第184話 星条旗と白百合の祝杯
1783年、秋。
ヨーロッパの歴史、いや、世界の歴史において重要な意味を持つ一つの条約が、パリの地で結ばれた。
パリ条約。
それは、長きにわたる血みどろの独立戦争の末に、超大国イギリスが正式に「アメリカ合衆国」という新たな国家の独立を承認した、歴史的な講和条約である。
そして、この新興国の独立を決定づけた最大の要因は、間違いなく我が国——フランスの資金援助と、海軍・陸軍の直接的な軍事介入であった。
史実のフランスは、このアメリカ独立戦争への過剰な支援によって国家財政が破綻し、それがフランス革命を引き起こす最大の引き金となった。
……だが、今のフランスは違う。
国庫は破綻するどころか、過去最高の黒字を叩き出していたのだ。
その日の午後。
パリの中心にそびえるチュイルリー宮殿の、最も豪奢な謁見の間。
「……国王陛下、ならびに王妃殿下。我が国は、フランスの流してくれた尊い血と、多大なるご支援を永遠に忘れません。あなた方こそが、アメリカという新たな自由の国を産み落とした『偉大なる父母』です」
深々と頭を下げたのは、アメリカ側の全権大使としてパリに滞在していた、ベンジャミン・フランクリンであった。
丸眼鏡の奥に知性を光らせるこの老外交官は、避雷針の発明者としても知られる科学者でもある。
「頭を上げてください、フランクリン特使」
玉座に座るルイが、優しく微笑んで応じた。
「自由を勝ち取るためのあなた方の戦いは、本当に見事でした。それに、あなたが書いた電気と雷に関する論文、あれは実に素晴らしい! 実は僕も、『蒸気』の次は『電気エネルギー』を使って機関を動かす方法を考えているんですよ! 今度ぜひ、アカデミーで議論しましょう!」
「おお……! 国王陛下直々のお誘い、光栄の極みに存じます!」
オタク王と科学者の間に、熱い技術的シナジーの火花が散る。
(ふふっ、相変わらずルイは外交の場でもブレないわね)
私は、扇子で口元を隠しながら、隣の玉座で優雅に微笑んでいた。
「ですが、国王陛下」
フランクリンは、周囲に控えていたフランスの貴族や近衛兵たちをチラリと見回し、少しだけ声を潜めた。
「本日は、条約締結の御礼に上がっただけではございません。……実は、我が国から『どうしてもフランス国王夫妻に直接、感謝を伝えたい』と、お忍びで海を渡ってきた者がおりまして」
「お忍びで?」
ルイが不思議そうに首を傾げた時。
謁見の間の重厚な扉が開き、一人の男が静かに歩みを進めてきた。
華美な貴族の装飾は一切ない、質実剛健な仕立てのコート。
だが、その男が足を踏み入れた瞬間、謁見の間の空気がピンと張り詰めた。
長身で、岩のように頑強な体躯。
深く刻まれた顔のシワには、数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた者の圧倒的な威厳と、揺るぎない信念が宿っている。
(——ッ!?)
その顔を見た瞬間、私の脳内に前世の歴史知識が激しくフラッシュバックした。
アメリカ独立軍・総司令官。
のちのアメリカ合衆国、初代大統領。
(ジョージ・ワシントン……!! 彼が、パリに来ているの!? 史実では、彼は大人になってから一度もアメリカ大陸の外へ出たことはないはずなのに!!)
私の驚愕をよそに、男は玉座の前に進み出ると、軍人としての最高級の敬礼を以て、深く膝をついた。
「……初めましてお目にかかります、フランス国王陛下、王妃殿下。ジョージ・ワシントンと申します。一介の軍人に過ぎぬ身ですが……ヨークタウンでのフランスの支援に報いるため、そして、それを可能にした現在のフランスの真の姿をこの目で確かめるため、大西洋を渡ってまいりました」
低く、地響きのように重厚な声。
ワシントンの圧倒的なオーラに、謁見の間にいたフランスの貴族たちが思わず息を呑む。
だが、その強烈な覇気を前にしても、全く動じない男が一人だけいた。
「……ほう」
私の斜め後ろに控えていた、軍事総司令官——ナポレオン・ボナパルトである。
彼は、ワシントンの一挙手一投足を、まるで獲物を値踏みする鷹のような鋭い目で観察していた。
(あの男……。ただの野戦指揮官ではない。背負っている『国家の質量』が、そこらの王族とは桁違いだ。……あれが、自由という名の新時代を背負う、新しい怪物の姿か)
新大陸の「建国の父」と、旧大陸の「未来の軍神」。
歴史の表舞台で決して交わるはずのなかった二つの巨大な星が、今、このチュイルリー宮殿で密かに視線を交錯させていた。
「よくぞお越しくださいました、ワシントン将軍」
私は、動揺を笑顔の下に隠し、玉座から立ち上がった。
「あなたのような偉大な英雄を歓迎することができ、フランス王室としてこれ以上の喜びはありませんわ」
「もったいないお言葉です、王妃殿下」
ワシントンは、鋭い鷲のような目で私を見上げた。
「アメリカの独立は、決して我々だけの力で成し遂げられたものではありません。ヨークタウンの戦いにおいて、フランス海軍がイギリスの退路を断ち、フランス陸軍が共に血を流してくれなければ、我々は確実に全滅していました。……この御恩は、アメリカ合衆国が存在する限り、決して忘れません」
誠実で、嘘偽りのない感謝の言葉。
フランクリンもまた、「両国の友情は永遠です」と深く頷いた。
——だが。
私は、扇子の裏側で、極めて冷酷な「為政者としての計算」を弾き出していた。
(永遠の友情、ね……。美しい言葉だけれど、国家間にそんなものは存在しないわ)
私は知っているのだ。
この数年後、フランス革命という未曾有の混乱に我が国が陥った時、アメリカがどう動くかを。
彼らは「フランスの独立支援には感謝するが、それは『かつてのブルボン王朝』に対してであり、今の革命政府に対してではない」という理屈をつけ、巨額の借金の返済を渋る。
さらには、あれほど血みどろの戦いをしたはずの宿敵イギリスと『ジェイ条約』を結んで経済的に接近し、恩人であるはずのフランスを見捨てて「中立」を宣言するのだ。
そして、両国の関係は極度に悪化し、やがてカリブ海で互いの船を拿捕し合う『疑似戦争』へと突入していく。
(それが、独立したばかりの脆い国を守るための、ワシントンたちの『冷徹な国益の選択』だった。……私は彼らを責める気はないわ。自国の生き残りを最優先にするのは、トップとして当然の義務だもの)
私は、ナポレオンと一瞬だけ視線を交わした。
ナポレオンもまた、懐中時計の蓋を撫でながら、微かに頷いた。彼も、外交の裏にある「冷たい現実」を完全に理解している。
(だからこそ……私たちは、あなたたちの『感謝の言葉』に酔い痴れて、気を緩めるわけにはいかないのよ)
私は、最高に優雅で、そして一片の隙もない完璧な「フランス王妃の笑み」を浮かべた。
「ワシントン将軍。遠路はるばるお越しいただいたのです、堅苦しい挨拶はここまでにして、今夜は盛大な祝宴を開きましょう。……そして明日、あなたを『とっておきの場所』へご案内いたしますわ」
「とっておきの場所、ですか?」
「ええ。我が国が誇る、新しい時代の『力』をご覧いただきたいのです。……建国の父であるあなたの目に、今のフランスがどう映るか、とても興味がありますのよ」
* * *
その日の夜。
チュイルリー宮殿の豪華な晩餐会。
最高級のシャンパンと、ジャンヌが手配した極上のフランス料理がテーブルを彩り、アメリカ使節団をもてなしていた。
「素晴らしい……! アメリカの素朴な食事とは比べ物にならない、これが歴史あるフランス宮廷の味ですか」
ワシントンが、真鯛のポワレを口に運び、感嘆の息を漏らす。
「お口に合って何よりですわ。さあ、今夜は両国の輝かしい未来と、自由のために戦ったすべての者たちに乾杯しましょう!」
私がクリスタルのグラスを掲げると、ワシントンも力強くグラスを合わせた。
「星条旗と、白百合の永遠なる友情に!」
「「「乾杯!!」」」
華やかな音楽と、笑い声が響き渡る祝宴。
しかし、その祝杯の裏側で、ワシントンは鋭い観察眼を光らせていた。
(……おかしい)
ワシントンは、周囲のフランス貴族や役人たちの様子を見て、内心で強い違和感を覚えていた。
(我が国への支援で、フランスの国庫は火の車だと聞いていた。だが、この宮殿には悲壮感が一切ない。いや、それどころか……街へ来る途中で見たパリの市民たちの、あの満ち足りた表情。圧倒的な活気。……一体、この国で何が起きているのだ?)
彼の直感は、戦場で鍛え抜かれた本能的なアラートを鳴らしていた。
目の前で優雅に微笑む、この若き王妃。彼女はただの美しい飾り物ではない。底知れぬ深さと、恐るべき知性を隠し持っている。
翌日。
ワシントンのその違和感は、マリー・アントワネットが案内した「ある場所」で、決定的な『恐怖』へと変わることになる。
同盟国への感謝と、未来への冷徹な警戒。
星条旗と白百合の祝杯は、やがて来る過酷な国家間のサバイバルゲームの、静かなる開幕のゴングに過ぎなかったのである。




