第190話 欺瞞のワルツ
装甲列車が国境を睨み、黒鋼の蒸気船が海を威圧する。
絶対的な物理的防衛線を見せつけられたことで、イギリス、プロイセン、そして新興国アメリカといった諸外国は、フランスへの直接的な武力行使を断念せざるを得なくなった。
——だが、それは決して「平和」の訪れを意味するものではない。
銃と大砲による表舞台の戦争が不可能になった時、国家が次に選ぶ手段。
それは、闇に紛れて敵国の心臓部へと忍び寄り、技術を盗み、デマを流し、内部から国を腐らせるという、血を流さない影の戦争——『諜報戦』である。
光り輝く繁栄を極めるパリの裏路地や高級サロンには、諸外国から送り込まれた無数のエリート・スパイたちが、甘い香水と偽りの身分に身を包んで暗躍し始めていた。
* * *
「……状況は極めて深刻です、王妃様」
深夜のチュイルリー宮殿、作戦会議室。
王室警護長にして、裏の特務部隊を束ねる漆黒の暗殺者・アーサーが、冷徹な声で報告書を読み上げた。
「この一ヶ月間で、アカデミーの研究室およびプレハブ建材の製造工場への『不審者の侵入未遂』が三十四件。さらに、パリ市内の酒場では『蒸気機関車は悪魔の乗り物であり、乗れば寿命が縮む』といった、民衆の不安を煽る組織的なデマの流布が確認されています」
「どこの国のネズミかしら?」
「主犯格はイギリス海軍情報部。それにプロイセンの軍属、さらにはアメリカの外交特使の裏の顔も混じっています」
「ふふっ、見事なまでにハイエナの勢揃いね」
私は、扇子で口元を隠しながら冷たく笑った。
他国の新技術を喉から手が出るほど欲しがるのは、為政者として当然の心理だ。特に、海軍の優位を蒸気船に脅かされたイギリスは、是が非でもボイラーの設計図を盗み出し、自国でコピー船を造らなければならないと焦っているはずだ。
「アーサー。不審者は、あなたが『排除』しているの?」
「はい。侵入者は関節を外してセーヌ川へ投棄。デマの首謀者は首の骨を……」
「お待ちください、野蛮な警護長殿。そのような血生臭い処理では、三流の暗殺教団と変わりませんよ」
その時。
会議室の暗がりから、コツ、コツ、と杖を突く音が響き、一人の男が進み出た。
絹のようになめらかな銀髪に、人を食ったような、ひどく皮肉めいた薄笑いを浮かべた男。右足に障害があるため杖をついているが、その立ち姿には一国の王すら凌駕するほどの奇妙な威圧感と、底知れぬ知性が漂っていた。
シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール。
史実において、フランス革命、ナポレオン帝国、そして王政復古という激動の時代を、その圧倒的な外交手腕と狡猾な変節によって生き抜き、諸外国を言葉一つで手玉に取った「希代の天才外交官」である。
教会という神聖な皮を被りながら、裏では神をも畏れぬ冷徹な情報網を張り巡らせていた彼を、私がこの防諜戦のために特別に引き抜いてきた最強の劇薬だった。
「……タレーラン。スパイを排除することが野蛮だと言うのか?」
ナポレオンが、油断なく目を細めて彼を睨む。
「ええ、極めて非効率的です、軍事司令官殿」
タレーランは、杖を片手に優雅にお辞儀をした。
「殺してしまえば、ただの死体です。しかし、生かして泳がせれば……彼らは自腹で旅費を払い、こちらの望む情報を本国へ届けてくれる『最高の無料配達員』となるのですよ」
「こちらの望む情報だと?」
「そうです。王妃様が築き上げたこの圧倒的な防衛技術。それをただ隠すだけでは、敵は諦めずに何度でも優秀なスパイを送り込んでくるでしょう。……ならば」
タレーランは、悪魔のように甘く、恐ろしい笑みを浮かべた。
「彼らに『成功体験』を与えてやればいいのです。血の滲むような努力の末に、フランスの厳重な金庫を破り、ついに最高機密である『蒸気装甲艦の設計図』を盗み出したという、極上のカタルシスをね」
「なるほど……。わざと偽の設計図を盗ませるということか」
ナポレオンが顎に手を当てる。
「ただのデタラメな偽物では、優秀なイギリスの技術者にすぐに見破られます。……ですから、ラプラス先生の出番です」
タレーランの視線を受け、部屋の隅で数式を書いていたラプラスが、銀縁眼鏡をキラリと光らせて振り返った。
「すでに完成していますよ。……一見すると完璧な熱力学の数式で構築された、極めて論理的で美しいボイラーの設計図。しかし、限界圧力の計算式に『意図的な偏微分方程式のミス』が一つだけ隠されています」
ラプラスは、恐ろしい設計図をテーブルに広げた。
「私の数式は、天才でなければ理解すらできない。そして、イギリスの天才がそれを解き明かした時、『あまりの美しさ』に感動し、その奥に潜む悪意に気づけなくなるのです。
この設計図通りにイギリスが莫大な予算をかけて蒸気船を建造した場合。平水域でのテスト走行は完璧に成功します。……しかし、実戦で荒波に揉まれ、ボイラーに急激な負荷がかかった瞬間。この美しいミスが牙を剥き、船は大爆発を起こすよう計算されています」
「……悪魔ね。あなたたち、本当に最悪で最高だわ」
私は、その『毒入りリンゴ』の完璧さに思わず身震いし、そして歓喜の笑みをこぼした。
「アーサー。タレーランの筋書き通りに、舞台を整えなさい。……イギリスのネズミに、極上の『怪盗ごっこ』を演じさせてあげるのよ」
「……承知いたしました。対象の環境認識をハッキングします」
アーサーは、闇に溶けるようにして姿を消した。
* * *
数日後の深夜。
イギリス海軍情報部のエース・スパイであるジョン・スミスは、黒装束に身を包み、チュイルリー宮殿の地下回廊に息を潜めていた。
(……潜入は成功した。フランスの警備網など、この俺の隠密技術の前ではザルも同然だ)
スミスは、暗闇の中でほくそ笑んだ。
彼の目的はただ一つ。この地下の最深部にある特別金庫に保管されているという『最新型・蒸気装甲艦』の設計図を盗み出し、祖国へ持ち帰ることだ。
(見張りの近衛兵は、交代のタイミングで三十秒の死角ができる。その隙に……!)
スミスは、音もなく廊下を駆け抜け、目的の金庫室の扉に取り付いた。
ピッキングツールを取り出し、複雑なシリンダー錠に挑む。
(……くっ、手強い。だが、俺の技術なら……開いた!)
カチャリ、と微かな音が鳴り、重厚な扉が開く。
スミスは部屋の中に滑り込み、中央に鎮座する鉄の金庫へと向かった。
(これだ……! これが、大英帝国の覇権を脅かすバケモノの心臓部……!)
彼は金庫の中から、厳重に封印された分厚い青写真の束を抜き出し、代わりに偽のダミー書類を収めておくという周到さも見せた。
「……誰だ! そこで何をしている!!」
突然、廊下から近衛兵の怒号が響いた。
(チッ、見つかったか! だが、目的は果たした!)
スミスは即座に窓を蹴り破り、用意していたロープで中庭へとダイブした。
背後から銃弾が飛び交い、犬の吠える声が宮殿中に響き渡る。
「追え! 侵入者だ!! 逃がすな!!」
凄まじい追跡網。スミスは息を弾ませ、パリの暗い裏路地を必死に駆け抜けた。
何度も捕まりそうになるギリギリの死線を潜り抜け、彼はついにセーヌ川に隠しておいた脱出用の小舟へとたどり着いた。
(……ハァ、ハァ……! やった! やってやったぞ!! さすがのフランス特務部隊も、俺の逃走術には敵わなかったようだな!!)
スミスは、血と泥にまみれながらも、胸元に抱いた設計図の感触に、狂おしいほどの達成感と優越感を覚えていた。
これで自分は、大英帝国を救った英雄だ。
この設計図があれば、イギリスの圧倒的な工業力をもって、フランスの蒸気船などすぐに凌駕する大艦隊を造り上げることができる。
彼は、勝利の美酒に酔いしれながら、霧の立ち込める夜のセーヌ川を下り、海へと脱出していった。
——だが。
彼は知る由もなかった。
彼が「死線を潜り抜けた」と思っていたその追跡劇のすべてが、漆黒のコートを着た一人の男によって、秒単位で演出された茶番劇であったことを。
「……対象のスミス工作員、セーヌ川より離脱しました。海への脱出ルートの確保、完了」
宮殿の屋上。
冷たい夜風にコートを靡かせながら、アーサーが無機質な声で懐中時計を閉じた。
「ご苦労様、アーサー。怪我はない?」
「はい。対象に『ギリギリで逃げ切れたという最高の成功体験』を与えるため、近衛兵の射撃角度と追跡速度をコントロールするのに、多少の物理演算を要しましたが……予定通りのパフォーマンスです」
暗闇の中で、アーサーの氷のような瞳が微かに光る。
「……クックック。素晴らしい舞台裏でしたね」
アーサーの背後から、杖をついたタレーランが、皮肉めいた笑みを浮かべて現れた。
「これで、イギリス海軍は終わりました。彼らはこれから十年間、あの『爆発事故が約束された設計図』を絶対の真理と信じ込み、数百万ポンドという莫大な国家予算と、無数の優秀な技術者の人生を、無意味な鉄クズの製造に費やすことになります」
戦わずして、敵国の国家予算を空にさせ、技術開発を十年遅らせる。
これこそが、外交と諜報の天才タレーランが描いた、血も涙もない「悪魔のカウンターインテリジェンス」であった。
「王妃様」
タレーランが、私に向かって優雅に頭を下げる。
「剣や大砲を交えるだけが戦争ではありません。敵の頭脳に『美しい嘘』を植え付け、彼ら自身の手で自国の首を絞めさせる。……これにて、見えざる戦争における我が国の絶対的な優位は、確定いたしました」
「ええ。見事な手腕だったわ、タレーラン」
私は、月明かりに照らされたパリの美しい夜景を見下ろしながら、扇子を広げた。
「兵器の力で外を封じ、情報の力で内を守る。
これで、いかなる強国も、フランスを武力と謀略で屈服させることは不可能になった」
国家の生存戦略において、これ以上ない完璧な防衛網の完成。
だが、ただ「守り切る」だけでは、まだ足りない。
「仕上げよ、ナポレオン、タレーラン。……コソコソと盗みを働こうとする野蛮な国々に、フランスの『真の恐ろしさ』と『平和への圧倒的な意志』を、公の場で、最高に華やかな形で叩きつけてやるのよ」
「……承知いたしました。諸外国の特使を招いた『大防衛演習』の準備は、すでに整っております」
ナポレオンが、軍帽を目深に被り、好戦的な笑みを浮かべた。
物理と情報の盾を完成させたマリー・アントワネット。
次なる舞台は、ヨーロッパ中の首脳を震え上がらせ、フランスを中心とした絶対的な武力均衡——『パクス・フランカーナ』を樹立するための、歴史上最も狂気に満ちた「軍事パレード」の開催であった。




