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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第189話 海を支配する黒い影

 フランスにはもう一つ、絶対に無視できない長大な国境が存在していた。


 ——西と北を囲む広大な海、大西洋とドーバー海峡である。


「……現在、イギリスが保有する『戦列艦』の数は、我がフランス海軍の数倍に達しています」


 チュイルリー宮殿の海軍作戦室。

 ナポレオンは、巨大な海図の上にイギリスの軍艦のコマを山のように置き、冷酷な現実を突きつけた。


「彼らの基本戦術は『海上封鎖』です。我が国の主要な港の沖合に無数の軍艦を並べ、貿易船をすべて拿捕だほ、あるいは撃沈する。……これが発動すれば、関税収入はゼロになり、国内の物流は窒息し、パリは経済的に干上がります。陸の要塞がどれほど強固でも、海を封鎖されれば国家は死ぬのです」


「……癪ですけれど、その通りですわね」

 ジャンヌが、忌々しげに銀縁眼鏡を押し上げた。


「ですが、今からイギリスに対抗して、同じ数の戦列艦を造船するなんて絶対に不可能ですわ! 軍艦一隻を造るのに、樹齢百年の樫の木が数千本も必要になります。資金も資源も、そして熟練の船大工の数も、イギリスには到底及びません!」


 海軍力とは、一朝一夕で身につくものではない。島国であるイギリスが数百年かけて築き上げた「海の覇権」に、正面から物量戦を挑むのは自殺行為だった。


「ええ。だから、正面から挑む必要はないわ」


 私は、海図の上に置かれた大量のイギリス軍艦のコマを、扇子でパラパラと払いのけた。


「私たちが欲しいのは『海の覇権』じゃなくて、『港の安全』よ。イギリスの軍艦が、私たちの港に近づくことすら恐れるような……少数の、でも絶対に勝てない『海の怪物』がいればいいのよ」


「……その怪物の設計図なら、僕の頭の中にある!」


 バンッ! と海図の上に、油まみれの巨大な青写真が広げられた。

 徹夜明けで目をギラギラさせたオタク王・ルイと、イギリスから寝返った土木王・スミートンである。


「風に頼る帆船の時代は、もう終わりだ! これからは『蒸気』が海を支配する!」


 ルイが広げた図面に描かれていたのは、マストも帆もない、巨大な煙突を持った異形の船だった。


 船体の左右には、水車のような巨大な外輪が取り付けられている。


「ベルサイユ・エクスプレスの高圧蒸気ボイラーを、そのまま船の心臓部に移植する。その膨大なエネルギーで左右の巨大な水車を回し、水を掻いて進むんだ! 名付けて『外輪式蒸気船』!!」


「ほ、帆がない船だと……!? そんな重い機械を積んで、海に浮かぶのか!?」

 ナポレオンが、常識外れの設計に目を見開いた。


「浮きますとも! 古代ギリシャのアルキメデスの原理です!」

 天才数学者ラプラスが、黒板に流体力学の数式を書き殴りながら解説する。


「重要なのは船が押しのける水の体積です。そして、私の計算した『最適な流線型の船体』を用いれば、水の抵抗を極限まで減らし、蒸気機関のパワーをロスなく推進力に変換できます。……理論上、この船は波を切り裂き、いかなる帆船よりも速く進むことが可能です」


「だが、待ってください」

 ナポレオンが、図面の側面を鋭く指差した。


「この左右の巨大な水車が推進力だとして……ここが剥き出しでは、敵の砲弾の格好の的ではないですか? 一発でも直撃すれば、この船はただの海に浮かぶ鉄の棺桶だ」


「フフッ、いい指摘だねナポレオン! もちろん対策済みさ!」


 ルイが自慢げに胸を張る。


「外輪の上から船体全体に至るまで、大砲の弾を弾き返す鉄のドームで覆い尽くすんだ! スミートン先生の技術で鉄骨を組み、そこにロレーヌの極厚鋼板をリベットで打ち込む!」


「装甲……鉄で覆われた船!」


「しかも、速いだけではありませんぞ!」

 スミートンが、熱を帯びた声で言葉を継いだ。


「軍艦同士の戦いにおいて、最大の弱点は『風向き』です。帆船は、風上からしか攻撃を仕掛けられない。しかし、この蒸気装甲艦は『風を一切無視』して進むことができる! 無風で敵の帆船が動けない時に、悠々と近づいて砲撃を浴びせることができるのです!」


 その言葉を聞いた瞬間。

 ナポレオンの脳内に、軍神としての恐るべき『戦術ロジック』が閃いた。


「……風を、無視する。……ということは!!」

 ナポレオンは、ガタッと立ち上がり、海図の上のコマを動かした。


「帆船の大砲は、船の『側面』にしか積まれていない。だから敵の船尾や船首に回り込めば、反撃を受けずに一方的に砲弾を浴びせることができる! だが、風の力では自由に船尾へ回り込むことは至難の業だ。……しかし、この蒸気船ならば!? 敵の風向きに関係なく、いつでも好きなタイミングで敵の死角へ回り込めるということか!!」


「その通り!!」

 ルイが、サムズアップを決める。


「つまり、機動力において、この蒸気船は既存の帆船に対し『絶対的な戦術的優位』を持つ。敵が百門の大砲を持っていようと、撃てない位置に回り込み続ければ、ただの巨大な木の的に過ぎないんだ!」


「……悪魔のような兵器だ。これならば、一隻の蒸気船で、イギリスの最新鋭戦列艦数隻を無傷で海の藻屑にできる……!」


 ナポレオンは、震える手で懐中時計を握りしめた。

 陸の装甲列車に続き、海軍の常識すらも根底から覆すオーバーテクノロジー。


「しかも、ジャンヌ長官! コストパフォーマンスも最高ですぞ!」

 スミートンが、ジャンヌに向かって熱弁を振るう。


「この船は外洋へ打って出る侵略用ではありません。あくまで港と沿岸を守る『沿岸防衛艦』。だから、船体を分厚い『鉄板』で覆ってしまっても構わないのです! 木の船体に大砲を撃ち込まれれば砕けますが、鉄の装甲板なら砲弾を弾き返す!! 数千本の樫の木を育てるより、ロレーヌの鉄鋼を貼り付ける方が、はるかに安上がりで高寿命です!」


「……鉄の装甲板!!」

 ジャンヌの目が、金貨マークを超えて、キラキラと輝くダイヤモンドのように見開かれた。


「イギリスの軍艦を一方的に沈められ、しかも装甲が硬くて修理費もかからない!? ……最高ですわ!! 予算の枠を即座に解放します! 沿岸防衛用の黒鋼の怪物を、今すぐル・アーヴルの造船所で建造なさい!!」


 かくして。

 フランス国家の生存を懸けた、極秘の「蒸気装甲艦」建造計画が、猛スピードでスタートしたのである。


 * * *


 数ヶ月後。

 1784年、春

 セーヌ川の河口であり、ドーバー海峡に面したフランス最大の港町、ル・アーヴル。


 空は厚い雲に覆われ、強い向かい風が吹き荒れる、帆船にとっては最悪の天候だった。


「……フン。相変わらずフランスの港は、軍艦の数も少なく貧弱なものだ」


 港を見下ろす崖の上から、高性能の望遠鏡でフランス海軍の動向を監視している男がいた。イギリス海軍情報部の、エリート・スパイである。


「アメリカの独立を支援したせいで、財政が尽きたのだろう。陸で妙な鉄道を走らせているという噂はあるが、海を支配する我がロイヤル・ネイビーの前では、この国などいつでも海上封鎖で首を絞められる」


 スパイが、冷笑を浮かべながら報告書にペンを走らせようとした、その時。


「……ん? なんだ、あの妙な船は」


 彼の望遠鏡の視界に、ル・アーヴルの秘密ドックからゆっくりと姿を現した『一隻の異形の船』が飛び込んできた。


 マストも帆もない。

 船体はコールタールと鉄の装甲板で真っ黒に覆われ、中央には巨大な煙突が突き出している。


「ハッ! なんだあの不格好な鉄の箱は。船の上に暖炉でも作ったのか? あんな帆もない船が、この強風と荒波の中で動けるわけが……」


 スパイが嘲笑あざわらった、次の瞬間。


 ——シュゴォォォォォォォォッ!!!!!


 漆黒の船の煙突から、凄まじい黒煙と蒸気が噴き上がった。

 装甲で守られた船体の左右の隙間から、巨大な外輪がドパァァァッ!! と激しく海水を掻き回し始めたのだ。


「なっ!?」


 スパイの目に映った光景は、彼の海軍軍人としての常識を破壊するものだった。


 その真っ黒な船は、強烈な向かい風と、川から海へと向かう激しい潮流を無視して、波を切り裂きながら猛スピードで前進を始めたのである。


「ば、馬鹿な!? 風に逆らって進んでいるだと!? しかも、あのスピードは……我が国の最新鋭クリッパーすら凌駕しているではないか!!」


 スパイは、パニックに陥りながら望遠鏡を覗き込み続けた。


 黒鋼の蒸気船——『レヴィアタン号』。

 その船首には、巨大な大砲が据え付けられ、分厚い鉄の装甲板が鈍い光を放っている。


 レヴィアタン号は、まるで海を滑るように急旋回を披露し、仮想敵に見立てた古い木造船の『真後ろ』へと、一瞬にして回り込んでみせた。


「……あ、ああ……っ」


 イギリスのスパイは、その『機動力』が何を意味するのかを悟り、全身から血の気が引いた。


「風を無視し、いつでも敵艦の死角を取れる船……。あ、あんなバケモノが沿岸に配備されれば、我が国の誇る海上封鎖艦隊など、風が止んだ瞬間に全滅させられてしまう……!!」


 彼がどれだけ優秀な船乗りを集め、風を読み、帆を操ろうとも。

 ボタン一つで蒸気圧を上げ、無慈悲に急加速してくる「装甲された機械」の前では、すべてが無力なのだ。


「た、大変だ……! これはロンドンの海軍本部に、一刻も早く報告しなければ……! フランスは、海軍の戦術そのものを根底から覆す『悪魔の船』を完成させたのだと……ッ!!」


 スパイは、恐怖に顔を引きつらせながら、崖を転がり落ちるようにして逃げ出していった。


 * * *


「……やはり、イギリスのネズミが監視していましたか。今頃、泣きながらドーバー海峡を渡っていることでしょう」


 レヴィアタン号の艦橋で、ナポレオンが双眼鏡を下ろしながら冷ややかに笑った。


「ええ。これでイギリス海軍も、迂闊うかつに私たちの港へ近づくことはできなくなるわ」


 私は、潮風にドレスの裾を揺らしながら、誇らしく胸を張った。


 陸には、決して突破できない鋼鉄の装甲列車。

 海には、風の概念を破壊する黒鋼の蒸気装甲艦。


 これで、フランスという国家の「物理的な防衛線」は、18世紀の軍事技術を逸脱した次元で、完璧に完成したのである。


「これで、もう誰も私たちを脅かすことはできないわね!」

 ルイが、操舵輪そうだりんを握りながら嬉しそうに笑う。


「……いいえ、ルイ。油断は禁物よ」


 私は、波間に消えていったイギリスの方向を見つめながら、静かに扇子を閉じた。


「物理的な侵略が不可能だと悟った時。……国家という怪物が次に打ってくる手は、決まっているわ」


「次に打ってくる手、ですか?」


「ええ。正面から殴り合って勝てないなら、内部から崩すしかない。……圧倒的な武力の前に、戦場は『海と陸』から、『影と暗闇』へと移行するのよ」


 そう。

 強固な盾を見せつけられた諸外国が次に狙うのは、この圧倒的なオーバーテクノロジーの「設計図」を盗み出し、あるいはフランス国内にデマを流して暴動を引き起こし、内側から国を破壊すること。


 すなわち、血を流さない影の戦争——『諜報戦』の始まりである。


 マリー・アントワネット、28歳。

 無敵の防衛線を手に入れたフランスの平和を守るため、彼女とアベンジャーズたちは、見えざる敵の刃が飛び交う、最も狡猾こうかつで危険な「情報戦」の泥沼へと、その歩みを進めようとしていた。

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