少し声を潜めて彼に言った。


「ねえ、アーサー。……あなた、テレーズを見ていて、何か『変だ』と思わない?」


「変、ですか?」

 アーサーは、ベビーベッドのテレーズを見つめた。


「脈拍、呼吸、体温、すべて正常値の範囲内です。病の気配は一切感じられません。極めて健康的な様子ですが」


「そう、健康なのよ。すごく健康なの。……でもね」


 私は、ゴクリと唾を飲み込み、その言葉を口にした。


「……あの子、生まれてから今日まで。ただの一度も『泣いた』ことがないのよ」


「……」


 そう。

 それは、子育ての常識を根底から覆す、あまりにも異常な事態だった。


 赤ちゃんというものは、泣くのが仕事だ。

 お腹が空いた、オムツが濡れて気持ち悪い、眠いのに眠れない、暑い、寒い。

 ありとあらゆる不快感を、彼らは言葉の代わりに「大声で泣き叫ぶ」ことによって周囲の大人に知らせ、生存を図る。ジョゼフの時だって、夜泣きに悩まされてルイと二人で目の下にクマを作ったものだ。


 しかし、テレーズは違う。

 あの猛吹雪の夜、この世に生まれ落ちた瞬間の『オギャアッ!』という産声。

 ……彼女が声を荒らげたのは、後にも先にも、本当に「あの時の一回きり」だったのだ。


 たとえば、お腹が空いた時。

 普通の赤ちゃんなら、顔を真っ赤にして泣きわめく。

 だが、テレーズは絶対に泣かない。彼女はどうするかというと、私が視界に入るまでじっと無言で待ち、私とバッチリ目が合った瞬間に……。


 自分の小さな人差し指で、テーブルの上に置かれた「哺乳瓶」を、トントン、と正確に指し示すのである。


「……ミルク、飲む?」

 私が恐る恐る尋ねると、テレーズは『ええ、お願い』と言わんばかりに、わずかに顎を引いてコクンと頷くのだ。


 オムツが汚れた時もそうだ。

 彼女は決して不快感で泣いたりしない。ベッドの中で静かに私を呼び、私が近づくと、自分の腰のあたりを小さな手でポンポンと叩く。私がオムツを替えている間、彼女はどこか屈辱感の混じった、しかし圧倒的に気高い表情で、プイッと明後日の方向を向いている。


 さらに不気味なのは、宮廷の者たちが差し出す「おもちゃ」に対する態度だ。

 彼女は、気に入らないガラガラやぬいぐるみを差し出されると、まるで不出来な貢物を受け取った女王のように、指先だけで軽くつまんでポイッと床に捨ててしまうのだ。


「……異常よ。生後三ヶ月の赤ん坊が、あんなにも論理的で、無駄のないジェスチャーで要求を伝え、明確な『拒絶』の意志を示すなんて。それにあの『目』……。時々、私のことをすごく冷静に、値踏みするように観察している気がするの」


 私が背筋をゾクッと震わせながら言うと、しかしアーサーは、全く別の解釈をして深く頷いた。


「素晴らしい」


「え?」


「さすがは、ジョゼフ殿下の妹君です。生後わずか三ヶ月にして、自らの感情をコントロールし、無駄なエネルギーを一切消費しない。……完璧な隠密適性です。あの方ならば、敵地のど真ん中で身を潜めても、決して泣き声で位置を悟られることはないでしょう」


「いやいやいや! 違うでしょ! 赤ちゃんに隠密適性なんていらないから!!」


「アーサーの言う通りです。マリー」


 私のツッコミを遮るように、今度は軍帽を目深に被ったナポレオンが、どこからともなくズンッと進み出てきた。


「テレーズ王女殿下は、まさに『神の申し子』です! 泣き叫ぶことで無防備に敵に居場所を教えるような、愚かな真似はしない。そして必要な物資は、的確なハンドサインで後方支援に要求する。……あの合理的で冷徹な指揮能力! 将来は間違いなく、我がフランス軍の最高司令官を任せられる逸材です!!」


「あなたも軍事脳から離れなさいよ! 赤ちゃんよ!? まだ首も座ったばっかりなのよ!?」


「計算するまでもありません。王女殿下は、人類の進化の最先端ですわ!」


 さらに今度は、分厚い帳簿を抱えたジャンヌと、銀縁眼鏡を光らせたラプラスまでが、興奮冷めやらぬ様子で身を乗り出してきた。


「王妃様、お気づきではありませんか!? テレーズ王女が一切泣かないおかげで、侍女たちの『あやすための労働時間』がゼロになり、夜間の照明用のロウソク代も極限まで削減されています! あの赤ん坊は、生まれながらにして最高の『コストカットの概念』を体現しているのですわ!!」


「その通りです! 彼女の要求ジェスチャーの正確性は、誤解による無駄なアクションを完全に排除しています。入力に対する出力の数式が、これほどまでに美しい乳児を、私は見たことがありません!!」


「あー……もうダメだ、この天才バカたち」


 私は、盛大にため息をつき、ソファの背もたれに深く身を沈めた。


 我が国が誇る最高頭脳たちは、誰もがテレーズの異常性を「フランス王室の血がもたらした、とんでもない天才児の証拠」だと解釈し、手放しで大絶賛しているのだ。


(……でも、私は知っているわ)


 前世で現代の日本で生き、そして今生で、ジョゼフという「普通の赤ちゃん」を育て上げた母親としての経験が、私に警鐘を鳴らしている。


 赤ちゃんが泣くのは、わがままでも、無駄でもない。

 あれは「肺呼吸を鍛えるためのトレーニング」であり、親との愛着関係を形成するための、本能に組み込まれた極めて重要な生命活動だ。


 それを、自分の意志で「抑え込んでいる」としたら。


(まるで……大人だわ。あの中には、極めてプライドが高くて、理知的で、そして『今の状況を完全に理解している』何者かが、こちらの様子を窺っているとしか思えない……)


 赤ん坊というものは、もっと無防備で、世界のすべてをこれから学んでいく白紙の存在のはずだ。なのに、彼女は最初から『完成』している。それどころか、時折見せるあの態度は、まるで絶対的な権力を持つ者が、下々の者の働きぶりを冷徹に査定しているかのようだった。


「……テレーズ」


 私はソファから立ち上がり、ベビーベッドへと歩み寄った。

 ベッドの中では、プラチナブロンドの天使が、静かに目を開け、私の顔をじっと見つめ返していた。


 その、深く、どこまでも澄み切ったブルーの瞳。

 そこにあるのは、無垢な赤ん坊の無邪気さではない。

 まるで、かつてのベルサイユ宮殿で権謀術数を潜り抜けてきた老貴族のような、あるいは、すべてを達観した支配者のような……底知れぬ威厳と、冷たい知性の光だった。


(あなた……本当は、何者なの?)


 私が心の中でそう問いかけた瞬間。

 テレーズは、ふっ、と。

 ほんのわずかに、唇の端を吊り上げて、冷ややかで優雅な『貴婦人のような笑み』を浮かべた。


 ゾクッ。


 背筋に、氷を滑らせたような強烈な悪寒が走った。

 間違いない。この子は、ただの赤ちゃんじゃない。


「……王妃様?」

 私の様子がおかしいことに気づいたルイが、不思議そうに声をかけてくる。


「あ、ううん、何でもないわ、ルイ」


 私は、必死に平静を装い、夫に向けて笑顔を作った。


「テレーズは……本当に、賢くて静かな、手のかからないいい子ねって、そう思っていただけよ」


 アベンジャーズたちは「王女様万歳!」とお祭り騒ぎを続けているが、私の心の中には、かつてないほどの巨大な「得体の知れない謎」が居座ってしまった。


 彼女の小さな頭脳の中で、一体どんな思考が渦巻いているというのか。なぜ、私をあんなにも冷たく、見下すように観察するのか。


 マリー・アントワネット、29歳。

 その瞳の奥に隠された真実が、あまりにも衝撃的で、そして私のこれまでのサバイバル人生を根底から揺るがすような「最悪で最高の皮肉」であることを。


 生後三ヶ月の時点では、私はまだ知る由もなかったのである。

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