第195話 兄とは
ガシャン、と音を立てて砕け散った機関車。
床に散らばったその残骸を見つめながら、6歳の王太子ジョゼフは、しゃくり上げる声を押さえることができずにいた。
「ううっ……ひっ……ぐすっ……」
誰も自分のことを見てくれない。大好きなパパが作ってくれた宝物も、自分の手で壊してしまった。
小さな胸は、行き場のない怒りと、それ以上の「強烈な自己嫌悪」で張り裂けそうだった。
「……泣いている暇はありませんよ、王太子殿下」
ふいに、頭上から冷徹で、しかしどこか面白がるような大人の声が降ってきた。
「え……?」
ジョゼフが涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、そこにはナポレオンとアーサーが立っていた。
「ナポレオンにいちゃん……アーサーおじさん……。どうして、ここに……」
「お、お待ちくださいボナパルト閣下! 殿下は今、お一人で反省を……」
背後で教育係の女官が慌てて止めに入ろうとしたが、アーサーが音もなく彼女の背後に回り込み、その首筋のツボをトントン、と二本指で軽く叩いた。
「なっ……」
女官は白目を剥き、崩れ落ちるようにしてスゥッと深い眠りに落ちた。
「アーサー! ばあやを殺しちゃったの!?」
「ご安心を。極上の睡眠へ誘っただけです。彼女も『立派な教育』に疲れていたのでしょう。三時間は起きません」
アーサーは女官をソファに寝かせると、床に散らばった機関車のパーツを手際よく拾い集め、ジョゼフの小さなポケットにそっと押し込んだ。
「さあ、ジョゼフ殿下。涙を拭きなさい。メソメソしているのは、我がフランスの王太子には似合いません」
ナポレオンが、ジョゼフの目線を合わせるように片膝をついた。
「……でも、ぼく、悪い子だもん。おもちゃ壊しちゃったし……お兄ちゃんなんて、なりたくないって言っちゃった……」
「悪い子かどうかは、自分の目で世界を見てから決めればいい。……我々と一緒に来なさい。極秘の『特別軍事視察』へご案内しましょう」
ナポレオンは、ジョゼフの豪奢なシルクの上着を脱がせると、用意していた「平民の子供が着るような、少し大きめの粗末なウールのジャケット」と、目深に被れるハンチング帽を被せた。
「えっ……お外に行くの? ママンに怒られちゃうよ……」
「見つからなければ、軍法会議にはかけられません。それに、王妃様には『護衛のアーサーがついているから100%安全だ』という絶対の保証がありますからね」
ナポレオンがウインクをすると、アーサーがジョゼフをヒョイッと小脇に抱え上げた。
「……対象の確保完了。宮殿の警備網に30秒の偽装ルートを展開します。ボナパルト閣下、あちらへ」
「よし、行くぞ。作戦名『王太子の家出』、決行だ」
二人のプロフェッショナルによって、ジョゼフは、誰にも気づかれることなく、あっという間にチュイルリー宮殿の外へと連れ出されたのだった。
* * *
パリの街路。
「わぁ……っ!」
ジョゼフは、ハンチング帽を深く被りながらも、目をキラキラと輝かせて周囲を見渡した。
焼き栗の甘い匂い。遠くで響く鍛冶屋のハンマーの音。肉屋の店先で威勢よく響き渡る売り声。
宮殿の静かで冷たい空気とは全く違う、人間の熱気と生命力が、そこには溢れていた。
「……どうですか、殿下。これが、あなたのお母様が血の滲むような努力で守り抜いた、パリの『現実』です」
ナポレオンが、ジョゼフの手を引きながら歩き出した。
「ママンが、守った……」
「ええ。王妃様は、この街で生きるすべての人間を『自分の子供』のように愛し、守るために戦い続けてこられたのです。……さあ、あそこを見てごらんなさい」
ナポレオンが顎で示したのは、大通りから少し入った、庶民の市場の片隅だった。
そこで、同い年くらいの平民の男の子が、荷車に積まれた大量のリンゴを、一生懸命に木箱へ移し替える手伝いをしていた。男の子の服はつぎはぎだらけで、寒さで鼻の頭を真っ赤にしている。
そして、その男の子の足元には、よちよち歩きの1歳くらいの小さな女の子が、男の子のズボンの裾をギュッと握りしめてくっついていた。
「……あの子、ぼくとおなじくらいの歳だ」
ジョゼフがじっと見つめていると、小さな女の子が、バランスを崩して石畳の上にドテッと転んでしまった。
『びぇぇぇぇぇんっ!!』
膝をすりむき、女の子が火のついたように泣き出す。
(あ……怒られる)
ジョゼフは、思わずビクッと肩をすくめた。お手伝いの邪魔をしたのだ。きっと、宮殿の教育係のおばさんのように、「泣くんじゃありません!」と厳しく叱られるに違いない。
しかし。
『よしよし、痛かったな。ごめんな、兄ちゃんがちゃんと見ててやらなくて』
男の子は、リンゴの箱を放り出すと、すぐに妹を抱き上げ、自分の汚れた袖で妹の涙を優しく拭ってやったのだ。
『痛いの痛いの、飛んでけー! ほら、泣き止んだら、後で父ちゃんのパンを半分こしてやるからな』
男の子が笑いかけると、妹は涙を引っ込め、嬉しそうに『えへへ』と笑って、男の子の首にギュッと抱きついた。男の子は、重そうに妹を背負いながら、再びリンゴの箱を運び始めた。
「……怒らなかった」
ジョゼフは、ぽかんと口を開けてその光景を見つめていた。
「どうして怒らないの? あの子、お手伝いのじゃまをしたのに。……それに、お兄ちゃんなのに、自分のパンをあげちゃうの?」
「それが『兄』という生き物だからですよ」
ナポレオンが、腕を組みながら静かに言った。
「誰も彼に『立派な兄になれ』と命令したわけではありません。あの妹が泣けば、自分が辛くなる。妹が笑えば、自分が嬉しい。……彼はただ、自分の心に従って、自分より小さくて弱いものを『守ろう』としているだけなのです」
「自分より、小さくて、弱いもの……」
「ええ。軍隊においても同じです。将軍は兵士を守り、兵士は民を守る。……誰かを守るということは、誰かに強制される『義務』ではありません。己の強さを証明する、最も誇り高き『特権』なのです」
ナポレオンの言葉は、6歳のジョゼフには少し難しかったかもしれない。
だが、その『誇り高き特権』という響きは、ジョゼフの心に不思議な熱をもたらした。
「……でも、ぼく……」
ジョゼフは、自分の小さな両手を見つめた。
「ぼくは、あの子みたいに力持ちじゃないよ。おもちゃだって壊しちゃったし……ママンみたいに、強くないもん。……ぼくなんかがお兄ちゃんになっても、赤ちゃんは嬉しくないよ」
自己嫌悪の呪縛は、そう簡単には解けない。
再びうつむき、瞳に涙を溜め始めたジョゼフの前に。
スッ、と。
音もなく、アーサーが進み出た。
アーサーは、冷たい石畳の上に片膝をつき、ジョゼフの目の高さに合わせて、その暗い瞳でジョゼフを真っ直ぐに見つめた。
「……アーサー?」
「ジョゼフ殿下。私はかつて、名前も持たない路地裏の孤児でした」
アーサーの口から語られる、彼の壮絶な過去。ナポレオンすらも黙って耳を傾ける。
「私は、生きるために暗殺教団に拾われ、人の命を奪うための『道具』として育てられました。……当時の私には、守るべきものなど何一つなかった。誰からも必要とされず、透明な存在として暗闇に取り残される恐怖。……殿下、その凍えるような冷たさを、私は骨の髄まで知っています」
アーサーは、血塗られた過去を隠すように、黒い革手袋に包まれた自分の手をギュッと握りしめた。
「しかし。……王妃様に出会い、私は初めて『誰かを守る』という任務を与えられました」
「ママンを、守る……」
「はい。暴徒の石から。刺客の凶刃から。……その時、私は初めて気づいたのです。誰かを守るために力を振るう時……私のような冷たい道具の心にも、不思議な『熱』が灯るのだということに」
アーサーは、手袋を外し、傷だらけの無骨な手で、ジョゼフの小さな手をそっと包み込んだ。
「殿下。あなたは、ご自分が弱いと仰る。誰にも見てもらえなくなるのが怖いと仰る。……ですが、それは間違いです」
アーサーの声は、普段の無機質な響きとは違う、不器用だが、ひどく温かいものだった。
「これから生まれてくる新しい命は、あなたからご両親の愛を奪う『敵』ではありません。……あなたという存在を、世界で一番頼りにし、世界で一番あなたに憧れる、初めての『味方』なのです」
「ぼくの……味方……?」
「ええ。その子は、あなたが泣き止ませてあげれば笑います。あなたが手を引いてあげれば、どこまでもついてきます。守るべき存在がいることで、人は決して一人ではなくなる。……『お兄様になる』ということは、そういうことなのです。それは、決して孤独な呪いなどではありません」
アーサーの言葉が、冬の冷たい風に乗り、ジョゼフの胸の奥底へと染み渡っていく。
ジョゼフの脳裏に、かつて暴動の夜、ママンが自分の小さな体を抱きしめ、「絶対に私が守るわ」と言ってくれた時の、あの圧倒的な安心感と温もりが蘇った。
(ああ……そうか)
ジョゼフは、アーサーの大きな傷だらけの手を、自分の小さな両手でギュッと握り返した。
(ママンやパパがぼくにしてくれたことを、今度は、ぼくが赤ちゃんにしてあげるんだ。……ぼくが、あの妹を背負っていた男の子みたいに、泣いている赤ちゃんを笑わせてあげるんだ)
「……ナポレオン。アーサー」
ジョゼフは、ハンチング帽のつばをグイッと上げ、涙を腕で乱暴に拭き取った。
「赤ちゃんは……ぼくの、一番最初の『部下』になるの?」
少し軍事寄りの物騒な表現だったが、ナポレオンはニヤリと笑って大きく頷いた。
「ええ、その通りです! あなたが初めて指揮を執る、一生の戦友となるでしょう!」
「そっか。じゃあ、ぼくがしっかりしなきゃ、部下が泣いちゃうもんね!」
ジョゼフの瞳から、恐怖と自己嫌悪のモヤモヤは消え去っていた。
そこにあるのは、フランス王国の次期国王として、そして何より、一人の「兄」としての、純粋で力強い覚悟の光だった。
「……帰ろう! パパとママンのところに!」
ジョゼフは、自分のポケットに入っている「壊れた機関車のパーツ」をポンポンと叩いた。
「パパに謝って、一緒におもちゃを直すんだ! そして、赤ちゃんが生まれたら、今度はぼくが、そのおもちゃの遊び方を教えてあげるの!!」
「……了解いたしました、我が君。帰還しましょう」
アーサーが、深く、臣下としての最上級の礼をとる。ナポレオンもまた、小さな背中に対して、敬礼を送った。
過剰な期待というプレッシャーに押しつぶされそうになっていた小さな心は、不器用な大人たちによる「路地裏のリアルな授業」によって、真の強さの意味を知った。
ルイ・ジョゼフ、6歳。
彼の心の中で、「兄」という名の新しい誇りの芽が、冬の冷たい空を突き破り、確かな力強さを持って芽吹いたのである。




