第192話 王冠の在り処
大西洋の荒波を望む、フランス北西部の港町ル・アーヴル。
海風が吹き抜ける桟橋に、アメリカへ帰国するための大型帆船が停泊していた。
「……王妃殿下。そして国王陛下」
タラップを登る前、ジョージ・ワシントンは足を止め、私たちに向かって深く、そしてこの上なく敬意に満ちた一礼をした。
「私はフランスという国で、人類の未来そのものを目撃しました。……あなた方が創り上げたこの強大で美しい国は、もはや古い時代の常識では測り知れない、絶対的な『新世界』です」
彼の背後、港の沖合には、漆黒の蒸気装甲艦『レヴィアタン号』が、煙突から黒煙を上げながら悠然とパトロールを行っている。
その威容を見つめるワシントンの目には、もはや同盟国への甘えも、新興国としての驕りも一切なかった。そこにあるのは、触れてはならない神域に対する「畏怖」である。
「我々アメリカ合衆国は、大西洋という自然の防壁の向こう側で、自分たちの国造りに専念いたします。……決して、海を越えてこの『眠れる獅子』の尾を踏むような愚行は犯しません。星条旗に懸けて、永遠の友好と不可侵をお誓いします」
「ええ。気をつけてお帰りなさい、ワシントン将軍」
私は、優雅に微笑み、扇子を振って彼の決意に応えた。
「アメリカの自由と繁栄を、海を隔てたこの地から心より祈っておりますわ。……美味しいフランスのワインが必要になったら、いつでも連絡してちょうだいね。ジャンヌが最高の値段で輸出してあげるから」
「ふふっ……ありがたく存じます」
ワシントンは、最後にナポレオンと固い握手を交わし、船へと乗り込んでいった。
やがて、帆に風を受けた船がゆっくりと岸を離れ、水平線の彼方へと小さくなっていく。
「……行きましたね。これで、西の憂いは絶たれました」
ナポレオンが、遠ざかる船影を見つめながら静かに呟いた。
「ええ。イギリスもプロイセンも、そしてアメリカも。……これで当分、誰もフランスに手を出そうなんて思わないわ」
私は、大きく、本当に心の底からの深い深呼吸をした。海風が、肺の奥まで澄み渡るように心地よかった。
——ギロチンを回避する。
前世の記憶に目覚めてから今日この日まで、私の人生はその一点のみを目標に、全速力で駆け抜けてきた。
国内の経済を回し、民衆の不満をインフラで解決し、そして最後に、外からの侵略を『圧倒的な抑止力』でシャットアウトした。
内憂外患。そのすべてを、私は最高の仲間たちと共に、物理と経済と情報の力で粉砕してみせたのだ。
「終わったのね……。私の、長かったサバイバルが」
ポツリと漏らした私の言葉は、波の音に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
* * *
その日の夜。
チュイルリー宮殿の最も奥深くにある、王族と最高幹部だけが立ち入ることを許されたプライベート・サロン。
そこでは、諸外国の脅威を完全に退けた「絶対防衛戦線」の完成を祝して、アベンジャーズたちによる盛大な身内の祝賀会が開かれていた。
「さあさあ皆様! 今夜は王室の金庫から、最高級のヴィンテージ・シャンパンを大盤振る舞いですわよ! もちろん、経費で落ちますから安心してガブ飲みしてくださいな!!」
普段は一フランの無駄遣いも許さない悪魔の金庫番・ジャンヌが、今夜ばかりは満面の笑みでグラスを配り歩いている。彼女の背後では、アーサーが無表情のまま、次々と空いたボトルのコルクを抜いていた。
「いやあ、最高の気分だね! イギリスの海軍情報部が、僕たちが仕掛けた『爆発する偽の設計図』をロンドンで必死に解読していると思うと、笑いが止まらないよ!」
オタク王・ルイが、顔を真っ赤にしてシャンパングラスを掲げる。
「ええ。彼らがポンコツの蒸気船を量産して海で自爆している間に、私たちはさらに次の技術革新へ進むことができます」
タレーランが、杖を傍らに置きながら、悪魔のように優雅な笑みを浮かべた。
「次は空だ! 飛行船を量産して、空から敵を偵察する『航空部隊』の創設を……」
「お言葉ですが国王陛下、まずは現在の装甲列車の量産ラインの安定化が先決です。兵站のロジスティクスを無視した拡張は破綻を招きますぞ」
ルイとナポレオンが、すでに次なる国家戦略について熱い議論を交わし始めている。
部屋の隅では、モーツァルトがグランドピアノに向かい、勝利と平和を祝う最高にハッピーで軽快なメロディを奏で、ジョゼフたち子供たちがその周りでキャッキャと踊っていた。
「……ふふっ」
私は、部屋の少し離れたソファに深く腰掛け、その光景をただ静かに見つめていた。
天才たちが集い、笑い合い、国の未来を語り合う。
誰も処刑されない。誰も飢えない。誰も理不尽な戦争に巻き込まれない。
私が夢見た「誰もが笑って暮らせるフランス」が、今、確かにここにある。
(私……頑張ったわよね。本当に、よくやったわ)
前世では、孤独の中で処刑台の階段を登った。
けれど今生では、こんなにも頼もしく、愛すべき仲間たちに囲まれている。そして、隣には、オタクだけれど誰よりも優しく、私を愛してくれる夫がいる。
肩の奥底にずっと張り付いていた、氷のように冷たく重い「死への恐怖」が、春の雪解けのようにスゥッと溶けて消えていくのを感じた。
「……アントワネット。どうしたの、一人でそんなところで」
議論を一段落させたルイが、二つのグラスを持って私の方へ歩いてきた。彼は隣に腰を下ろし、優しく微笑みかけてくる。
「みんな、君に感謝しているんだよ。君が立ち上がり、僕たちを導いてくれなければ、この平和は絶対に手に入らなかった。……君は、フランス史上最高の王妃だ」
「もう、大袈裟ね。私はただ、自分がギロチンで首を刎ねられるのが嫌で、必死に足掻いていただけよ」
私は照れ隠しに笑い、彼からグラスを受け取った。
「でも……そうね。今日は少しだけ、自分を褒めてあげてもいいかもしれないわ」
私は立ち上がり、サロンの中心へ向かってグラスを掲げた。
「みんな! 聞いてちょうだい!」
私の声に、ピアノの音が止み、アベンジャーズたちの視線が一斉に私に集まる。
「私たちは、最強の盾を手に入れたわ! これでフランスは、誰にも脅かされない永遠の平和を……」
——その時だった。
ドクン、と。
心臓が、ひどく重い音を立てたような気がした。
「え……?」
突然、視界がぐにゃりと歪んだ。
手元のシャンパングラスが、まるで鉛のように重く感じる。
耳鳴りがキィィィンと響き、ジャンヌやナポレオンたちが何かを叫んでいる声が、分厚い水の中にいるように遠く、くぐもって聞こえた。
(……おかしいわ。私、まだ一口も飲んでいないのに……どうして、こんなに世界が揺れて……)
強烈な眩暈。
そして、胃の奥から込み上げてくる、説明のつかない不快感と熱っぽさ。
「アントワネット!?」
隣にいたルイが、血相を変えて立ち上がるのが見えた。
私は、何とか立っていようと足に力を入れたが、膝からカクンと力が抜け、体がフワリと宙に浮くような感覚に襲われた。
パリンッ!!!
手から滑り落ちたクリスタルのグラスが、大理石の床に激突して粉々に砕け散る。
「王妃様!!」
「マリー!!」
アーサーが風のように飛び出してくるよりも早く。私の体は、すぐ隣にいたルイの太く力強い腕の中に、すっぽりと抱き止められていた。
「アントワネット!! しっかりして、アントワネット!!」
「おい、誰か早くサンソン先生を呼べ!! 急げ!!」
ナポレオンの鋭い怒号が響き渡る。
ジャンヌが悲鳴を上げ、サロンの中は一瞬にしてパニックに包まれた。
(ああ……ダメ。意識が、遠のく……)
これまで、どれほど過酷な徹夜仕事でも、どれほど恐ろしい暴動の最中でも、決して倒れることのなかった私の体が、まるで糸が切れた操り人形のように、機能を停止しようとしていた。
「……る、い……」
「ここにいる! 大丈夫だ、僕がついているから!!」
ルイの必死な顔が、私の顔を覗き込んでいる。その目には、大粒の涙が浮かんでいた。
(泣かないで、ルイ。……痛くはないの。ただ、すごく……眠いだけ……)
国家の生存戦略を駆け抜け、絶対防衛という王冠をフランスに戴冠させた、最強の王妃マリー・アントワネット。
彼女の意識は、愛する夫の温かい腕の中で、深い、深い暗闇の中へと静かに沈んでいったのである。




