第186話 冷たい同盟
チュイルリー宮殿の大広間で開かれた、アメリカ使節団の歓迎晩餐会。
シャンパンの泡と、優雅なオーケストラの調べに包まれたその宴は、表向きは「自由の勝利」と「両国の永遠の友情」を讃え合う、これ以上ないほど温かな祝祭として幕を閉じた。
だが、ワシントンやフランクリンたちが客室へと下がり、宮殿が深夜の静寂に包まれた頃。
地下の極秘作戦会議室には、先ほどの華やかな笑顔を拭い去った、冷徹なフランスの最高頭脳たちが集結していた。
「……お見事でしたね、王妃様。あのワシントン将軍の顔……まるで龍の巣に迷い込んでしまったウサギのような、見事なまでの『絶望と恐怖』に染まっていました」
ナポレオンが、机の上に広げられたヨーロッパ地図の上に、チェスの駒をコトリと置きながら、薄く冷酷な笑みを浮かべた。
「ええ。プレゼンは、彼にとって何よりの劇薬だったわ。……これで当分、アメリカが海を越えてフランスに牙を向くような馬鹿な真似はしないでしょうね」
私は、深くソファに腰を沈めた。
「大成功じゃないか! これで僕たちの西側の安全は確保されたんだね!」
ルイが、ホッと胸を撫で下ろして無邪気に笑う。
「それに、彼らからは独立戦争への支援に対する『莫大な借金の返済確約書』も取り付けておりますわ! 利子を含めれば、今後数十年にわたって我が国に莫大なドルが入り続ける、最高の不労所得ですのよ!」
ジャンヌもまた、ワシントンがサインした誓約書を抱きしめ、頬ずりをして喜んでいた。
だが、私とナポレオンの二人は、彼らのような無邪気な喜びを一切共有していなかった。
「……ルイ。ジャンヌ。あなたたち、本当にアメリカがその誓約書通りに、大人しく借金を返し続けると思っているの?」
私が氷のように冷たい声で問うと、ルイとジャンヌはピタリと動きを止めた。
「え? だ、だって、彼らはあんなに感謝してくれていたじゃないか。『フランスの流してくれた血と恩義は永遠に忘れない』って、涙ぐみながら……」
「そうですよ! 国家間の正式な契約ですわ! もし踏み倒すようなことがあれば、国際的な信用は地に落ちます!」
二人の反論に対し、ナポレオンが深く、嘲るようなため息をついた。
「……甘いですね。お二人は技術と経済の天才ですが、『地政学』というものを理解していない」
ナポレオンは、チェスの盤上にある「アメリカ」と「イギリス」の駒を、指先で弾いて隣り合わせに並べた。
「いいですか。アメリカは独立したとはいえ、まだ生まれたばかりの赤ん坊です。広大な国土を開拓し、経済を回すためには、圧倒的な『貿易のパートナー』が必要不可欠となる。……では、彼らにとって最も都合の良い取引相手はどこだと思いますか?」
「それはもちろん、最大の支援国である我がフランス……」
ルイが答えようとして、ハッと口をつぐんだ。
「……まさか。言葉も、文化も、そして法律の基礎も同じである『イギリス』だと言うのかい? 独立戦争で、あれほど血みどろになって殺し合った、憎き宿敵じゃないか!」
「ええ、その『まさか』です」
ナポレオンが冷徹に告げる。
「過去の恨みなど、国家の生存競争の前では何の足かせにもなりません。アメリカの商人たちにとって、言葉が通じ、既存の巨大な経済圏を持つイギリスと再び手を組むことこそが、最も手っ取り早く国を豊かにする手段なのです」
私は、ナポレオンの的確すぎる分析に内心で舌を巻きながら言葉を継いだ。
「その通りよ。……今はまだ、戦争の傷跡が生々しいから私たちに感謝しているわ。でもね、十年も経てば、必ずアメリカはイギリスと経済協定を結び、急速にイギリス寄りの外交にシフトする」
「そ、そんな……! 恩を仇で返すような真似を……!?」
「するわよ。それが『国家』という怪物だもの」
私は扇子をパチンと閉じ、ジャンヌに向かって残酷な事実を突きつけた。
「そしてジャンヌ。あなたが抱きしめているその借金の誓約書だけれど。……アメリカは近い将来、『債務不履行』を宣言して、支払いを拒否するわ」
「なっ……!? デフォルトですって!? ふ、ふざけないでくださいませ!! 契約書には国王陛下と彼らのサインが……!」
「彼らはこういう理屈をつけてくるわ。『私たちが借金をしたのは、かつてのフランスブルボン朝に対してだ。新憲法を制定し、立憲君主制という別のシステムに生まれ変わった今のフランス政府に対して、借金を返す義務はない』ってね」
史実において、フランス革命後にアメリカが実際に用いた、極悪非道な「踏み倒しのロジック」である。
「あ、あああ……あんなに計算した利益が……私の不労所得が……っ!!」
ジャンヌは白目を剥き、誓約書を握りしめたまま膝から崩れ落ちた。
「許せませんわ……!! アーサー! アーサー!! 今すぐ刺客を放って、あのワシントンの首を……いえ、借金のカタに新大陸の土地を切り取ってきなさい!!」
「落ち着きなさい、ジャンヌ」
私は、発狂しかけた悪魔の金庫番の肩をポンと叩いた。
「いいこと? これはアメリカが特別悪い国だからじゃないの。国を守り、国民を食わせるために、彼らは泥を被ってでも冷徹な『国益』を優先しなければならないだけなのよ。……イギリスの宰相の言葉を借りるならね」
私は、かつて聞いた外交の真理を、静かな声で紡いだ。
「国家間に、永遠の同盟も、永遠の敵も存在しない。存在するのは、ただ永遠の『国益』だけ。……ワシントン将軍は、その国益のために、いずれ必ず私たちを裏切る。そして私たちが今日、彼に圧倒的なトラウマを植え付けたことで、その裏切りは『大西洋の向こう側に引きこもる決定的な防衛本能』として、より確実なものになったわ」
「……つまり、王妃様は最初から『アメリカの裏切り』を前提として、彼らを突き放すためにあの軍事プレゼンを行ったのですね」
ナポレオンが、畏怖の念すら混じった声で呟く。
「ええ。アメリカを味方につなぎ止めようと中途半端に優しくすれば、彼らは我が国の『甘さ』に付け込み、さらなる支援を要求し続けるだけの巨大な寄生虫になっていたわ。だから、今のうちに『フランスは触れてはならない化け物だ』と認識させ、完全に西の憂いを断ち切る必要があったの」
「……なんてことだ」
ルイが、頭を抱えて唸った。
「僕たちは、自由という同じ理想を掲げた『友』を助けたつもりだったのに。……世界は、そんなに冷たいものだったのか」
「冷たいわ。氷よりもね」
私は、玉座から立ち上がり、暗い窓ガラスに映る自分自身の姿を見つめた。
「フランスがこれほど豊かになり、強大なインフラを手に入れた今。……周囲の国々は、私たちを『自由の同志』としてではなく、いずれ自国を飲み込む『最大の脅威』として見ている。イギリスは必ず息を吹き返す。東のプロイセンやオーストリアも、私たちの技術を狙って牙を研いでいるわ」
私は振り返り、最高頭脳のアベンジャーズたちを一人一人、強い眼差しで見据えた。
「これまでは、内政を整え、経済を回すための『拡大と成長』のフェーズだった。でも、ここからは違う」
私は、机の上に広げられたフランスの地図の上に、自分の手をドンッと置いた。
「今日、この瞬間をもって。フランス王国の国家戦略を『絶対防衛』へと完全シフトさせる!!」
「絶対防衛……!」
「ええ! 私たちは他国を侵略して領土を広げる気は一切ない! でも、私たちの愛するこのフランスを、国民の平和な日常を、1ミリたりとも他国に踏みにじらせることは絶対に許さない!!」
私は扇子を天高く掲げ、高らかに宣言した。
「誰もフランスに手を出せない。手を出そうと考えることすら馬鹿らしくなるような、圧倒的で、絶望的で、完璧な『盾』を構築するのよ!!」
私の言葉に、ナポレオンの目が獰猛な肉食獣のように輝いた。
「……素晴らしい。他国を侵略するよりも、防衛戦を構築する方が、はるかに高度なロジックと技術が要求されます。先日私が提案した『沿岸要塞群と装甲列車計画』、いよいよ本格的に形にする時ですね」
「ええ、ナポレオン! そして僕もひらめいたんだ!!」
先ほどまでショックで落ち込んでいたオタク王ルイの瞳に、バチバチッ! と危険なショート回路のような光が宿り、猛然と巨大な白紙の図面を広げた。
「先日君が提案してくれた『装甲列車』の構想だけど、あれだけじゃまだ足りない! ただ列車を走らせるだけじゃなく、スミートン先生のコンクリート技術と完全にリンクさせるんだ!」
ルイは、フランスの東部国境——史実においてドイツとの激戦地となるアルザス=ロレーヌ地方の国境線に沿って、一本の太い線を引き、その上に巨大な地下施設の絵を描き殴った。
「国境線に沿って、大砲と分厚い鋼鉄の装甲で覆われた『巨大な動く要塞(装甲列車)』を巡回させる! そして要所要所に、何万人もの兵士が生活できる『完全自給自足のコンクリート地下要塞』を築き、それらをすべて地下鉄道と『蒸気通信網』でリンクさせる!!」
ルイの口から飛び出したのは、十九世紀から二十世紀にかけての戦争の概念を根底から覆す、あまりにも狂気じみた超巨大防衛ネットワーク構想だった。
「名付けて、鉄壁の機動要塞群——『マジノ・ライン』だ!!」
「ま、マジノ・ライン……!?」
私は、前世の歴史でフランスが莫大な予算をかけて構築し、ドイツ軍にあっさりと迂回されてしまったあの「悲劇の巨大要塞」の名前を思い出し、思わずツッコミを入れそうになった。
だが、ルイの描いた図面は、史実の『固定されて動けない』マジノ線とは根本的に違った。
鉄道による『圧倒的な機動力』と、ナポレオンの『完璧な兵站ロジック』が組み合わさった、常に動き続け、敵の弱点を自動的に迎撃する『生きた防衛線』の図面だったのだ。
「……狂っている」
図面を見たナポレオンが、震える手で額を押さえながらも、歓喜の笑みを抑えきれずに唸った。
「こんなものが国境に完成すれば……敵国の軍隊は、国境を越えた瞬間に、時速数十キロで迫り来る大砲の壁に轢き殺されることになる。……戦術という概念が、文字通り物理で粉砕される……!」
「最高じゃない!! ルイ、すぐに詳細な設計をスミートンと進めて!!
ジャンヌ、予算の枠はいくらでも用意しなさい! ナポレオン、この機動要塞群を運用するための『専用防衛部隊』の編成を急いで!!」
「「「ハッ!!!」」」
深夜のチュイルリー宮殿。
アメリカという新興国の見えざる裏切りと、冷徹な国際社会の現実を前にして。
マリー・アントワネットと天才アベンジャーズたちは、絶望するどころか、むしろ「他国への幻想」を捨て去り、己の国を『絶対に触れてはならない針鼠』へと改造するための、極大の軍事プロジェクトを始動させた。
冷たい同盟の果てに、真の平和を手に入れるための戦い。
フランス絶対防衛戦線——狂気の装甲列車ネットワーク計画が、今、高らかな産声を上げたのである。




