第191話 パクス・フランカーナ
ドーバー海峡を見下ろす、フランス北部の港町・カレー。
イギリスを海の向こうに望み、東へ向かえばすぐに神聖ローマ帝国の国境へと繋がるこの地政学的な要衝に、その日、世界中の権力者たちが一堂に会していた。
崖の上に特設された観覧席。
そこに招かれていたのは、大英帝国の駐仏大使、プロイセン王国と帰国を目前に控えたアメリカのジョージ・ワシントン将軍ら、当時の世界を動かす列強諸国のトップ外交官たちであった。
「……王妃殿下。本日は『フランスの新しい平和の形』をお披露目いただけるということで、わざわざ足を運んだのですが」
イギリス大使が、片眼鏡を弄りながら、これ見よがしに鼻で笑った。
「軍事パレードならば、我が国のロンドンでも毎月のように華やかに開催されております。おたくの近衛兵の行進がどれほど見事かは存じませんが、わざわざこのような辺境の崖の上まで私たちを呼び出すとは、少々悪趣味ではありませんかな?」
「同感ですな」
プロイセンの特使も、ふんぞり返って同調する。
「我々のような大国の使者を待たせるとは。いったい、何を見せようというのか」
彼らは皆、表向きは優雅にシャンパンを傾けながらも、内心ではフランスを値踏みし、あわよくば付け入る隙を探そうとする貪欲なハイエナたちだった。
だが、ただ一人。
ワシントンだけは、一切の油断なく、広がる荒涼とした平野と海を、冷汗を流しながら見つめていた。彼はすでに「ベルサイユ・エクスプレス」と「工場」のプレゼンで、この国が隠し持つ技術の底知れなさを骨の髄まで理解していたからだ。
「……お待たせいたしましたわ、皆様」
私は、ナポレオンとタレーランを従えてゆっくりと歩みを進めた。
「本日は、遠路はるばるカレーまでお越しいただき、感謝いたしますわ。……イギリス大使殿、ご安心なさい。退屈な兵隊の行進など、お見せするつもりはありません」
私は、扇子をパチンと開き、東の方角を指し示した。
「あなた方にお見せするのは、我がフランスが国家の総力を挙げて構築した……『絶対に触れてはならない神の盾』よ」
私が指を鳴らした、その瞬間。
——バサッ! バサッ!!
観覧席のすぐ脇に建てられた通信塔の「腕木通信」が、猛烈なスピードで動き始めた。
天才ラプラスの数式で最適化された暗号指令が、光の速さで国境線のネットワークへと伝達されていく。
「な、なんだあの奇妙な木の腕は……?」
他国の特使たちが怪訝な顔をした、十秒後。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!!!
突如として、崖の下の平野部から、大地をへし折るような凄まじい地鳴りが響き渡った。
シャンパングラスの水面が激しく波打ち、貴族たちが悲鳴を上げて窓際にしがみつく。
「な、地震か!?」
「あ、あれを見ろ!! 森の中から……黒い鉄のバケモノが!!」
特使の一人が絶叫した。
時速五十キロ。馬の全力疾走すら遥かに凌駕する猛スピードで、漆黒の重装甲列車『ランド・バトラー』が、黒煙を吹き上げながら平野を駆け抜けてきたのだ。
「あれが……列車だと!? しかも、あんな厚い鉄の装甲を纏って……!」
「あの上に乗っているのは……大砲!? 戦列艦の主砲クラスではないか!!」
特使たちがパニックに陥る中、猛スピードで走っていた装甲列車が、突如として車輪から激しい火花を散らし、ブレーキをかけた。
「距離二千! 照準よし! 撃てェッ!!」
車内のルイの号令。
列車が完全に停止した、まさにそのコンマ一秒後。
ズドォォォォォォォォンッ!!!!!
空気を引き裂くような凄まじい轟音。
すでに通信塔からの座標データで砲身の旋回を終えていた徹甲弾が、寸分の狂いもなく、平野の奥に設置された「仮想敵の要塞」のど真ん中に直撃した。
大爆発が起こり、数百人の兵士が三ヶ月かけて築き上げるレベルの強固な石の要塞が、たった一発の砲弾で跡形もなく粉砕され、塵となって空高く舞い上がった。
(……なんて練度だ)
プロイセンの特使が、あまりの恐怖に腰を抜かし、床にへたり込んだ。
機械が凄いのではない。走りながら座標を計算し、停止した瞬間に砲弾を叩き込む。その神業のような計算力と乗員の練度こそが、真の悪夢だった。
数十万の歩兵が国境を越えようとした瞬間、あのような化け物が高速で接近し、一方的に精密な砲弾の雨を降らせてくるのだ。戦術もクソもない、ただの物理的蹂躙である。
「す、素晴らしい大砲だ……。だが、我がイギリスは海に守られた島国! 陸でどれほど強力な大砲を走らせようと、我が国を脅かすことはできん!!」
イギリス大使が、青ざめた顔で必死に虚勢を張った。
「ええ、その通りですわ、大使殿」
私は、ニコリと微笑んで、今度は視線を「海」へと向けた。
「では、海を支配するあなた方には……こちらの『ご挨拶』をご覧いただきましょうか」
——ブォォォォォォォォォッ!!!!
ドーバー海峡の荒波の中から、まるで地獄の底から這い上がってきた巨大な海獣のように、漆黒の蒸気船『レヴィアタン号』が姿を現した。
「マ、マストがない!? 帆もないのに、なぜ強風と逆潮に逆らってあのようなスピードで海を進んでいるのだ!!」
イギリス大使の片眼鏡が、カチンと音を立てて床に落ちた。
レヴィアタン号は、巨大な外輪で波を蹴散らしながら、沖合に浮かべられた標的用の「古い帆船群」に向かって、風を完全に無視した変態的な機動で接近していく。
そして、標的船の真後ろにピタリと回り込むと。
ドガァァァァァァンッ!!!
無慈悲な縦射が放たれ、標的の帆船は反撃の機会すら一切与えられないまま、一瞬にして木っ端微塵に吹き飛び、海の藻屑と消えた。
「風を……風を無視して死角を取る船……! あんなものが実在したのか……!!」
イギリス大使は、ガタガタと震えながらすがりついた。
彼は知らない。自国の海軍情報部が、数日前にフランスの金庫から命懸けで盗み出した「蒸気船の設計図」が、タレーランとラプラスの仕掛けた『自爆用トラップ』であることを。イギリスがこの圧倒的なデモンストレーションに焦り、あの偽の設計図通りに急いで船を量産すればするほど、彼らの海軍力は海の上で勝手に自爆して消滅していくのだ。
「……これが、我がフランスの『絶対防衛線』です」
私は、沈黙し、恐怖に顔を引きつらせる各国の特使たちに向かって、静かに、しかし絶対的な威厳を持って宣言した。
「陸には、時速五十キロで死を振り撒く装甲列車。海には、風の概念を破壊する鉄の蒸気船。……あなた方が、もしフランスの国境を1ミリでも越えようとすれば、あるいは港を封鎖しようとすれば。私たちは、あなた方の軍隊を『人間の数』ではなく、『圧倒的な科学の暴力』で消し飛ばします」
冷徹な私の言葉に、特使たちは喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「王妃殿下……! あなたは、この狂気の兵器で、ヨーロッパ全土を火の海にするおつもりか!!」
プロイセンの特使が、震える声で叫ぶ。
「逆よ」
私は扇子を閉じ、彼らを真っ直ぐに見据えた。
「私たちは、ただの一度も、他国を侵略するためにこの兵器を使わないわ」
「な……使わない?」
「ええ。フランスは、他国の領土も、資源もいらない。私たちはただ、この国で暮らす国民が、明日も平和に温かいパンを食べられる日常を『誰にも邪魔されたくない』だけなの」
私は、グラスに注がれたシャンパンを高く掲げた。
「戦争なんて、金と血の無駄遣いよ。だから、ルールを一つだけ決めるわ。——『フランスに手を出した国は、例外なく消滅する』。このルールさえ守ってくれるなら、私たちは喜んであなた方と貿易をし、文化を交わし、世界を豊かにする最高のパートナーになるわ」
恐怖による均衡。
自分が手を出せば、確実に自分が滅びるという「絶対的な抑止力」。
それは、20世紀の冷戦構造において世界を破滅から救ったロジックそのものであった。
「……誰も攻め込まない。誰も手を出せない。
武力の行使を無意味にする、恐怖という名の平和……。これを『パクス・フランカーナ』とでも呼ぶべきか」
部屋の隅で、一部始終を静かに見守っていたワシントンが、深い感嘆と畏怖の念を込めて呟いた。
「見事だ、マリー・アントワネット王妃。……あなたは、兵士の血を流すことなく、自国の安全と、ヨーロッパの武力均衡を同時に成し遂げてみせたのだな」
ワシントンは、私に向かって軍人として最上級の敬礼を送った。
「アメリカ合衆国は、改めて誓おう。……我々は海を越えて、あなた方の庭を荒らすような真似は決してしない。そして、この美しくも恐ろしい国と、良き貿易の友であることを願う」
「……ありがとう、ワシントン将軍」
私は優雅に微笑み返し、そして各国の特使たちに向かって言った。
「さあ、野蛮な火薬の匂いはこれくらいにして、パリへ戻りましょう。皆様のために、最高のフルコースとオペラをご用意しておりますわ。……平和な世界での、優雅な外交を楽しみましょう?」
特使たちは、誰一人として逆らうことはできなかった。
彼らの心には、「フランスは絶対に手を出してはならない化け物である」という絶対的な恐怖が、永遠の呪いのように深く、深く刻み込まれたからだ。
マリー・アントワネット、28歳。
彼女は、血塗られた侵略の歴史を断ち切り、圧倒的なオーバーテクノロジーを用いた「抑止力」によって、フランスを中心とした冷たくも確固たる『平和な新世界』を、確立したのである。




