第197話 孤立のチュイルリー
自然の猛威というものは、時として人類が築き上げた科学や防衛線を、いとも容易くあざ笑う。
マリー・アントワネットが臨月を迎えた、その年の冬。パリは、百年に一度と言われる「記録的な大猛吹雪」に見舞われていた。
ビューゥゥゥゥゥゥッ!!!!!
窓ガラスを叩き割らんばかりの凄まじい暴風雪。
昼間であるにもかかわらず、空は鉛色に閉ざされ、視界は完全な白魔に覆われている。美しく舗装されたパリの石畳は一メートルを超える豪雪に埋もれ、セーヌ川は完全に氷結。強風でなぎ倒された街路樹が道を塞ぎ、都市の機能は麻痺していた。
「……痛っ……あ、ああ……ッ!!」
チュイルリー宮殿の、最も奥深くにある王妃の寝室。
暖炉の火が赤々と燃えるその部屋で、私はベッドのシーツを強く握りしめ、かつてないほどの激痛に顔を歪ませていた。
「ア、アントワネット!! 大丈夫かい!? 息を、息を吐いて!!」
ベッドの傍らで、ルイが真っ青な顔をして私の背中をさすっている。
「る、い……っ! お腹が……すごく、痛い……! 破水、したみたい……ッ!」
「そんな! まだ予定日より数週間も早いのに!!」
ルイの悲鳴に近い声を聞きつけ、隣の控室からナポレオン、ジャンヌ、ラプラスらアベンジャーズの面々が血相を変えて飛び込んできた。
「王妃様!! いけません、ただちにサンソン先生を呼ばなければ!! アーサー! 通信塔へ走れ!!」
ナポレオンが鋭く叫ぶが。
「……不可能です」
バルコニーの窓から、全身を雪まみれにしたアーサーが、かつてないほど絶望的な顔をして部屋に入ってきた。
「猛吹雪によって、通信塔のアームが凍結しています。視界もゼロのため、光学通信網は完全にダウン。……物理的に、宮殿から外部への情報伝達手段が絶たれました」
「なっ……! ならば早馬を出せ!! サンソン先生のいる病院まで、近衛兵を走らせるんだ!!」
「それも無理ですわ、ボナパルト閣下!!」
ジャンヌが、悲鳴のような声を上げた。
「先ほど、決死隊として馬を出そうとしましたが、積雪と倒木で馬の脚が埋まり、一歩も進めない状態です!……それに、サンソン先生は今朝から、雪の重みで屋根が崩落した下町の長屋に閉じ込められ、怪我をした市民たちの緊急オペに当たっているはず! この嵐の中で、広大なパリの街から先生をピンポイントで探し出すなんて……!!」
情報網の切断。交通網の麻痺。そして、主治医の不在。完璧なインフラを誇っていたはずのフランスの心臓部が、自然の暴威によって、完全なる「陸の孤島」と化してしまったのだ。
「はぁっ……はぁっ……! ああっ!!」
陣痛の波が、容赦なく私の体を襲う。
下腹部をハンマーで内側から打ち砕かれるような激痛。出産は経験しているが、予定より早い未熟な状態での急な陣痛は、明らかに異常をきたしていた。
「私の計算した確率論によれば……」
ラプラスが、ガタガタと震える手で眼鏡を押し上げた。
「この環境下で、熟練の医師なしに、早期の難産を乗り切れる確率は……母子ともに生存できる確率は、限りなくゼロに近い……!!」
「計算なんてするな!! 確率なんてクソ食らえだ!!」
普段は温厚なオタク王ルイが、鬼の形相でラプラスを怒鳴りつけた。
「くそっ……! くそぉっ!! 僕は、装甲列車を作った! 海を渡る巨大な蒸気船を作った!……なのに! なのに、どうして!! 愛する妻と子供一人、助けてやれないんだ!! 科学の力なんて、こんな時に何の役にも立たないじゃないか!!」
ルイは、自分の無力さを呪うように、血が滲むほど強く自身の太ももを殴りつけた。
世界最高の軍事司令官。
世界最高の暗殺者。
世界最高の数学者と財務長官。
この国に絶対的な平和をもたらした最強のアベンジャーズたちが、今、一人の女性の出産という生命の神秘を前にして、何の役にも立たず、ただ震えながら絶望の表情を浮かべていることしかできなかった。
「……る、い……。みんな、泣かないで……っ」
私は、全身から脂汗を流し、息も絶え絶えになりながら、絞り出すように声をかけた。
「わ、わたしは……絶対に、死なないわ。……だって、この子に、平和な……世界を、見せてあげるって……約束、したんだから……ッ!! あああああっ!!!」
再び襲い来る激痛に、私はシーツを噛みちぎらんばかりに食いしばった。
意識が遠のきそうになる。
血の気が引き、指先から徐々に体温が奪われていくのがわかる。
(……お願い。誰か……誰か、助けて……!! このままじゃ、赤ちゃんが……!!)
誰もが天を仰ぎ、絶望の淵に立たされた、その時。
「……泣いてちゃ、ダメだ」
寝室のドアの隙間。
そこから、青ざめた大人たちのパニックを、静かに、しかし燃えるような瞳で見つめている「小さな影」があった。
——王太子ジョゼフ、6歳。
彼の手には、パパと一緒に作った「真鍮のオルゴール」が、真っ白になるほど強く握りしめられていた。
(……パパも、ナポレオンおじさんも、どうしていいか分からなくて、泣いてる。このままじゃ、ママンが死んじゃう。赤ちゃんも、死んじゃう!)
ジョゼフの脳裏に、数日前の夜、自分がお腹に誓った言葉が蘇る。
『はじめまして。ぼくが、きみのお兄ちゃんだよ。ぼくが、絶対にきみを守ってあげるからね』
ジョゼフは、震える足をバンッと力強く踏みしめた。
(ぼくは、お兄ちゃんだ。……赤ちゃんを守るって、約束したんだ!!大人が動けないなら、ぼくがいくしかない!!)
ジョゼフは、寝室には入らず、踵を返して宮殿の廊下を全力で走り出した。
向かったのは、自分の衣装部屋。一番分厚いウールのコートを引きずり出し、不器用な手つきでボタンを留める。毛皮の帽子を被り、小さなブーツを履く。
彼が宮殿の裏口へ向かおうとした時、その前に、漆黒の影が立ち塞がった。
「……どちらへ行かれるおつもりですか、ジョゼフ殿下」
アーサーである。
彼は、ジョゼフの異変に気づき、密かに後を追ってきていたのだ。
「どいて、アーサー!! ぼく、サンソン先生を呼んでくる!!」
「馬鹿なことを。外はマイナス十度の猛吹雪です。大人の私でさえ、視界が確保できず、雪に足を取られて遭難するレベルの地獄です。6歳のあなたの足で、サンソン先生のいる市街地までたどり着ける確率など、万に一つもありません」
アーサーの無機質で冷酷な事実の提示。
しかし、ジョゼフは一歩も引かなかった。
「……万に一つでも、ゼロじゃない!!」
「殿下……」
「アーサーが教えてくれたじゃないか!! 誰かを守るために力を振るう時、心に『熱』が灯るんだって!ぼくは、ママンと赤ちゃんを守る!! この熱があれば、吹雪になんて絶対に負けないっ!!」
ジョゼフの大きな瞳から、涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
だが、その瞳の奥にある「兄としての覚悟」の炎は、アーサーの氷のような心を一瞬で溶かすほどに、猛烈に燃え盛っていた。
「……ぼくは、フランスの王太子だぞ!! ぼくの行く道を、じゃまするなぁっ!!」
6歳の子供が放った、人生で初めての「王としての命令」。
その小さな、しかし圧倒的な覇気と愛の深さに触れ。
彼は、静かに目を閉じ、そして、深く、臣下としての最上級の礼をとった。
「……御意に。我が君」
アーサーは立ち上がると、自らの分厚い漆黒のコートを脱ぎ、ジョゼフの小さな体を頭からすっぽりと包み込んだ。
「あなたがそこまでの覚悟をお持ちなら、私は『盾』となりましょう。……共に、地獄の底へ。サンソン先生を、力ずくで引きずり連れてまいります」
「アーサー……!! うんっ!!」
アーサーと、小さな王太子。
大人たちが絶望に打ちひしがれる中、二つの影は、吹き荒れる白魔の嵐が待ち受ける宮殿の扉を、思い切り蹴り開けた。
ビューゥゥゥゥゥゥッ!!!!!
顔を切り裂くような氷の暴風が、容赦なくジョゼフの小さな体を殴りつける。
だが、彼は決して後ろを振り向かなかった。
(待ってて、ママン、赤ちゃん……! ぼくが、絶対に助けるから!!)
愛する家族の命を繋ぐため。
一人の小さな英雄が、嵐の夜のパリへと、決死の疾走を開始したのである。




