第199話 白百合の王女
チュイルリー宮殿の最深部。
暖炉の火が赤々と燃えているはずの寝室は、まるで氷の底に沈んでしまったかのように、恐ろしいほどの寒気と静寂に支配されていた。
「アントワネット……! 目を開けて、アントワネット!! お願いだ、僕を一人にしないでくれ……ッ!!」
ルイの絶望が響き渡る。
ベッドの上に横たわる私の体からは、生命の熱が失われつつあった。
陣痛の波は不規則になり、下腹部を貫いていた激痛すらも、今は遠い麻痺の中に溶け出している。視界は白く濁り、ルイの泣き叫ぶ顔も、隣で青ざめているナポレオンたちの姿も、まるで水面の揺らぎのようにぼやけて見えた。
(ああ……私、死ぬのね)
その事実を、恐ろしいほど冷静に受け止めている自分がいた。
どんなに国家を豊かにしても、どんなに強固な防衛線を築き上げても。出産という、人間の力ではどうにもならない「生命の神秘と理不尽」の前では、私はただの無力な一人の女性に過ぎなかった。
「……る、い」
私は、鉛のように重い唇を動かし、掠れた声で最愛の夫を呼んだ。
「ジョゼフを……お願い、ね。あの子は、繊細だから……あなたが、ちゃんと、愛して……」
「馬鹿なことを言うな!! 君が育てるんだ! 嫌だ、絶対に嫌だ!! サンソン先生はまだか!! 誰か、彼女を助けてくれぇっ!!」
ルイは、私の冷え切った手にすがりつき、子供のようにボロボロと涙をこぼした。
部屋の隅では、無敵を誇ったアベンジャーズたちもまた、深い絶望に沈んでいた。
ジャンヌは両手で顔を覆って泣き崩れ、ラプラスは「奇跡が起こる確率はゼロだ」と震えながら数式を破り捨て、ナポレオンはただ歯を食いしばり、軍神としての己の無力さを呪って拳から血を流している。
もう、ダメだ。
私の意識が、深い、深い暗闇の中へ完全に引きずり込まれようとした、その時だった。
——ズドォォォォォォォンッ!!!!!
突然、宮殿の廊下から、地鳴りのような凄まじい足音と、怒涛の歓声が響き渡った。
「道を開けろォォォッ!!!」
「サンソン先生のお通りだ!! 王妃様の寝室まで、立ち止まらせるなァァッ!!」
「な、なんだ……!?」
ナポレオンが弾かれたように扉へ振り返る。
バンッ!!!
寝室の重厚な扉が、勢いよく蹴り開けられた。
そこに立っていたのは、全身を雪と泥にまみれさせ、医療カバンを握りしめた主治医サンソン。
その後ろには、松明とスコップを握りしめた、無数のパリ市民たちの姿があった。彼らの体からは凄まじい熱気が立ち上り、宮殿の床を雪解け水でドロドロに濡らしている。
マリー・アントワネットが愛した民衆たちが。今度は、王妃の命を救うため、猛吹雪のパリに「数キロに及ぶ雪の回廊」を力ずくで掘り抜き、奇跡の道を繋いだのだ。
「……間に合ったか! 陛下、どいてください!! すぐに処置に入ります!!」
サンソンが、上着を脱ぎ捨てながらベッドへ飛び込んできた。
「サンソン先生!! ああ……神よ!!」
ルイが泣き崩れて道を開ける。
しかし。
私の濁った瞳は、サンソン先生でも、助けに来てくれた市民たちでもなく。
血まみれのアーサーに支えられながら、群衆を掻き分けて一番前へと飛び出してきた「小さな影」に釘付けになっていた。
「……ママンッ!!」
ジョゼフ。
美しい金髪は雪と泥で汚れ、小さな頬は凍傷で真っ赤に腫れ上がっている。着ていたコートはボロボロに引き裂かれ、彼がどれほどの死線を潜り抜けてここへ来たのかを一目で物語っていた。
「じょ、ぜふ……? どうして、あなたが……」
「……王妃様」
アーサーが、血を吐きながらも、その場に崩れ落ちるように膝をつき、震える声で告げた。
「ジョゼフ殿下が……猛吹雪の地獄を這いずって……我々に、命の光を、繋いでくださったのです……ッ!」
「なっ……!?」
ルイも、ナポレオンたちも、驚愕に息を呑んだ。
6歳の子供が。
大の大人でも遭難する絶対零度の白魔を抜け、パリの市民の心を動かし、奇跡を連れて帰ってきたというのか。
「……ママン!!」
ジョゼフは、ベッドに縋り付くと、私の冷え切った右手を、自分の小さな、血と氷でガチガチになった両手でギュッと握りしめた。
痛いほどに冷たいはずの手。けれど、そこからは、燃え盛るような『命の熱』が伝わってきた。
「だめだ! だめだよママン!! しんじゃだめだ!!」
「……ごめんね、ジョゼフ。お母様、もう……力が……」
「ぼく、約束したじゃないか!!」
ジョゼフの大きな瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、私の青白い手のひらを濡らした。
「赤ちゃんを守るって! ぼくが、世界で一番かっこいいお兄ちゃんになるって!! なのに、ママンがいなくなったら、ぼく、どうやって赤ちゃんを守ればいいのさ!!」
ジョゼフは、顔をくしゃくしゃにして、魂の底から叫んだ。
「ぼくを置いていかないで!! 吹雪だってぜんぶやっつけてきたんだから!! だからお願い、ママンも、赤ちゃんも……ぼくのそばにいてよぉぉぉっ!!!」
その時。
ジョゼフの破れたポケットから転がり落ちた、小さな真鍮の「オルゴール」が、ベッドの端にぶつかってカチャリと鳴った。
ポロロン……ポロロロン……。
不器用だけれど、温かい。ジョゼフとルイが作ってくれた『きらきら星』のメロディが、静かに寝室に響き渡る。
「アントワネット……聞こえるか!!」
ルイが、泣きじゃくるジョゼフの肩を抱きしめ、私に向かって絶叫した。
「ジョゼフが、君と赤ちゃんのために作った曲だ! この子が命懸けで守ろうとした家族を……僕たちを、置いていかないでくれッ!!」
——ドクン。
私のお腹の中で、小さな、本当に小さな命が、そのメロディと父や兄の声に応えるように、力強く蹴り上げるのを感じた。
(ああ……そうだったわ)
暗闇に沈みかけていた私の心に、強烈な「光」と「熱」が叩き込まれる。
目の前には、私を愛し、私のために命を懸けて地獄を越えてきてくれた、こんなにも立派な、愛しい息子がいる。
無残な傷だらけになってまで、この子は私を諦めなかった。
(この子が……たった6歳の子供が、これほどまでに戦ってくれたのに。母親の私が、ここで諦めてどうするのよッ!!!)
ズンッ!!!
失われていたはずの生命力が、全身の毛細血管を駆け巡り、爆発的な熱となって私の体を支配した。歴史の強制力など、家族の絆の前ではちっぽけな幻影に過ぎない。
「……サンソン先生!!」
私は、虚ろだった目をカッと見開き、かつてないほどの力強い声で叫んだ。
「えっ!? は、はい!! 王妃様!!」
「赤ちゃんが、出たがってるわ……!! いつ、いきめばいいの!? 指示を出しなさい!!」
「お、おおおっ!! 脈拍が戻った!! 生命力のバグだ!! さすがは我がフランスの王妃様!! 陛下、王妃様の上体を支えて!! ナポレオン閣下、お湯と清潔なタオルを!!」
サンソンの的確な号令のもと、絶望に沈んでいた寝室が、一気に「勝利へ向けた戦場」へと変わる。
「わかった!! 頑張れ、アントワネット!! 君ならできる!!」
ルイが私の背中を力強く支える。
「全軍、サンソン軍医の指示に従え!! 勝利は目の前だ!!」
ナポレオンが、軍神の覇気で部屋中の人間を動かす。
「ジョゼフ……!」
私は、私の手を握りしめている小さな息子の顔を、しっかりと見つめ返した。
「お母様は、絶対に死なない。……あなたと、この子を置いてなんて、絶対にどこへも行かないわ。だから、しっかり見ていなさい。……お兄ちゃん!!」
「うん……っ!! うんっ!!!」
ジョゼフが、涙を拭って力強く頷く。
「さあ、王妃様! 今です! 息を吸って……!!」
サンソンの声に合わせて。
私は、全身の筋肉、骨、魂のすべてを振り絞って、最後の一押しに全存在を懸けた。
「あ、あああああああァァァァァァァァァァァァッ!!!!!」
そして——。
『オギャアァァァッ!!! オギャアァァァッ!!!』
猛吹雪の轟音すらも掻き消すような。
生命力に満ち溢れた、高く、澄み切った、奇跡の産声が、チュイルリー宮殿に響き渡った。
「……生まれました!! 元気な、元気な……女の子です!!!」
サンソン先生が、血と羊水にまみれた小さな命を、歓喜の涙を流しながら高く掲げた。
「あ、ああ……ああっ!!」
ルイは、言葉にならず、ただ私の髪を撫でながら、顔をくしゃくしゃにして号泣した。
「やりましたわ……っ! やりましたわ王妃様ぁぁっ!!」
ジャンヌが、帳簿を放り投げて床に突っ伏して泣き叫ぶ。
「……奇跡だ。いや、彼女の執念と愛が、確率の壁を物理的に叩き割ったのだ」
ラプラスが、曇った眼鏡を拭きながら震える声で呟く。
「……軍神などと名乗っていた自分が恥ずかしい。あの母子に比べれば、私の戦いなど子供の泥遊びに過ぎない」
ナポレオンが、深く軍帽を脱ぎ、最上級の敬意をもって頭を垂れる。
「……対象の生存を確認。ミッション、コンプリート」
背後で倒れていたアーサーが、血だらけの顔で、微かに、本当に微かに笑みを浮かべた。
部屋中の大人たちが、そして廊下で待機していたパリの市民たちが、抱き合い、涙を流して狂喜乱舞している。
サンソン先生は、手早く赤ちゃんを清潔なお湯で洗い、純白の温かい布で包み込むと、そっと私の胸元へと運んできてくれた。
「お疲れ様でした、王妃様。……見事な白百合の王女様です」
「……かわいい」
私は、胸の中でモゾモゾと動く、小さくて赤い、シワシワの命を見つめた。
「マリー・テレーズ……。私の天使」
私がそっとその小さな頬に口づけをすると、テレーズは安心したように泣き止み、私の胸に顔をすり寄せた。
「……ママン」
ベッドの脇で、泥だらけのジョゼフが、自分の手をモジモジとさせながら、食い入るように赤ちゃんを見つめていた。
「ジョゼフ。……おいで」
私が微笑んで促すと、ジョゼフは恐る恐る、ベッドの上に這い上がってきた。
「ほら、あなたの妹よ。ジョゼフが吹雪の中を走ってくれたから、無事に生まれてくることができたのよ。……抱っこしてあげて」
「ぼ、ぼくが……?」
「パパも手伝うよ」
ルイが背中を支え、私はジョゼフの小さな腕の中に、テレーズをそっと乗せた。
「わぁ……っ」
ジョゼフは、壊れ物を扱うように、ガチガチに緊張しながらテレーズを抱いた。
すると、テレーズがパチッと目を覚まし、小さな小さな手を伸ばして、ジョゼフの傷だらけの指を、ギュッと力強く握りしめたのだ。
「あ……」
ジョゼフの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。
だが、それはもう、寂しさやプレッシャーの涙ではない。守るべき命の温かさと、自分が命懸けで繋いだ絆の重みを知った、真の兄としての歓喜の涙だった。
「……はじめまして」
ジョゼフは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、世界で一番優しい笑顔を浮かべた。
「ぼくが、ジョゼフだよ。……きみのお兄ちゃんだよ」
キャッ、と。
テレーズが、まるでその言葉に答えるように、無邪気な産声を上げた。
オルゴールの優しいメロディが、静かに、静かに宮殿を包み込んでいる。
外の猛吹雪は、嘘のように穏やかになり、雲の隙間からは、新しい時代の幕開けを祝福するような、まばゆい朝日が差し込み始めていた。
最強の王妃と、不器用なオタク王。
そして、命懸けで妹を救った、小さな英雄。
フランス王国の歴史は今、血塗られた悲劇の運命を乗り越え、白百合のゆりかごの中で、最も美しく、最も尊い『絶対的な幸福の光』へと到達したのである。
(……ええ。私たちの未来は、ここから始まるのよ)
私は、愛する夫と、愛する二人の子供たちを抱きしめながら、これ以上ないほどの幸せな涙とともに、静かに微笑んだのだった。




