第183話 名もなき英雄の雨
冷たい雨が、花の都パリを音もなく濡らしていた。
チュイルリー宮殿の鉄門。
ずぶ濡れになった十四歳のナポレオンが、重い足取りで帰還した。
「……ナポレオン殿。傘も差さずに、どうされたのですか」
回廊の入り口で、漆黒のコートを着たアーサーが静かな声をかけた。
「アーサー殿……。いや、少し、パリの街並みを見て回っていただけだ。急な雨に降られてね」
ナポレオンは、濡れた軍帽のツバを下げ、表情を隠すようにして誤魔化した。
だが、アーサーの目は誤魔化せない。アーサーは、ナポレオンのわずかな歩幅の狂い、浅い呼吸、そして……雨水とは違う、目元に微かに残る『赤み』を瞬時に看破した。
「……脈拍が乱れ、体温も低下しています。直ちに医務室へ……」
「必要ない。……ただの、風邪だ」
ナポレオンがすれ違おうとした時、アーサーは静かに道を譲り、ポツリと言った。
「……王妃様の私室は、すでに暖炉が焚かれています。冷え切った体には、温かな火と……同じ景色を知る『理解者』が必要です」
ナポレオンは一瞬だけ足を止め、「……感謝する」とだけ言い残し、足早に宮殿の奥へと向かっていった。
一方、その頃。
私は私室の暖炉の前で、貴族名簿と投資家リストをパラパラと捲っていた。
「ベルサイユエクスプレスの大成功で、王室への投資希望者が後を絶たないわね。……あら?」
私は、リストの中にある一つの名前に目を留めた。
【アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵】
鉄道事業に対し、多額の資金を提供してくれた自由主義貴族の一人だ。
私は、その名前を見た瞬間、歴史知識がふと頭をよぎった。
(アレクサンドル・ド・ボアルネ……。たしか、フランス革命で反逆罪を問われ、ギロチンで処刑された貴族ね。そして、残された彼の未亡人こそが……後のナポレオンの最愛の妻、皇后ジョゼフィーヌ)
私は、温かい紅茶のカップを口に運びながら、ぼんやりと思考を巡らせた。
(史実では、未亡人となり死の淵を彷徨った彼女を、若き日のナポレオンが見初めるのよね。……でも、今のフランスにはギロチンも革命もない。ボアルネ子爵はピンピンしているし、投資家として大成功して家族仲良くやっている……)
――カチャン。
カップをソーサーに置いた瞬間、私の背筋に、ゾクリと氷を当てられたような悪寒が走った。
(……待って。革命が起きないということは、ボアルネ子爵は死なない。子爵が死なないということは、彼女は永遠に『ボアルネ子爵夫人』のままだわ)
それは、つまり。
(ナポレオンとジョゼフィーヌは……この世界線では、絶対に結ばれない……!?)
私がその残酷すぎる「歴史のバタフライ・エフェクト」に気づき、愕然と目を見開いた、まさにその時だった。
「……マリー。少し、お時間をいただけますか」
私室の扉が静かに開き、ずぶ濡れのナポレオンが入ってきた。
「ナポレオン!? あなた、その格好……どうしてそんなに濡れているの! 早くタオルを……!」
私が慌てて立ち上がろうとすると、ナポレオンは「構わないでください」と片手で制止した。
そして、床を濡らしながら私の前まで歩み寄ると、静かに口を開いた。
「今日、パリの街で、ある『家族』を見かけました。……夫と妻と、小さな息子。彼らは、それは幸せそうに、お互いを愛し合いながら笑っていました」
「…………!」
私は、手元のリストにある『ボアルネ子爵』の名前と、ナポレオンの言葉がリンクし、心臓がギリッと鷲掴みにされた。
彼は、見たのだ。愛する人が、別の男の隣で、自分がいなくても完璧に幸せになっている姿を。
「……私の記憶にあるその家族は、決してそんなに幸福ではありませんでした。夫は妻を愛さず、妻は孤独に震え……やがて理不尽な暴力によって引き裂かれる運命にあった」
ナポレオンの瞳は、すべてを燃やし尽くした後の灰のように、ひどく虚ろで、そして深く澄み切っていた。
「前世で、私は世継ぎのために彼女を捨てた。どれほど愛していても、皇帝という野望のために彼女を泣かせ、マルメゾン城の孤独の中で死なせてしまった。……だから、これは当然の報いなのです。私が彼女の隣に立つ資格など、最初からなかった」
彼は、自らをあざ笑うかのように、薄く微笑んだ。
「でも、今の彼女は違いました。彼女は、この平和な世界で、最高の笑顔を浮かべて生きている。……感謝します、マリー。あなたが、歴史を変えてくれたおかげだ。あなたがこの国を救ってくれたおかげで……彼女は、絶望の淵に立たされることなく、笑顔のまま生きていける。……本当に、感謝しているんです」
それは、十四歳の少年の言葉ではない。
かつて全ヨーロッパを支配した『皇帝』が、愛する女の永遠の幸福と引き換えに、自らの運命の恋を泥の中に捨てる、究極の自己犠牲の宣言だった。
「……ナポレオン」
私は、両手で口を覆い、ガタガタと震え出した。
なんという残酷な皮肉だろう。
私が自分の首を繋ぐために必死に書き換えた歴史が、何百万人もの命を救ったこの美しい世界が。
結果として、私にとって最強の味方であり、最も頼りになる彼の、たった一つの運命の光を、完全に消し去ってしまったのだ。
彼は、そのことに気づいた上で。
私を恨むどころか、愛する女性の幸福を守ってくれたと、私に頭を下げているのだ。
(……そんなの。そんなの、あまりにも……っ)
私は、自分が羽織っていた温かいカシミアのショールを乱暴に床へ脱ぎ捨てると、ずぶ濡れのナポレオンの元へ駆け寄り、彼の小さな体を、両腕で思い切り強く抱きしめた。
「……っ!? マ、マリー……! いけません、私は濡れています!」
「黙りなさい!!」
私は、彼の言葉を怒鳴り声で遮った。
「……バカ。……大バカよ、あなたは」
「マリー……?」
「報いなんかじゃないわ……っ! 前世のあなたが何をしたか知らないけど、誰よりも彼女を愛していたのはあなたじゃない! セントヘレナの孤島で、死ぬ間際まで彼女の名前を呼んで泣いていたくせに……っ!」
私の目から、ポロポロととめどなく涙がこぼれ落ち、彼の濡れた軍服を濡らした。
「感謝なんて、しないでよ……! 私は、自分の命を救うために必死だっただけ。あなたの『一番大切な人』の運命まで奪ってしまうなんて、思ってもみなかった……っ。ごめんなさい……私のせいで……ごめんなさい……っ!!」
私は、ナポレオンの背中に腕を回し、子供のように声を上げて泣き崩れた。
歴史を変えるって、こういうことなのだ。
悲劇を消し去る代わりに、誰かの『運命の出会い』すらも、容赦なく消し飛ばしてしまう。
彼は、世界を救うために、自分の『一番欲しかったもの』を永遠に失ってしまった。
「……泣かないでください、マリー」
ナポレオンは、私の腕の中で、少しだけ戸惑いながらも、その小さな手で私の背中を不器用にポンポンと叩いた。
「あなたが謝ることは何もない。……彼女が、夫と子供の隣で笑っている。その事実だけで、私の魂は救われました。過去の私が、どれほど権力を手に入れても、決して彼女に与えてやれなかった『平穏な幸福』を……この世界の私は、間接的にではあるが、プレゼントすることができたのだから」
彼は、ひどく穏やかな声で紡いだ。
けれど、その声は微かに震えていた。
「……ただ。ほんの少しだけ。本当に、ほんの少しだけ」
ナポレオンの両手が、私の背中のドレスをギュッと強く握りしめた。
「もう一度だけ、彼女を抱きしめたかった。……もう一度だけ、私のローズだと……呼びたかった……っ」
――ああっ。
その言葉とともに、彼の中でギリギリのところで張り詰めていた「皇帝の鎧」が、音を立てて崩れ落ちた。
「あぁぁっ……うあぁぁぁぁぁぁっ……!!」
十四歳の少年は、私の腕の中で、ついに声を上げて泣きじゃくった。
それは、世界を征服した皇帝の顔ではない。愛する女性を永遠に失い、その喪失感を誰にも言えずに一人で抱え込んでいた、ただの一人の不器用な男の、血を吐くような慟哭だった。
この世界で、彼の喪失感の『本当の意味』を理解できるのは、同じように歴史の知識を持つ私だけだ。
「……泣いていいのよ。今は、全部吐き出しなさい」
暖炉の火が、パチパチとはぜる。
私は母親のように、そして同じ十字架を背負う戦友として、この気高き敗北者を、ただただ強く、強く抱きしめ続けた。
彼が流す涙の冷たさと、その奥にある魂の熱さを、私は生涯忘れることはないだろう。
* * *
数日後。
長雨が上がり、パリの街に透き通るような青空が広がった朝。
「……マリー。新しいインフラ計画の最終案です」
執務室に現れたナポレオンは、いつものようにピシッとした軍服を身に纏い、完全に「いつもの彼」に戻っていた。
いや、以前よりもさらに鋭く、迷いのない強靭な眼光がその瞳に宿っている。
「見せてちょうだい。……えっ?」
私は、彼が広げた図面を見て、目を丸くした。
「これは……鉄道網の計画じゃないわ。要塞化の設計図?」
「はい。鉄道網による国内物流の最適化は、すでに軌道に乗りました。次なるフェーズは、この豊かになったフランスを『外敵から防衛する』ための、国家インフラの構築です」
ナポレオンは、指揮棒でフランスの国境線と海岸線を力強く叩いた。
「イギリス海軍の艦砲射撃を無効化するための『水硬性セメントによる沿岸要塞群』。および、プロイセンやオーストリアの侵攻を水際で防ぐための『国境防衛用・重装甲列車』の開発計画です」
「装甲、列車……!?」
隣で聞いていたルイが、オタクの血を騒がせて身を乗り出した。
「そうです、陛下。機関車に装甲板を取り付け、大砲を搭載する。これを国境沿いの路線に常時巡回させれば、歩兵の何十倍もの機動力を持つ『移動する無敵の城』となります」
ナポレオンは、不敵な笑みを浮かべて私たちを見渡した。
「……私たちは、この国から悲劇を消し去った。ならば、二度とこの国を戦火に巻き込むわけにはいきません。イギリスだろうがプロイセンだろうが、この美しいフランスの地を、そして……平和に笑い合う『すべての市民の日常』を脅かす外敵は、私がこのインフラと砲火をもって、粉砕してみせます」
彼の言葉には、もはや過去への未練は一切なかった。
愛する女性との未来を永遠に手放し、未練を雨のパリに置いてきた彼は。
彼女の生きるこの美しい世界そのものを、誰にも傷つけさせない「最強の盾」となることを、自らの新たな『運命』として選択したのだ。
「……ええ。素晴らしい計画よ、ナポレオン」
私は、頬に伝わりそうになる涙をグッと堪え、誇らしげに微笑んで扇子をパチンと鳴らした。
「さあ、みんな! 次なる戦いの舞台は、いよいよ世界よ! 私たちの愛するフランスを、誰の手も届かない『最強の超大国』へと進化させてやりましょう!!」
「「「おおおおおおおっ!!!」」」
執務室に、熱狂的な歓声が響き渡る。
マリー・アントワネット、27歳。
名もなき英雄の雨と涙を分かち合い、最強の守護神へと覚醒したナポレオンと共に。
私たちの国家改造プロジェクトは、内政の安定を完全に成し遂げ、いよいよ列強諸国との壮絶なインフラ・ディフェンス戦争へと、その歩みを進めていくのである。




