第194話 王太子のメランコリー
「号外だ、号外だァ!! アントワネット王妃様が、ご懐妊されたぞォォォッ!!」
パリの街角で、新聞売りの少年が声を張り上げた瞬間。
街中から「うおおおおおおっ!!」「王室万歳!!」という、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
フランスに絶対的な平和とインフラをもたらした、最強にして最愛の王妃、マリー・アントワネット。彼女の胎内に新しい命が宿ったというニュースは、またたく間に国中を駆け巡り、市民たちは連日連夜、お祭り騒ぎの祝賀ムードに酔いしれていた。
しかし。
国中が歓喜に沸くその裏側で、チュイルリー宮殿の奥深くでは、ひっそりと孤独に打ち震える「小さな影」があった。
「うぅ……っ。ごめんなさい、ルイ……。今日のランチは、お肉の匂いがちょっと……」
「無理しなくていいんだよ、アントワネット! サンソン先生も、つわりの時期は食べられるものを少しずつって言っていたし。特製の冷たいフルーツゼリーを持たせようか?」
私の寝室。
ひどいつわりに悩まされ、ベッドから起き上がれずにいる私の手を、オタク王・ルイがオロオロしながら握りしめていた。
妊娠初期特有の、胃の底から込み上げてくる不快感と、全身の倦怠感。
国家の危機には徹夜で立ち向かえた私でも、こればかりは「母体の神秘」というやつで、抗う術がなかった。
「ママン……?」
ふと、寝室のドアの隙間から、金髪の小さな頭がひょっこりと覗いた。
今年で6歳になる私の愛すべき長男、王太子ジョゼフである。
「ジョゼフ……。ごめんね、お母様、ちょっとだけお腹が痛くて……」
私が弱々しく微笑むと、ジョゼフはパッと顔を輝かせて部屋に入ろうとした。
だが。
「お待ちください、ジョゼフ殿下」
背後から、教育係の女官が、彼をそっと、しかし力強く引き止めた。
「王妃様は今、お腹の赤ちゃんのために絶対安静が必要です。……殿下はもうすぐ『お兄様』になられるのですよ。わがままを言って、王妃様を困らせてはいけません。さあ、お勉強の続きを」
「でも、ぼく、ママンに……新しく描いた絵を見せたくて……」
ジョゼフが、画用紙を握りしめながら訴えるが、女官は首を横に振った。
「立派なお兄様、そして未来の国王になられる方が、我慢をできなくてどうするのです。王妃様には、元気になられてから見ていただきましょう」
「…………うん」
ジョゼフは、シュンと肩を落とし、画用紙を背中に隠して、ドアの向こうへと去っていった。
「……ちょっと、言いすぎじゃないかしら。少しお話しするくらい……」
私がベッドから身を乗り出そうとすると、ルイが慌てて私を制止した。
「ダメだよ、アントワネット! サンソン先生の『絶対安静』の指示を破るわけにはいかない。ジョゼフなら大丈夫、僕たちの賢い息子だ。きっと、わかってくれるよ」
……大人たちは、誰もが悪気など微塵もなかった。お腹の赤ちゃんを気遣い、そしてジョゼフのことを「賢くて優しい子」だと信じているからこそ、つい「お兄ちゃんなんだから」という言葉を使ってしまっていたのだ。
だが、彼らは忘れていた。
ジョゼフは、次期国王という重い肩書きを背負っていても、中身はまだ、母親の温もりが恋しくてたまらない「たった6歳の男の子」であることを。
* * *
子供部屋に戻ったジョゼフは、一人きりだった。
ふかふかの絨毯の上に座り込み、おもちゃ箱から一つのおもちゃを取り出す。
それは、ルイが作ってくれた、精巧な『ベルサイユ・エクスプレスの模型』だった。ぜんまいを巻けば、小さな車輪がシャカシャカと音を立てて走る、彼の一番のお気に入り。
いつもなら、これを走らせて「しゅっぱーつ!」と無邪気に遊んでいるはずだった。
しかし、今のジョゼフの心の中には、黒くて重いモヤモヤが渦巻いていた。
(お兄様になられるのですね)
(立派な王太子にならなければ)
(お母様は、赤ちゃんのために安静に……)
ここ数日、宮殿ですれ違う大人たちは、誰もが嬉しそうに「赤ちゃん」の話ばかりする。
そしてジョゼフに向かっては、判で押したように「我慢しなさい」「立派なお兄様になりなさい」と繰り返すのだ。
大好きなママンは、ずっとベッドで苦しそうにしている。大好きなパパも、ママンの看病につきっきりで、最近は全然一緒に遊んでくれない。
「……ぼくのことは、もう、どうでもいいのかな……」
ジョゼフは、膝を抱え、小さな声で呟いた。
「赤ちゃんが生まれたら、ママンもパパも、みんな……赤ちゃんのほうがいっこになっちゃうんだ。ぼく、いらなくなっちゃうのかな……」
6歳の子供にとって、「親の関心が他へ移る」という恐怖は、世界の終わりにも等しい絶望である。
立派になんて、なりたくない。
お兄ちゃんなんて、なりたくない。
ただ、今までみたいに、ママンに抱きしめてもらって「いい子ね」って頭を撫でてほしいだけなのに。
「殿下。おやつのマカロンをお持ちしましたよ。……まあ、お勉強もせずに床に座り込んで。立派なお兄様になられる方が、そのようなだらしない態度では……」
部屋に入ってきた女官が、ため息混じりに言った。
——その、「お兄様」という言葉が。
限界まで張り詰めていた6歳の小さな心線を、プツンと無残に断ち切った。
「……うるさいっ」
「え?」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!!!」
ジョゼフは、顔を真っ赤にして立ち上がり、大声で叫んだ。
「お兄ちゃんなんて、なりたくないっ!! ぼく、お兄ちゃんなんて嫌だ!! ずっとママンのジョゼフだもん!! 赤ちゃんなんて、こなければよかったんだぁぁぁっ!!」
「で、殿下!? 何を仰いますか、滅多なことを……!」
「だれもぼくのこと見てくれないっ! 嫌だ、嫌だぁぁぁっ!!」
パニックになったジョゼフは、手の中に握りしめていた一番の宝物——パパが作ってくれた、ベルサイユ・エクスプレスのミニチュアを、思い切り壁に向かって投げつけた。
ガシャンッ!!!
鈍い音とともに、精巧なミニチュアは壁に激突し、車輪や煙突のパーツがバラバラに弾け飛んで、絨毯の上に無残に散らばった。
「あっ……」
壊れてしまったおもちゃを見て、ジョゼフはハッと我に返った。
大好きなパパが、自分のために作ってくれた宝物。それを、自分の手で壊してしまった。
「あ、ああ……うわぁぁぁぁぁぁんっ!!!」
ジョゼフは、バラバラになった機関車の残骸の前にへたり込み、大声で泣きじゃくった。
自分のしでかしたことへの後悔。誰にもわかってもらえない寂しさ。そのすべてが涙となって溢れ出し、女官がどれほどなだめても、彼の泣き声が止むことはなかった。
* * *
「……教育係の言う『立派なお兄様』とは、ずいぶんと残酷な呪いの言葉ですね」
子供部屋から少し離れた廊下の暗がり。
遠くから、泣き叫ぶジョゼフの姿を静かに見つめている二つの影があった。
漆黒の軍服を着たナポレオンと、闇に溶け込むコートを着たアーサーである。
「国の防衛は盤石になったというのに、まさか我がフランスの王太子殿下の心が、たった一つの『プレッシャー』で陥落しかけているとは」
ナポレオンが、忌々しげに舌打ちをした。
「……彼はまだ6歳です。『感情を捨てて強くなれ』という大人の身勝手な言葉は、いとも容易く子供の心を壊す。……私は、その事実を誰よりも知っている」
アーサーが、かつて暗殺教団で心を殺されかけた己の過去を重ねるように、微かな痛みを帯びた声で答える。
「ええ。理屈で押さえつければ、あの小さな心はいずれ壊れてしまう。……マリー王妃様には絶対安静が必要ですし、国王陛下では、あの繊細な感情のケアは少し荷が重いでしょうね」
ナポレオンは、軍帽を目深に被り直し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「アーサー。少し、彼を『外の世界』へ連れ出しましょうか」
「……外、ですか?」
「ええ。温室で甘やかされたり、言葉で縛られたりするだけでは、真の『強さ』は学べません。……男が『守るべき存在』の重さを知るには、現場のリアルを見るのが一番手っ取り早い」
最強の軍神と、最強の暗殺者。
彼ら二人は、静かに扉へと歩みを進めた。
幼き王太子ジョゼフの、初めての挫折とメランコリー。
それを打ち破るため、血と硝煙を知り尽くした不器用な男たちによる、極秘の「スパルタ兄貴講座」が幕を開けようとしていたのである。




