第196話 父の約束
チュイルリー宮殿の子供部屋。
アーサーの完璧な隠密ルートによって、誰にも見つかることなく自室へと帰還したジョゼフは、静かに深呼吸をした。
ソファでは、まだ教育係の女官がスゥスゥと寝息を立てている。
ジョゼフは、自分の小さなポケットに手を入れ、そこに詰め込まれた「壊れた機関車のパーツ」の冷たい感触を確かめた。
(……よし。ちゃんとパパに謝るんだ)
決意を固めたジョゼフが、部屋の奥へ進もうとした、その時。
「……ジョゼフ?」
入り口から、ひどく疲れた、しかし優しさに満ちた声が響いた。
振り返ると、ルイが、心配そうな顔で立っていた。彼の視線は、壁の凹んだ跡と、床に残っていた真鍮の破片に向けられている。
「パパ……」
ジョゼフは、ビクッと肩をすくめた。
怒られる。せっかくパパが作ってくれた宝物を、わがままで壊してしまったのだから。
ジョゼフは、震える手でポケットからバラバラになったパーツを取り出し、床に正座して、小さな頭を床に擦り付けるように下げた。
「ごめんなさい、パパ……っ! ぼく、嫌な気持ちになって、パパの作ってくれた機関車、壁に投げちゃった……。ぼく、悪い子だ……っ」
ポロポロと涙をこぼしながら、必死に謝るジョゼフ。しかし、ルイは怒鳴ることも、呆れることもしなかった。
彼は静かに歩み寄ると、床に散らばったパーツを拾い上げ、そしてジョゼフの小さな体を、大きな腕でギュッと抱きしめたのだ。
「……怒らないの?」
ジョゼフが恐る恐る顔を上げると、ルイの目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
「怒るわけないだろう。……ごめんな、ジョゼフ。僕が、一人ぼっちにさせてしまったからだ。ママンのつわりが酷くて、そっちにかかりきりになって……ジョゼフがどんなに寂しい思いをしているか、気づいてあげられなかった。本当に、ダメなパパだ」
彼は自分の非を素直に認め、息子に心から謝罪した。
その不器用で真っ直ぐな愛情に触れ、ジョゼフの心にこびりついていた最後の「不安のモヤモヤ」が、溶けて消え去っていった。
「ううん……ぼくも、もう寂しくないよ。だって、アーサーとナポレオンが教えてくれたもん。赤ちゃんは敵じゃない。ぼくの、一番最初の部下で、味方なんだって!」
「ぶ、部下?」
ルイは目を丸くしたが、すぐに吹き出して、ジョゼフの頭をクシャクシャと撫でた。
「そうか、ナポレオンたちに変な教育を受けちゃったか。……でも、その通りだ。これから生まれてくる子は、君の最高の家族になる」
ルイは、手のひらに乗せた「壊れた機関車のパーツ」を、愛おしそうに見つめた。
「おもちゃは、壊れてもまた直せる。……いや、せっかくだから、このパーツを使って『新しいおもちゃ』を二人で作ろうか」
「新しい、おもちゃ?」
「ああ! 機関車は速すぎて、生まれたばかりの赤ちゃんにはまだ早い。だから、君が壊してしまったこの真鍮の歯車を組み直して、赤ちゃんが喜ぶ『音の出るおもちゃ』を作るんだ! ジョゼフ、僕の『助手』になってくれるかい?」
「うんっ!! ぼく、パパの助手になる!!」
ジョゼフの顔に、太陽のような満面の笑みが戻った。
* * *
チュイルリー宮殿の工房。
そこでは、オタク父・ルイと、小さな助手・ジョゼフによる、極秘の「おもちゃ改造計画」が夜まで続けられていた。
「よし、ジョゼフ。このシリンダーの表面に、小さなピンを等間隔で植え込んでいくんだ。ピンセットで慎重にな」
「わかった、パパ! こう……?」
ジョゼフは、舌を少し出しながら、全集中で小さな金属のピンを円筒に差し込んでいく。
「すごいぞジョゼフ、筋がいい! そのピンが、真鍮の櫛歯を弾くことで、美しいメロディを奏でるんだ」
彼らが作っていたのは、18世紀末にはまだ非常に珍しかった、シリンダー式のオルゴールだった。
機関車の駆動に使われていたゼンマイと歯車を「動く力」から「奏でる力」へと変換する。ジョゼフの怒りと寂しさで壊れてしまった機関車が、オタク王の魔法と、兄としての愛情の手によって、赤ちゃんのための「優しい音楽」へと生まれ変わろうとしていた。
「……パパ。赤ちゃん、よろこんでくれるかな?」
「絶対に喜ぶさ。だって、このオルゴールには、世界で一番優しいお兄ちゃんの『愛情の歯車』が組み込まれているんだからね」
ルイは、ジョゼフの手を自分の手で包み込みながら、最後のネジをキュッと締め上げた。
「それに、メロディの監修は、あのモーツァルト君にお願いして『きらきら星変奏曲』をオルゴール用に編曲してもらったんだ。元のフランス語の曲名は『ああ、お母さん(Ah! Vous dirais-je, Maman)』。……君と赤ちゃんから、ママンへの最高のプレゼントになるよ」
「やったぁ!! はやく、ママンと赤ちゃんに聞かせてあげたい!!」
完成した手のひらサイズの美しい真鍮のオルゴールを胸に抱き、ジョゼフは目をキラキラと輝かせた。
* * *
翌日の夜。
つわりが少し落ち着き、ベッドで本を読んでいた私の寝室に、コツコツと控えめなノックの音が響いた。
暖炉には火が入っているというのに、窓の外から忍び込む夜風は、身震いするほど不気味に冷たかった。
「入っていいわよ」
ドアが開き、パジャマ姿のジョゼフが、モジモジしながら部屋に入ってきた。
「ママン……。ぐあい、だいじょうぶ?」
「ええ、今日はとっても気分がいいわ。ジョゼフこそ、寂しい思いをさせてごめんなさいね。おいで」
私が両手を広げると、ジョゼフはタタタッと駆け寄り、私の胸にギュッと飛び込んできた。
「あのね、ママン。ぼく、赤ちゃんのために、パパといっしょにプレゼントを作ったの!」
ジョゼフは、得意げに背中から「金色のオルゴール」を取り出した。
「まあ……! これは、ジョゼフが作ってくれたの?」
「うん! ゼンマイを巻くね!」
ジョゼフが小さな手でゼンマイをカリカリと巻くと、静かな寝室に、ポロロン……と、澄み切ったガラスの粒を転がすような、この上なく美しい『きらきら星』のメロディが響き渡った。
優しくて、温かくて、心の底から安心できる音色。
「……なんて綺麗な音。ジョゼフ、ありがとう。赤ちゃん、きっとすごく喜ぶわ」
私が彼の頭を撫でると、ジョゼフは少し照れくさそうに笑い、そして、私のお腹をじっと見つめた。
「ねえ、ママン。赤ちゃんは今、起きてるの?」
「どうかしら。もう随分とお腹も大きくなってきたけれど……」
「ぼく、赤ちゃんにお話ししてもいい?」
「ええ、もちろんよ」
私が頷くと、ジョゼフはそっとベッドに這い上がり、私の大きく膨らんだお腹に、自分の小さな耳をピタリと当てた。
静寂の中、オルゴールの優しいメロディだけが部屋に流れている。
「……赤ちゃん。きこえる? ぼくだよ、ジョゼフだよ」
ジョゼフが、小さな声でお腹に向かって囁きかけた。
「もうすぐ、あえるね。ぼく、おもちゃのあそびかた、いっぱい知ってるから、ぜんぶおしえてあげる。……だから、安心してでておいで」
——その時だった。
ポムッ。
「……え?」
ジョゼフが、目を丸くして顔を上げた。
「ママン! 今、お腹のなかで、なにかがポコッて動いたよ!!」
「ふふっ。赤ちゃんが、ジョゼフの声を聞いてお返事してくれたのね」
私も、お腹の奥で力強く蹴られた感触に、くすぐったいような、言葉にできないほどの幸せな熱を感じていた。
「お返事……。赤ちゃんが、ぼくに……」
ジョゼフは、震える手でもう一度、私のお腹にそっと触れた。
ポコッ。トンッ。
手のひらを通して伝わってくる、確かな「命」の躍動。
それは、宮殿の大人たちが言う「次期国王としてのプレッシャー」でもなく、ただの概念でもない。確かにそこにいて、温かい血を巡らせ、外の世界に出る日を待ち望んでいる懸命な鼓動だった。
「……生きてる。赤ちゃん、生きてるんだ……」
ジョゼフの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
それは、機関車を壊した時の、寂しさと自己嫌悪の涙ではない。純度100パーセントの、優しさと感動の涙だった。
「……赤ちゃん」
ジョゼフは、涙で顔を濡らしながら、私のお腹をギュッと両手で抱きしめるようにして、力強く宣言した。
「はじめまして。ぼくが、きみのお兄ちゃんだよ。……ぼくが、絶対にきみを守ってあげるからね。だれにもいじめさせない。こわいことがあったら、ぼくが全部やっつけてあげるから!」
その小さな、しかしこの上なく頼もしい「兄の誓い」を聞いて。
私は、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、ジョゼフの小さな背中を優しく抱きしめた。
「ええ……。ジョゼフなら、きっと世界で一番かっこいいお兄ちゃんになれるわ」
ドアの隙間から、ルイがハンカチで鼻をかみながら、目を真っ赤にして私たちを見守っているのが見えた。
愛に満ちた、静かで温かな夜。
孤独とプレッシャーに潰されそうだった小さな王太子は、オルゴールの音色と小さな胎動によって、真の意味で「兄になる覚悟」をその心に宿したのだ。
……しかし。
チュイルリー宮殿が幸福な眠りにつく中、パリの空の上では、不気味なほど鉛色に濁った雲が広がり、恐ろしいほどの冷気を孕んだ「嵐」が、静かに、しかし確実にその牙を研ぎ澄ませていた。
新たな命の誕生を祝福するかのように見えた世界は、出産という名の試練を前に、容赦のない「絶望」を私たちに叩きつけようとしていたのである。




