第198話 小さな英雄
——それは、パリの歴史に永遠に語り継がれることになる、最も過酷で、最も気高い「6歳の王」の行軍であった。
チュイルリー宮殿の厚い扉が、凄まじい風圧とともにこじ開けられる。
一歩外へ踏み出した瞬間、ジョゼフの小さな体は、見えない巨人に殴り飛ばされたかのように宙に浮きかけた。
「うわぁっ!!」
「殿下ッ!!」
背後から伸びたアーサーの屈強な腕が、ジョゼフのコートの襟首を掴み、間一髪で地面に引き戻す。
ビューゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!!
吹き荒れる白魔の嵐。マイナス十度を下回る冷気が、肺の奥まで入り込み、呼吸をするたびに無数のガラスの破片を吸い込んでいるような激痛をもたらす。
目の前はホワイトアウトしており、美しく舗装されていたはずのパリの石畳は、大人の腰の高さまである深い雪に埋め尽くされていた。
「……これが、自然の暴力です」
アーサーは、ジョゼフの前に立ち塞がり、暗闇のような瞳で吹雪を睨みつけた。
「殿下、恐ろしいなら今すぐ引き返すべきです。宮殿にいれば、死ぬことはありません。しかし、この門を一歩でも越えれば、私はあなたの命を保証することはできなくなります」
「……ううん」
ジョゼフは、ガタガタと震えながらも、首を横に振った。
「ぼく、じぶんの足であるく」
「何を仰るのです! この雪ではあなたの足など埋もれて……」
「 ぼくは、お兄ちゃんだもん! じぶんの足で、ママンをたすけにいくんだ!!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔。しかし、その瞳に宿る炎は、凍てつく吹雪を前にしても決して消えることはなかった。
アーサーは、その小さな背中から放たれる「王の覇気」に、思わず息を呑んだ。
かつて、暗殺教団で数え切れないほどの人間を見てきた。死の恐怖に直面した時、大抵の人間は泣き叫び、醜く命乞いをする。
だが、この6歳の子供は。己の命よりも重い「守るべきもの」のために、自らの足で地獄を歩こうとしている。
「……承知いたしました」
アーサーは、深く一礼をした。
「ならば、私の作った足跡を、決して離れずに踏んでついてきてください。……我が君」
アーサーが盾となり、猛吹雪のパリ市街地へと足を踏み入れた。
* * *
ズボッ。ズボッ。
アーサーが雪を押し除けて深い轍を作る。ジョゼフは、その大きな足跡の穴に、自分の小さな足を必死に突っ込みながら、懸命についていった。
寒さで手足の感覚はとうに消え失せ、雪に足を取られて何度も何度も転んだ。その度に顔中が雪まみれになり、凍傷のような痛みが走る。
(いたい……さむい……。かえりたい……っ)
子供の弱い心が、何度も悲鳴を上げる。
でも、その度にジョゼフは、ポケットの中にある真鍮のオルゴールを力強く握りしめた。
『ぼくが、絶対にきみを守ってあげるからね』
(あかちゃんが、まってる。パパが、ないてる。……ぼくがいかなくちゃ!!)
一時間後。
死線を潜り抜けながら、二人はようやくパリ市街地にある「サンソン医院」へとたどり着いた。しかし、暖炉の火は消え、机の上には『東区の貧民街の長屋崩落現場へ向かう』というメモが残されているだけだった。
「……殿下。苦渋の決断ですが、宮殿へ戻ります。ここから東区まではさらに数キロ……これ以上の行軍は、あなたを死なせます」
「だめっ! いくの! サンソン先生を、よぶの!!」
ジョゼフは泣き叫びながら、再び吹雪の入り口へと飛び出した。アーサーは無言でその後を追い、再びジョゼフの前に立って雪の壁を切り裂き始めた。
だが。
東区の貧民街へと続く細い路地に入った時、自然の暴威が、ついにアーサーの限界を打ち砕いた。
メキメキッ……ドスゥゥゥンッ!!!
雪の重みに耐えきれなくなった古い木造の時計塔が、ジョゼフの頭上に向かって崩れ落ちてきたのだ。
「殿下ッ!!」
アーサーは、咄嗟にジョゼフを雪の中へ突き飛ばし、自らの体を盾にして、落下してきた瓦礫と雪の塊を背中で受け止めた。
「ぐ、ぁぁぁぁぁっ……!!」
アーサーの口から鮮血が噴き出し、雪を赤く染める。彼の強靭な足が、ついに雪の中に深く膝をついた。
「アーサー!! アーサー!!」
ジョゼフが這いずり寄り、必死にアーサーを助け起こそうとする。
「……でん、か……。申し訳、ありません……。私の足は、もはや……」
瓦礫の下敷きになり、アーサーの両足は完全に折れていた。
出血と極寒で、彼の意識はすでに薄れかけている。
「殿下……どうか、お戻りを……。ここから東区の酒場までは、まだ……数百メートルあります。……大人の私がついていても、無理でした。……どうか、命を……」
「……ううん」
ジョゼフは、ポロポロと涙を流しながら、自分の首に巻いていた温かいマフラーを外し、アーサーの首にぐるぐると巻きつけた。
「アーサー、今まで、ぼくをまもってくれてありがとう。……道をつくってくれて、ありがとう」
「殿、下……! いけません、一人では……ッ!」
アーサーの制止する声を背に、ジョゼフは立ち上がった。
アーサーがいないということは、これからは「大人の腰の高さまである雪の壁」を、子供が自力で掻き分けて進まなければならないということだ。
「……ぼくは、お兄ちゃんだから」
ジョゼフは、猛吹雪の暗闇に向かって、小さな足を踏み出した。
——そこからの数百メートルは、まさに「永遠」だった。
雪はジョゼフの胸の高さまであり、一歩歩くごとに体が埋もれる。
彼は歩くことを諦め、雪の上に腹這いになり、犬かきのように必死に雪を掻いて、這いずりながら進んだ。
手袋は破れ、指先は紫色に変色し、擦り切れて血が滲んでいる。
まつ毛は凍りつき、視界は真っ白。自分がどこに向かっているのかすら、もう分からない。
(ママン……あかちゃん……)
意識が薄れ、雪の中に顔を埋めたまま、眠ってしまいたくなる。
このまま目を閉じれば、きっと温かい夢が見られる。
だが、その度に、ポケットの中のオルゴールの硬い感触が、チクチクと彼の太ももを刺し、現実に引き戻した。
『こわいことがあったら、ぼくが全部やっつけてあげるから!』
(ぼくが、いくんだ。ぼくが、おにいちゃんなんだぁぁぁっ!!!)
ジョゼフは、泣き叫びながら、雪を掘り、血を流し、這いずって、這いずって、這いずり続けた。
人間の限界を、6歳の小さな魂の「愛」が、凌駕していた。
* * *
東区の貧民街の酒場。
サンソン医師は、血まみれになりながら、雪崩に巻き込まれた市民たちの治療を不休で続けていた。
「先生、薬が尽きました! この吹雪じゃ、外に助けを呼ぶことも……!」
助手が絶望の声を上げた、その瞬間。
……ドスッ。
酒場の分厚い木の扉に、外から何かがぶつかるような、微かな音がした。
……トン。トン。
「なんだ……? 誰か、外にいるのか?」
屈強な労働者の一人が、怪訝な顔をして扉のカンヌキを外し、重い扉を内側に引いた。
雪と風が室内に吹き込む。
そして。
「…………え?」
扉を開けた労働者は、息を呑み、言葉を失った。
サンソンも、怪我人たちも、全員の視線が入り口に釘付けになった。
そこには、全身を分厚い氷と雪に覆われ、雪だるまのようになりながらも、ガタガタと震えて立っている「小さな男の子」がいた。
服はボロボロに破れ、露出した頬や指先からは血が流れ、凍りついている。
一歩踏み出した瞬間、限界を迎えていたその小さな体は、糸が切れたように床へと倒れ込んだ。
「ぼ、坊うず!? おい、大丈夫か!!」
労働者が慌てて抱き起こそうとした時、サンソンがその顔を見て、悲鳴のような声を上げた。
「で、殿下!? ジョ、ジョゼフ王太子殿下ッ!?」
その言葉に、酒場にいた数十人の市民たちが一斉に凍りついた。
王太子。次期国王。それがなぜ、大の大人でも一瞬で凍死するこの猛吹雪の中を、たった一人で、護衛もつけずにここまでやって来たのか。
「……サンソン、先生……」
ジョゼフは、意識が朦朧とする中、血の滲んだ紫色の唇を震わせて、サンソンの服の袖をギュッと握りしめた。
「おねがい……。ママンが……ママンと、赤ちゃんが、死んじゃう……っ。ママンを、たすけて……!」
「で、殿下……! なんという……なんという無茶を……!!」
サンソンは、ジョゼフの氷のような小さな手を握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
「……あっ。先生……アーサーが、うしろの道で……お家の下じきに……。アーサーも、たすけて……あげて……」
自分の命が消えかかっているというのに、自分を守ってくれた騎士のことまで気遣う。その気高くも純粋な言葉を残し、ジョゼフの意識は完全に途切れた。
——静寂。
酒場の中は、恐ろしいほどの静けさに包まれた。
王族。
かつて彼らが憎み、自分たちの血をすするダニだと罵っていた存在。
史実の歴史がそのまま進んでいれば、数年後には暴動を起こし、この少年から両親を奪い、牢獄に幽閉して見殺しにしていたはずの、パリの民衆たち。
だが、今彼らの目の前にいるのは、ふんぞり返った暴君ではない。
パリに下水道を作り、疫病から自分たちを救ってくれた王妃マリー・アントワネット。
そして今、その母を救うため、吹雪の中で血を流しながら、たった一人で這いずってここへ辿り着いた、ボロボロの小さな英雄の姿だった。
「……おい」
怪我人の介抱をしていた一人の大男が、立ち上がった。
彼の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。
「この小さな王様は……たった一人で、あの地獄の中を歩いてきたってのか……。母親を、助けるためだけに……」
「……ああ。俺たちの命の恩人である、アントワネット様を救うためにな」
男の言葉に、市民たちの心の中で、何かが激しく、熱く燃え上がった。
「……ふざけんなよ!!」
大男が、大声で怒鳴り、壁に立てかけてあった「鉄のスコップ」を乱暴に掴み取った。
「俺たちが、王妃様にどれだけ恩があると思ってんだ!! 疫病からガキを救ってもらった! パンをお腹いっぱい食えるようになった!……こんなちっこい坊主が命懸けで走ってんのに、パリの男がぬくぬく縮こまってられるかよォォォッ!!!」
「おうよ!!!」
その怒号を合図に、近くにいた無傷の男たちが、次々とスコップやツルハシ、薪割りの斧を手に立ち上がった。
「サンソン先生!! まずは途中に倒れてる護衛の騎士様を助け出す! 先生は王妃様のところへ向かってくれ!!」
「だが、この吹雪じゃ馬車は愚か、歩くことも……!」
「道がねえなら、俺たちが作ってやる!! パリ中の野郎どもを叩き起こして、チュイルリー宮殿までの『雪の回廊』を掘り抜いてやるよ!!!」
男たちは、次々と松明に火を灯し、猛吹雪の吹き荒れる外へと飛び出していった。
「おらぁぁぁっ!! 除雪だァッ! 邪魔な倒木は切り刻め!!」
「隣の長屋の連中も叩き起こせ! 王妃様の赤ん坊が生まれるんだぞ!! 全員で道を開けろォォォッ!!」
それは、真の奇跡だった。
かつて、王室への怒りでバスティーユを襲撃したパリの民衆たちの、その圧倒的な破壊のエネルギーが。
今生においては、王室への「愛と恩義」という強烈な熱量に変換され、大自然の猛威を力ずくで粉砕する『命のエネルギー』となって爆発したのだ。
松明の火が、次々と灯っていく。
一人、十人、百人、千人。
貧民街からチュイルリー宮殿までの数キロの道のりを。
何千人ものパリ市民たちが、吹雪をものともせず、スコップと己の熱気だけで、巨大な「雪のトンネル」を猛スピードで切り拓いていく。
「……ジョゼフ殿下。あなたは、本当に立派な兄になられました」
サンソンは、気絶したジョゼフの小さな手を自らの手で温めながら、涙とともに呟いた。
そして、震える手で医療カバンを掴み立ち上がった。
「さあ、急ぎましょう! パリの民が作ってくれた、この命の道を!」
小さな英雄の血だらけの疾走が灯した希望の火は、凍てつく絶望の夜を焼き尽くし、パリの民衆と王室を真に一つに結びつけた。
その熱き炎の道は、やがて来る「奇跡の産声」へと、真っ直ぐに繋がっていたのである。




