第188話 マジノ・ライン
フランス東部、ドイツとの国境に位置するアルザス=ロレーヌ地方。
かつて幾度となく領土争いの血が流され、史実においても幾多の悲劇の舞台となるこの「ヨーロッパの火薬庫」は今、全く別の意味で凄まじい熱気と轟音に包まれていた。
「いいか野郎ども!! セメントが乾く前に一気に型枠に流し込め! スミートンの旦那の特製コンクリートは、モタモタしてると石より硬く固まっちまうぞ!!」
労働者のリーダーであるジャンが、汗だくになりながら叫ぶ。
彼の掛け声とともに、数千人の労働者たちが一斉に巨大な滑車を回し、ドロドロに溶けた「水硬性セメント」を、巨大な星型の型枠の中へと次々に流し込んでいく。
「素晴らしい……! 我が大英帝国の誇る最新建築技術が、このフランスの国境でこれほど大規模に花開くとは!」
ツイードのコートを着たイギリスの土木王ジョン・スミートンが、完成しつつある巨大な城壁を撫でながら、感極まったように涙を拭っていた。
「従来のレンガや石積みの城壁は、大砲の弾を真っ向から受ければ砕け散る。……だが! 鉄筋の骨組みにこの水硬性セメントを流し込んだ『鉄筋コンクリート装甲』は、砲弾の衝撃を全体で吸収して跳ね返す! まさに、絶対に砕けない『神の盾』だ!!」
絶対防衛戦線・第一フェーズ。
国境線の要所要所に、大砲の直撃すら弾き返すコンクリート製の「星型要塞」を建造する。
だが、ただ硬い要塞を置くだけでは、史実のマジノ線と同じく「迂回されて終わり」である。
この防衛線の真の恐ろしさは、要塞と要塞の間を繋ぐ『ネットワーク』にあった。
「……王妃様、ご覧ください。通信網の敷設も順調です」
視察に訪れていた私とナポレオンに対し、天才数学者ラプラスが丘の上から銀縁眼鏡を押し上げて見せた。
要塞の屋上、そして線路沿いに等間隔で建てられた高い塔。
その頂上には、巨大な「腕」のような可動式の木製アームが取り付けられていた。
「あれは……?」
「クロード・シャップという若き技術者が考案した『腕木通信』のシステムを、私の数式で極限まで最適化したものです」
ラプラスが解説する。
「塔の上のアームの『角度の組み合わせ』によって、アルファベットや数字の暗号を作ります。それを隣の塔の観測手が望遠鏡で読み取り、即座に同じ形を次の塔へリレーしていく。さらに、私の計算で『夜間でもランタンの光を組み合わせた暗号網』を構築し、濃霧の日には『蒸気サイレンの音階によるバックアップ』も用意しました。
……これにより、いかなる天候・昼夜を問わず、馬を走らせれば数日かかる国境の端から端までの情報伝達が、わずか『数分』で完了します」
「数分で情報が伝わる……!?」
ナポレオンが、懐中時計を落としそうになるほど驚愕した。
「つまり、国境のどこに敵の大軍が姿を現したか、その正確な『座標と規模』が、瞬時にすべての要塞へ共有されるということか……!」
「その通りです、軍事司令官殿」
ラプラスは、ニヤリと笑った。
「そして、その情報を元に、私の計算した『最適迎撃ルート』へ向けて、あの怪物が放たれるのです」
ラプラスが指差した先。
要塞の地下深くから伸びる、極太の鉄のレール。その上を、凄まじい黒煙と蒸気を吐き出しながら、地響きとともに『それ』が姿を現した。
「「「うおおおおおおっ!!」」」
労働者たちから、どよめきと歓声が上がる。
私とナポレオンも、思わず息を呑んだ。
「……完成したんだね、ルイ」
「ああ! フランスの誇る最強の盾にして、最凶の移動要塞だ!!」
先頭車両のハッチから顔を出したオタク王ルイが、油まみれの顔で誇らしげに叫ぶ。
重装甲列車『ランド・バトラー』。
その姿は、ベルサイユエクスプレスの優雅さとは対照的な、純然たる「殺戮と防衛の機械」であった。
機関車本体は、敵の砲弾を滑らせて逸らすための「傾斜装甲」で覆われ、まるで巨大な黒い亀かアルマジロのような威圧感を放っている。
そして何より目を引くのは、後方に連結された巨大な戦闘車両だ。
「戦列艦に積まれるような超大型の重砲が……台車の上に載っているだと!?」
ナポレオンが、信じられないものを見るように目を剥いた。
「それだけじゃないぞ、ナポレオン!」
ルイが自慢げに胸を張る。
「大砲は普通、前か横にしか撃てない。だが、僕はこの大砲の土台に、巨大な歯車とベアリングを組み込んだ!……『全周旋回式・密閉砲塔』だ!! これにより、列車がどの方向を向いていようと、360度全方位に砲弾の雨を降らせることができる!!」
十九世紀末から二十世紀の戦艦や戦車に採用される「旋回砲塔」の概念を、オタク王は一世紀以上も前倒しで、力技で実用化してしまったのだ。
「……王妃様。これは、軍事の常識という概念そのものへの冒涜です」
ナポレオンが、震える声で呟いた。
「防御力は要塞並み、火力は戦艦並み、機動力は騎兵の数十倍。……こんな化け物が国境をウロウロしていれば、敵軍は国境を越える前に戦意を喪失します。戦う前から勝敗が決している」
「ええ。だからこそ、実際に『見せつける』必要があるのよ」
私は、扇子をパチンと開き、冷酷な微笑みを浮かべた。
「今日のこの『試射演習』。……当然、見学者が来ているのでしょうね、アーサー?」
「……はい」
私の影から、漆黒のコートを着た暗殺者アーサーが音もなく姿を現した。
「王妃様の予測通り。この巨大工事の噂を聞きつけ、東の丘陵地帯の森の中に、プロイセンとオーストリアの『極秘偵察部隊』が潜伏し、こちらを望遠鏡で監視しております。……ただちに排除しましょうか?」
「いいえ、放置しておきなさい。むしろ特等席で見せてあげるのよ。……私たちの『新しい盾』が、どれほど絶望的な代物かをね」
絶望のデモンストレーション
東の森の中。
茂みに身を潜めていたプロイセン軍の優秀なスパイたちは、望遠鏡越しに見える異様な光景に、冷や汗を流していた。
「……おい、なんだあの巨大な鉄の箱は。レールの上を、煙を吐きながら動いているぞ」
「それに、あの壁。一晩で巨大な星型の要塞が出来上がっていく。フランス軍は魔法でも使っているのか?」
彼らは、自国の国王から「フランスの新たな防衛線の弱点を探れ」という特命を帯びて潜入していた。
だが、彼らの目の前で行われようとしていたのは、弱点の露呈ではなく、心臓を鷲掴みにされるような『恐怖のショー』であった。
「……ターゲット、確認。距離三千メートル」
丘の上のラプラスが、最新式の測距儀を覗き込みながら、無機質な声で座標を読み上げた。
「腕木通信、作動! 標的座標を装甲列車へ伝達!」
バサッ、バサッ! と、通信塔のアームが瞬時に動き、暗号化された座標が装甲列車へと送られる。
キィィィィィン……!!
猛スピードでレールを走っていた装甲列車が、森から数キロ離れた地点で急ブレーキをかけ、ピタリと停止した。
「座標受領! ラプラス先生の弾道計算式をセット!!」
車内のルイが、巨大な歯車を回し、旋回砲塔の向きを微調整する。
「仰角よし! 旋回角よし! 装薬最大!!」
そして。
ルイが、発射のレバーを力強く引いた。
ドッッッッゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
大地が割れるような凄まじい轟音とともに、装甲列車の巨大な砲身から、目も眩むような閃光と爆風が噴き出した。
発射の反動で列車の巨体が大きく沈み込むが、スミートンの強固なサスペンションとレールが、そのエネルギーを完璧に吸収して車体を支える。
放たれた巨大な徹甲弾は、空気を引き裂く甲高い音を立てて放物線を描き……。
——着弾。
森に潜んでいたプロイセンのスパイたちの、わずか数百メートル先の荒れ地に用意されていた「仮想の敵陣地」に、寸分の狂いもなく直撃した。
ズドォォォォォォンッ!!!!!
凄まじい爆発。空高く舞い上がる土砂と、粉々に砕け散った石の破片。
もしそこに数万の歩兵部隊が密集していれば、たった一発で数百人が肉片に変わっていただろう。
「あ……ああ……っ」
スパイたちは、望遠鏡を取り落とし、ガタガタと震えながらその場にへたり込んだ。
「ば、馬鹿な……! あんな巨大な大砲を、馬もなしに高速で移動させ、停車した瞬間にこの精度で撃ち込んでくるだと!?」
「あんな化け物が国境を走っている国に、どうやって攻め込めというのだ! 歩兵の密集陣形など、ただの的じゃないか!!」
彼らの心の中にあった「フランスの弱点を探る」という使命感は、一瞬にして消し飛んだ。
残ったのは、「絶対に、この国に手を出してはならない」という、生存本能に刻み込まれた根源的な恐怖だけだった。
「……任務は終了だ。早く本国へ知らせろ……。フランス国境は、もはや人間の軍隊が越えられる領域ではないと……ッ!!」
スパイたちは、逃げるようにして森の奥へと姿を消していった。
海を支配する黒い影へ
「……スパイの反応が消えました。文字通り、尻尾を巻いて逃げ帰ったようです」
アーサーの報告を聞き、私は満足げに頷いた。
「上出来ね。これでプロイセンもオーストリアも、私たちの国境に軍を近づけることすら躊躇うようになるわ。血を一滴も流さずに、最大の防衛効果を得たのよ」
「まったく、王妃様のハッタリ……いえ、心理戦の巧みさには背筋が凍ります」
ナポレオンが、苦笑しながらも最大限の賛辞を送った。
「経済的にも大勝利ですわ!」
ジャンヌが札束を数えながら歓喜する。
「装甲列車を常時数編成走らせる石炭代なんて、三十万の兵士の食費に比べれば端金です! これで我が国の黒字はさらに確固たるものに……!」
誰もが、陸の防衛が完璧に構築されたことに安堵し、勝利を確信していた。
……だが、ただ一人。軍神ナポレオンの眼差しだけは、東の国境から遠く離れ、西の方角——広大な空の彼方を見つめていた。
「……どうしたの、ナポレオン? 浮かない顔をして」
「王妃様。確かに、東の陸地からの脅威は、この装甲列車と要塞のネットワークによって完全に遮断されました。……しかし」
ナポレオンは、懐中時計をカチンと閉め、極めて深刻な声で告げた。
「フランスの国境は、陸だけではありません。……『海』です」
「海……」
「ええ。大西洋、そしてドーバー海峡。……どれほど陸を強固に守ろうとも、最強の海軍を誇る『大英帝国』が、無数の戦列艦で我が国の港を海上封鎖すれば? 物流は止まり、経済は窒息し、この豊かなフランスは内部から崩壊します。……陸の盾だけでは、国家の生存は保障されないのです」
ナポレオンの冷徹な指摘に、場にいた全員がハッと息を呑んだ。
イギリス海軍。
それは、アメリカ独立戦争で敗北したとはいえ、未だに世界の海を支配する最強の怪物である。彼らが本気でフランスを封じ込めに来た時、陸を走る装甲列車は役に立たない。
「……なるほど。なら、海にも『怪物』を放てばいいのね?」
沈黙を破ったのは、オタク王・ルイだった。
彼は、装甲列車の図面の裏側をバンッと叩き、そこに全く新しい、狂気に満ちた『船』のラフスケッチを描き始めた。
「風の力に頼る帆船の時代は、もう終わりだ。スミートン先生! 次は、あなたの造船技術と、僕の高圧蒸気ボイラーを融合させる時だ!!」
「ほう……! 帆を持たず、石炭の力で海を渡る鉄の船、ですかな! 私の海事エンジニアとしての血が騒ぎますぞ!!」
マリー・アントワネット、27歳。
陸の絶対防衛を完了したアベンジャーズたちは休む間もなく、世界の覇者イギリスを震え上がらせるための次なる超兵器——『黒鋼の蒸気船』の開発へと、猛然と舵を切ろうとしていた。




