第193話 鼓動
……重く沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上していく。
ふわりとした極上の羽毛布団の感触。そして、微かに漂う清潔なリネンと、消毒用のアルコールの匂い。
(私……倒れたのよね、確か)
重い瞼を押し上げると、ぼやけていた視界が次第にクリアになり、見慣れたチュイルリー宮殿の医務室の天井が映った。
「……ア、アントワネット……!!」
私が微かに身動きをした瞬間、ベッドのすぐ横から、すがりつくような、掠れた声が響いた。
視線を向けると、そこには信じられないほどボロボロの姿をした国王ルイ16世がいた。
髪はボサボサ、目の下には真っ黒なクマを作り、いつからそこに座っていたのか、作業着のまま私の手を両手でギュッと握りしめている。
「ルイ……?」
「ああ、よかった……! 目を覚ましてくれたんだね!!」
ルイの目から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
彼は、私の手を自分の額に押し当てて、子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。
「ルイ、泣かないで……。私、どれくらい眠っていたの?」
「丸一日です、王妃様。……まったく、国王陛下は一睡もせず、食事もとらずにずっとあなたの傍を離れようとしませんでしたよ」
部屋の奥から、静かな声がした。
見れば、医務室の壁際には、ナポレオン、ジャンヌ、アーサー、ラプラス、タレーラン……我が国が誇る『アベンジャーズ』の面々が、全員揃ってズラリと並んでいた。
だが、その全員の顔色が、ありえないほどに青ざめ、異常なまでの緊張感に包まれている。
「……王妃様。申し訳ありません」
ナポレオンが、軍帽を胸に当て、深く頭を下げた。
「我々が、国防という巨大なプレッシャーのすべてを、あなた一人に背負わせすぎたのです。……あなたのその小さな体が、すでに過労の限界を超えていたことに気づけなかった。軍事司令官として、万死に値する失態です」
「ナポレオンの言う通りですわ……っ」
ジャンヌが、ハンカチで目元を強く押さえながら、震える声で言った。
「王室の金庫がどれほど潤おうと、あなたが倒れてしまっては、何の意味もないのに……! 私は、自分の無能さを呪いますわ!!」
アーサーに至っては、無言のまま、己の不甲斐なさを罰するように、強く握りしめた拳からタラタラと血を流している。
「ちょっと、みんな、大袈裟よ……。ただの寝不足か、疲れが出ただけじゃないの」
私が苦笑しながら身を起こそうとした、その時。
「——ええ、その通りです。ただの『疲れ』ですよ。……お二人の命を同時に守るための、極めて健康的な疲労です」
医務室の扉が開き、カルテを手にした主治医のサンソン先生が、穏やかな足取りで入ってきた。
かつて死刑執行人であった彼は、今や王室最高の神の手を持つ名医として、この国で最も命を救っている男だ。
「サンソン先生……! アントワネットの体は、本当に大丈夫なんですか!? どこか悪い病気なんじゃ……!」
ルイが血相を変えて詰め寄るが、サンソン先生はフッと優しく、そしてこの上なく温かな笑みをこぼした。
「ご安心ください、陛下。王妃様のお体には、いかなる病魔も存在いたしません」
サンソン先生は、ベッドの傍らに立ち、私に向かって深く、恭しく一礼をした。
「おめでとうございます、王妃様。そして、国王陛下。……王妃様のお腹には今、新しい『命』が宿っておられます。ご懐妊です」
————。
医務室の空気が、ピタリと止まった。
「……え?」
私が、間の抜けた声を漏らす。
「こ、子供……? 僕と、アントワネットの……新しい、赤ちゃん……?」
ルイが、目を見開いたまま、パクパクと金魚のように口を動かしている。
「はい。まだ初期も初期ですが、間違いありません。王妃様の眩暈も倒れたことも、すべては新しい命を育むための、母体としての自然な変化の始まりです。……ですから、どうかご安心を」
サンソン先生の確固たる診断結果が、部屋の中に響き渡る。
一秒。二秒。三秒。
「うおおおおおおおおおおっ!!!!」
静寂を破り、ルイが鼓膜が破れそうなほどの凄まじい絶叫を上げた。
「やった……! やったぁぁぁぁっ!! アントワネット!! 新しい家族だ! ジョゼフに、弟か妹ができるんだ!!」
ルイは、壊れ物を扱うようにそっと、しかし震えるほどの力強さで、私をきつく、きつく抱きしめた。
「……ご懐妊……! ああ、なんという……なんという素晴らしい奇跡……!!」
ナポレオンが、顔を覆って天を仰いだ。冷徹な軍神の目から、初めて感情の昂りによる涙がこぼれ落ちている。
「やりましたわ! やりましたわ王室!! すぐに……すぐに『次期王族特別育成予算』を編成しますわ! ゆりかごはロレーヌの最高級鋼鉄で!? いえ、いっそスミートン先生のコンクリートで絶対に物理攻撃を通さない防空壕ベッドを作らせて……あああっ、計算が追いつきませんわ!!」
ジャンヌが、嬉し泣きしながら帳簿を放り投げ、狂喜のステップを踏み始めた。
「……新しいVIPの誕生。王妃様とお腹の子の安全は、私が絶対のプロトコルで死守します。……たとえ隕石が降ろうとも」
アーサーが、血の滲んだ拳を胸に当て、狂気じみた忠誠の誓いを立てている。
アベンジャーズたちの、爆発するような歓喜の声。
その温かく、騒がしい祝福の中心で。
「……私のお腹に、赤ちゃんが」
私は、ルイの胸の中で、そっと自分のお腹に両手を当てた。
前世の記憶が、鮮明に蘇る。
次男、ルイ・シャルル。
史実において、フランス革命の暴波に飲み込まれ、タンプル塔の冷たい牢獄の中で、両親の死も知らされぬまま、病と虐待によってわずか十歳でその短い生涯を閉じた、悲劇の王子。
(……でも、今回は違う)
私は、お腹の小さな、まだ形もない鼓動に向かって、心の中で語りかけた。
(ようこそ、私の愛する子。……安心して生まれてきなさい。この国にはもう、あなたを理不尽に幽閉する暴徒はいない。あなたを脅かす外国の軍隊も、飢えも、貧困も、ギロチンも存在しないのよ)
この瞬間のために、私は戦ってきたのだ。
悪臭のするパリを浄化し、インフラで民衆の心を救い。天才たちを束ね、鉄道と蒸気船で、世界で最も強固な『絶対防衛線』を築き上げた。
(私たちが創り上げた狂気の装甲列車も、無敵の蒸気船も。すべては、あなたを安らかに眠らせるための『世界一安全なゆりかご』だったのね)
すべては、この国に生きる人々と、そして、これから生まれてくる大切な子供たちが、何の恐怖も抱かずに、太陽の下で笑って生きられるようにするため。
「……ありがとう、ルイ」
私は、涙で顔をくしゃくしゃにしている夫の頬を、両手で優しく包み込んだ。
「あなたと、みんなが一緒に作ってくれたこの平和な世界で……私、この子を絶対に、世界一幸せな子に育ててみせるわ」
「うん……! うん……ッ!! 僕も、絶対に君たちを守る! 王として、父親として!!」
私たちは、アベンジャーズたちの祝福の拍手の中で、何度もお互いの温もりを確かめ合うように抱き合った。
* * *
数日後。
つわりの落ち着いた私は、チュイルリー宮殿のバルコニーに立ち、朝日が昇るパリの街並みを見下ろしていた。
遠くからは、ベルサイユエクスプレスの元気な汽笛が聞こえてくる。
煙突から立ち上る真っ白な水蒸気。綺麗に整備された石畳を歩く、活気に満ちた市民たちの笑い声。
世界で最も美しく、そして世界で最も強固な盾を持つ、私と仲間たちの誇り高き「フランス」。
「……さあ、まだまだ休んでいられないわね」
私は、まだ膨らみのないお腹を優しく撫でながら、扇子をパチンと開いた。
国防の憂いは消え去り、新しい命の鼓動が始まった。
だが、国づくりに終わりはない。この子たちが大人になった時、さらに豊かで、さらに自由な世界を手渡せるように。私はこれからも、この最強の仲間たちと共に、最高の未来を設計し続けなければならない。
マリー・アントワネット、28歳。
絶望のギロチンから逃れるために始まった彼女のサバイバルは、今や一つの強大な国家を救済し、次なる世代へと希望のバトンを繋ぐ、輝かしき『未来への序曲』へと、その高らかなタクトを振り下ろしたのである。




