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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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202/205

第194話 王太子のメランコリー

「号外だ、号外だァ!! アントワネット王妃様が、ご懐妊されたぞォォォッ!!」


 パリの街角で、新聞売りの少年が声を張り上げた瞬間。


 街中から「うおおおおおおっ!!」「王室万歳!!」という、地鳴りのような歓声が沸き起こった。


 フランスに絶対的な平和とインフラをもたらした、最強にして最愛の王妃、マリー・アントワネット。彼女の胎内に新しい命が宿ったというニュースは、またたく間に国中を駆け巡り、市民たちは連日連夜、お祭り騒ぎの祝賀ムードに酔いしれていた。


 しかし。

 国中が歓喜に沸くその裏側で、チュイルリー宮殿の奥深くでは、ひっそりと孤独に打ち震える「小さな影」があった。


「うぅ……っ。ごめんなさい、ルイ……。今日のランチは、お肉の匂いがちょっと……」


「無理しなくていいんだよ、アントワネット! サンソン先生も、つわりの時期は食べられるものを少しずつって言っていたし。特製の冷たいフルーツゼリーを持たせようか?」


 私の寝室。

 ひどいつわりに悩まされ、ベッドから起き上がれずにいる私の手を、オタク王・ルイがオロオロしながら握りしめていた。


 妊娠初期特有の、胃の底から込み上げてくる不快感と、全身の倦怠感。


 国家の危機には徹夜で立ち向かえた私でも、こればかりは「母体の神秘」というやつで、抗う術がなかった。


「ママン……?」


 ふと、寝室のドアの隙間から、金髪の小さな頭がひょっこりと覗いた。


 今年で6歳になる私の愛すべき長男、王太子ジョゼフである。


「ジョゼフ……。ごめんね、お母様、ちょっとだけお腹が痛くて……」


 私が弱々しく微笑むと、ジョゼフはパッと顔を輝かせて部屋に入ろうとした。


 だが。

「お待ちください、ジョゼフ殿下」


 背後から、教育係の女官が、彼をそっと、しかし力強く引き止めた。


「王妃様は今、お腹の赤ちゃんのために絶対安静が必要です。……殿下はもうすぐ『お兄様』になられるのですよ。わがままを言って、王妃様を困らせてはいけません。さあ、お勉強の続きを」


「でも、ぼく、ママンに……新しく描いた絵を見せたくて……」


 ジョゼフが、画用紙を握りしめながら訴えるが、女官は首を横に振った。


「立派なお兄様、そして未来の国王になられる方が、我慢をできなくてどうするのです。王妃様には、元気になられてから見ていただきましょう」


「…………うん」


 ジョゼフは、シュンと肩を落とし、画用紙を背中に隠して、ドアの向こうへと去っていった。


「……ちょっと、言いすぎじゃないかしら。少しお話しするくらい……」

 私がベッドから身を乗り出そうとすると、ルイが慌てて私を制止した。


「ダメだよ、アントワネット! サンソン先生の『絶対安静』の指示を破るわけにはいかない。ジョゼフなら大丈夫、僕たちの賢い息子だ。きっと、わかってくれるよ」


 ……大人たちは、誰もが悪気など微塵もなかった。お腹の赤ちゃんを気遣い、そしてジョゼフのことを「賢くて優しい子」だと信じているからこそ、つい「お兄ちゃんなんだから」という言葉を使ってしまっていたのだ。


 だが、彼らは忘れていた。

 ジョゼフは、次期国王という重い肩書きを背負っていても、中身はまだ、母親の温もりが恋しくてたまらない「たった6歳の男の子」であることを。


 * * *


 子供部屋に戻ったジョゼフは、一人きりだった。


 ふかふかの絨毯の上に座り込み、おもちゃ箱から一つのおもちゃを取り出す。


 それは、ルイが作ってくれた、精巧な『ベルサイユ・エクスプレスの模型』だった。ぜんまいを巻けば、小さな車輪がシャカシャカと音を立てて走る、彼の一番のお気に入り。


 いつもなら、これを走らせて「しゅっぱーつ!」と無邪気に遊んでいるはずだった。

 しかし、今のジョゼフの心の中には、黒くて重いモヤモヤが渦巻いていた。


(お兄様になられるのですね)


(立派な王太子にならなければ)


(お母様は、赤ちゃんのために安静に……)


 ここ数日、宮殿ですれ違う大人たちは、誰もが嬉しそうに「赤ちゃん」の話ばかりする。


 そしてジョゼフに向かっては、判で押したように「我慢しなさい」「立派なお兄様になりなさい」と繰り返すのだ。


 大好きなママンは、ずっとベッドで苦しそうにしている。大好きなパパも、ママンの看病につきっきりで、最近は全然一緒に遊んでくれない。


「……ぼくのことは、もう、どうでもいいのかな……」


 ジョゼフは、膝を抱え、小さな声で呟いた。


「赤ちゃんが生まれたら、ママンもパパも、みんな……赤ちゃんのほうがいっこになっちゃうんだ。ぼく、いらなくなっちゃうのかな……」


 6歳の子供にとって、「親の関心が他へ移る」という恐怖は、世界の終わりにも等しい絶望である。


 立派になんて、なりたくない。

 お兄ちゃんなんて、なりたくない。


 ただ、今までみたいに、ママンに抱きしめてもらって「いい子ね」って頭を撫でてほしいだけなのに。


「殿下。おやつのマカロンをお持ちしましたよ。……まあ、お勉強もせずに床に座り込んで。立派なお兄様になられる方が、そのようなだらしない態度では……」


 部屋に入ってきた女官が、ため息混じりに言った。


 ——その、「お兄様」という言葉が。

 限界まで張り詰めていた6歳の小さな心線を、プツンと無残に断ち切った。


「……うるさいっ」


「え?」


「うるさい、うるさい、うるさいっ!!!」


 ジョゼフは、顔を真っ赤にして立ち上がり、大声で叫んだ。


「お兄ちゃんなんて、なりたくないっ!! ぼく、お兄ちゃんなんて嫌だ!! ずっとママンのジョゼフだもん!! 赤ちゃんなんて、こなければよかったんだぁぁぁっ!!」


「で、殿下!? 何を仰いますか、滅多なことを……!」


「だれもぼくのこと見てくれないっ! 嫌だ、嫌だぁぁぁっ!!」


 パニックになったジョゼフは、手の中に握りしめていた一番の宝物——パパが作ってくれた、ベルサイユ・エクスプレスのミニチュアを、思い切り壁に向かって投げつけた。


 ガシャンッ!!!


 鈍い音とともに、精巧なミニチュアは壁に激突し、車輪や煙突のパーツがバラバラに弾け飛んで、絨毯の上に無残に散らばった。


「あっ……」


 壊れてしまったおもちゃを見て、ジョゼフはハッと我に返った。


 大好きなパパが、自分のために作ってくれた宝物。それを、自分の手で壊してしまった。


「あ、ああ……うわぁぁぁぁぁぁんっ!!!」


 ジョゼフは、バラバラになった機関車の残骸の前にへたり込み、大声で泣きじゃくった。


 自分のしでかしたことへの後悔。誰にもわかってもらえない寂しさ。そのすべてが涙となって溢れ出し、女官がどれほどなだめても、彼の泣き声が止むことはなかった。


 * * *


「……教育係の言う『立派なお兄様』とは、ずいぶんと残酷な呪いの言葉ですね」


 子供部屋から少し離れた廊下の暗がり。

 遠くから、泣き叫ぶジョゼフの姿を静かに見つめている二つの影があった。


 漆黒の軍服を着たナポレオンと、闇に溶け込むコートを着たアーサーである。


「国の防衛は盤石になったというのに、まさか我がフランスの王太子殿下の心が、たった一つの『プレッシャー』で陥落しかけているとは」


 ナポレオンが、忌々しげに舌打ちをした。


「……彼はまだ6歳です。『感情を捨てて強くなれ』という大人の身勝手な言葉は、いとも容易く子供の心を壊す。……私は、その事実を誰よりも知っている」


 アーサーが、かつて暗殺教団で心を殺されかけた己の過去を重ねるように、微かな痛みを帯びた声で答える。


「ええ。理屈で押さえつければ、あの小さな心はいずれ壊れてしまう。……マリー王妃様には絶対安静が必要ですし、国王陛下では、あの繊細な感情のケアは少し荷が重いでしょうね」


 ナポレオンは、軍帽を目深に被り直し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「アーサー。少し、彼を『外の世界』へ連れ出しましょうか」


「……外、ですか?」


「ええ。温室で甘やかされたり、言葉で縛られたりするだけでは、真の『強さ』は学べません。……男が『守るべき存在』の重さを知るには、現場のリアルを見るのが一番手っ取り早い」


 最強の軍神と、最強の暗殺者。

 彼ら二人は、静かに扉へと歩みを進めた。


 幼き王太子ジョゼフの、初めての挫折とメランコリー。


 それを打ち破るため、血と硝煙を知り尽くした不器用な男たちによる、極秘の「スパルタ兄貴講座」が幕を開けようとしていたのである。

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