第187話 不可侵のグランドデザイン
国家の防衛とは、突き詰めれば矛盾の極みである。
他国からの侵略を防ぐためには、強大な軍隊が必要だ。しかし、強大な軍隊を維持すれば国家財政が破綻し、内部から国が崩壊する。そして何より、巨大な武力を持てば、血気盛んな将軍たちはその力を使いたがり、自ら無謀な侵略戦争へと突き進んでしまう。
チュイルリー宮殿の作戦会議室。
アメリカ使節団の帰国から数日後、フランス国家の「絶対防衛」を巡って、我が国が誇る最高頭脳たちは、かつてないほど激しい意見の衝突——文字通りの大喧嘩を繰り広げていた。
「理解できませんね、ジャンヌ長官! なぜ国境警備軍の増強予算が『全額カット』なのですか!」
普段は冷徹なナポレオンが、軍帽をテーブルに叩きつけ、珍しく声を荒らげていた。
「王妃様が『絶対防衛』を掲げられた以上、東のプロイセンやオーストリア国境に、最低でも三十万の常備軍を配置し、完璧な哨戒網を敷く必要があります。敵に国境を1ミリたりとも越えさせないためには、圧倒的な『兵士の数』が不可欠だ!」
「だから、その三十万の常備軍の『維持費』が問題だと言っているのですわ!!」
対するジャンヌも、分厚い帳簿でテーブルをバンバンと叩き返しながら、負けじと怒鳴り散らした。
「いいですか、軍事オタク! 三十万人の健康な男たちを、生産活動もさせずに毎日国境に立たせておくのですよ!? 彼らの食べるパン、肉、制服の修繕費、給料……。さらに彼らを支えるための兵站網を常時稼働させれば、我が国が誇る莫大な黒字予算が、たった数年で吹き飛びますわ!!」
「国家が滅びれば、黒字もクソもありません! 防衛費をケチって国境を破られれば、パリは火の海になるのですよ!」
「だ・か・ら! 経済を殺すような防衛策は本末転倒だと言っているのです! 防御力は高く、かつランニングコストは極限まで安い『コスパ最強の軍隊』を作りなさいな!!」
軍事ロジックの最高峰と、経済ロジックの最高峰。
彼らの主張はどちらも正しく、だからこそ真っ向から激突し、議論は平行線を辿っていた。
「……まあまあ、二人とも。落ち着いてお茶でも飲んで」
私は、湯気を立てる紅茶のカップを二人の前にコトリと置き、優雅に微笑んだ。
「ナポレオンの言う通り、国境の警備は絶対に必要よ。でも、ジャンヌの言う通り、経済を犠牲にする常備軍の拡大は却下よ。……それにね、ナポレオン」
私は、地図の上に置かれた「大量の軍隊の駒」を、扇子でパラパラと弾き飛ばした。
「国境に何十万もの大軍を並べるということは、他国から見れば『フランスが侵略の準備をしている』という強烈なメッセージになってしまうわ。そうなれば、プロイセンもオーストリアも恐怖に駆られ、無理をしてでも軍拡を進める。……結果として、お互いに一触即発の『安全保障のジレンマ』に陥ってしまうのよ」
「……では、王妃様。財政を圧迫せず、他国を刺激せず、それでいて敵の侵略を絶対に許さない防衛網など……そのような『魔法の盾』が、現実の兵法に存在するとでも?」
ナポレオンが、鋭い視線で私に問いかける。
「魔法じゃないわ。……それを『抑止力』と呼ぶの」
私は、扇子をパチンと閉じた。
「こちらからは絶対に攻め込まない。でも、もしフランスに一歩でも足を踏み入れたら、どれほどの大軍であろうと『瞬時に、かつ確実な絶望を以て消し飛ぶ』という、圧倒的な恐怖のシステム。
……三十万の人間ではなく、眠らない『機械』に国境を守らせるのよ」
「その『圧倒的な恐怖のシステム』の設計なら、すでに僕が完璧に図面を引き終わっているよ!」
待ってましたとばかりに、全身に油とススをつけたオタク王・ルイが、巨大な青写真をテーブルのど真ん中に広げた。
そこには、先日彼が「マジノ・ライン」と叫んで構想した、異形の巨大兵器の緻密な設計図が描かれていた。
「ナポレオン、君の『常備軍による防衛』には致命的な欠陥がある。もし国境線が千キロメートルあったとして、三十万の兵力を均等に配置すれば、一キロあたりたったの三百人しか防衛に割けない。敵が一点に十万の兵を集中させれば、簡単に突破されてしまうんだ」
「……ええ。だからこそ、後方からの迅速な援軍が必要になります」
「だが、人間の足と馬では間に合わない。だから、僕たちは『壁』ではなく、『移動する要塞』を創るんだ」
ルイは、図面の中央に描かれた、漆黒の巨大な列車を指差した。
「これが、ベルサイユエクスプレスの技術を軍事転用した怪物——装甲列車『ランド・バトラー』だ!!」
「装甲……列車……!」
図面に描かれたその姿は、まさに陸を走る戦艦だった。
巨大な高圧蒸気ボイラーを、分厚い鋼鉄の装甲板で覆い尽くし、連結された複数の車両には、なんと海軍の戦列艦に搭載されるような『超大型の大砲』と、全方位を射撃可能な『旋回式の砲塔』がズラリと並べられている。
「スミートン先生の開発した水硬性セメントで、国境の要所要所に『難攻不落の星型要塞』を点在させる。そして、その要塞と要塞の間を、ただの単線ではなく、網の目のように複雑な『複線と待避線』の鉄道網で繋ぐんだ!」
ルイの解説に、天才数学者ラプラスが銀縁眼鏡を光らせて同調する。
「私の計算によれば、このシステムは完璧です。国境のどこかで敵の侵攻を感知した場合、各要塞から『重装甲列車』が時速五十キロの猛スピードで出撃します。……結果、敵が国境を越えてからわずか『二時間以内』に、何十門もの巨大な大砲を積んだ鉄の要塞が、敵の側面に一斉に砲火を浴びせることになります」
「……二時間で、重砲部隊が国境の任意のポイントへ展開するだと!?」
ナポレオンの目が、驚愕に見開かれたが、彼はすぐに軍人としての疑問を口にした。
「だが、敵が事前にレールを爆破工作したらどうする? 列車は身動きが取れず、巨大な鉄の的になるだけだぞ」
「心配無用だ、将軍殿!」
土木王スミートンが、胸を叩いて笑った。
「グリッド状に複線化されたレールなら、迂回ルートはいくらでもある。それに、万が一レールが破壊されても、私の土木チームが専用の修理車両に乗り込み、水硬性セメントと鋼材で『数時間』のうちに完全に復旧させてみせよう! 敵の工兵が爆破するスピードより、我々が直すスピードの方が圧倒的に速いのだ!」
「想像してみてくれ、ナポレオン」
ルイが、熱に浮かされたようなオタクの早口で捲し立てる。
「敵の歩兵が国境を越えた瞬間、地鳴りとともに『鉄の城』が猛スピードで突っ込んできて、数十門の大砲が火を噴くんだ。歩兵の持つマスケット銃なんて、この分厚い鋼鉄の前では豆鉄砲も同じ。敵にしてみれば、大砲の弾が飛んでくるだけの『絶対に倒せない死神』が、国境沿いを高速で巡回しているようなものだ!!」
「なんと……!!」
ナポレオンは、戦慄とともに図面を食い入るように見つめた。
「つまり、長大な国境線を『人間』で埋める必要はない……。この装甲列車を数編成と、それを運用する少数の技術兵さえいれば、数十万の軍隊と同等、いや、それ以上の『防衛密度』を維持できるということか……!!」
「そういうことですわっ!!」
今度は、ジャンヌが目を金貨マークにして、バンッと机を叩いた。
「これなら、莫大な常備軍を抱える必要はありません! 列車の燃料である石炭と、少数の兵士の給料だけで済みます! 初期投資の『レール敷設』と『列車の製造費』はかかりますが、長期的なランニングコストで考えれば、人間の軍隊を維持する費用の10分の1以下に収まりますわ!!」
悪魔の金庫番の顔に、最高に邪悪で美しい「コストカット大成功」の笑みが浮かんだ。
「三十万の兵士の血を流す代わりに、少数の鉄の塊に国境を守らせる。……無駄な人件費を削りつつ、国防力を極大化する。これぞ、完璧な『経済と軍事の融合』ですわ!!」
軍事の天才、土木の天才、数学の天才、そして経済の天才。
彼らの全く異なるベクトルのエゴが、オタク王の提示した「装甲列車」という一つのオーバーテクノロジーの上で、見事なまでに合致した瞬間だった。
「……参りました」
ナポレオンは、深くため息をつき、そして、どこか楽しげに、ゾクゾクするような笑みをこぼした。
「攻め込むことすら物理的に不可能な、絶対的な死の防衛線。……確かにこれなら、諸外国はフランスに手を出そうという気すら起こさないでしょう。血を流さずに勝つ。これこそが兵法の極意です」
「ええ。これこそが、私たちの創る新しい国の形よ」
私は、地図の上に広げられた装甲列車の図面を指先でなぞった。
「誰かの血や恐怖の上に成り立つ覇権なんて、長続きしないわ。私たちは、他国を脅かすための『矛』は捨てたの。その代わり、この国に生きる人々の笑顔を守るためなら、どこまでも冷酷に、どこまでも完璧に敵を絶望させる……世界で最も硬く、最も恐ろしい『鉄の盾』を創り上げるわよ!」
「「「ハッ!!!」」」
かくして。
アメリカという新興国の見えざる脅威を前に、フランスの国家方針は決定づけられた。
外へ向かって領土を広げる「帝国」ではなく、内なる繁栄を極限まで高め、外からの干渉を物理的にシャットアウトする「絶対防衛の超大国」。
史実において、フランスが常に近隣諸国との泥沼の戦争に悩まされ、何百万人という若者の命を散らしてきた悲劇の歴史。
その血塗られた運命を回避するため、マリー・アントワネットと愉快な天才たちは、18世紀の国境線に「狂気の鋼鉄ネットワーク」を敷設するという、前代未聞の巨大土木・軍事プロジェクトへと足を踏み入れたのである。
だが。
陸の防衛が完璧に構築されようとしている一方で、フランスの平和を脅かすもう一つの『巨大な隙』が、手付かずのまま残されていた。
それは——イギリスが絶対の覇権を握る、広大にして冷酷なる「海」の領域であった。
マリー・アントワネット、27歳。
陸の防衛に目処をつけた彼女たちの視線は、次なる領域——大西洋の荒波を制するための『黒い影』の開発へと、静かに向けられようとしていたのである。




