第182話 すれ違う運命
パリとベルサイユを結ぶ「ベルサイユ・エクスプレス」の開通は、単なる一つのインフラ整備にとどまらず、フランス全土に強烈な近代化の波紋を広げていた。
「……というわけで、第一期路線の収益と鉄道債の配当は完全に安定の軌道に乗りました。次なるフェーズとして、北部の工業都市リールへ向かう『第一縦貫線』、そして南部の港町マルセイユを目指す『地中海ライン』の順次着工を提案します」
チュイルリー宮殿の作戦会議室。
巨大なフランス全図の前で、指揮棒を片手に完璧なプレゼンテーションを行っているのは、王室特別顧問のナポレオン・ボナパルトだった。
出会った時は十歳だった彼も、今や十四歳の少年へと成長している。
背丈こそまだ小柄なままだが、その瞳に宿る覇気と、組織運営における冷徹なまでの合理性は、もはや一国の宰相すら凌駕する凄みを持っていた。
「資材の調達ルートはすでに王立鉄道公社が掌握しています。スミートン先生の土木チームを三つの工区に分割し、同時に敷設を進めれば、わずか五年のうちにフランスの主要都市はすべて『鉄の絆』で結ばれるでしょう」
「素晴らしいわ、ナポレオン。あなたの描く物流の青写真は、いつ見ても芸術的ね」
私が拍手を送ると、ナポレオンは静かに一礼した。
「……軍隊も国家も、要は『補給』と『機動力』です。血管が太く、血流が速ければ、どんな邪も跳ね返せる。……私の『前世の失敗』から得た教訓の、これが集大成ですから」
彼は小さく自嘲するように笑った。
前世でフランス皇帝としてヨーロッパ全土を支配し、そして雪のロシアで最悪の敗北を喫した男。その記憶を持つからこそ、彼の紡ぎ出すインフラ計画には一切の隙がなく、何よりも「人命と物資を無駄にしない」という血の通った合理性が貫かれていた。
「よし、ナポレオンの案で決まりだ! 僕もすぐに、長距離用の大型機関車の設計に取り掛かるぞ!」
「資金調達は私にお任せを! 新規路線の鉄道債も、パリの商人たちが今か今かと待ちわびておりますわ!」
ルイと、ジャンヌが歓声を上げ、次の巨大プロジェクトへのゴーサインが出された。
「……それでは、私は新路線の測量手配と、資材調達の調整がありますので、本日はこれで失礼します」
会議を終えたナポレオンは、軍帽を被り直すと、一人で静かに執務室を後にした。
「……最近のナポレオン、ますます大人びてきたわね」
窓から、宮殿の庭を横切ってパリの街へと向かう彼の小さな背中を見下ろしながら、私はふと呟いた。
「ええ。仕事ぶりは完璧ですが、十四歳の少年が背負うには、少しばかり重みが大きすぎるのかもしれません」
アーサーが、珍しく人間らしい気遣いを見せて言った。
ナポレオン・ボナパルト、十四歳。
彼がどれほどの知識と才能を持っていようと、その内側に抱え込んでいるトラウマを埋めることは誰にもできない。
彼がこの後、パリの街角で、自らの魂を切り裂くほどの『残酷な運命』と対峙することになるなど、この時の私には知る由もなかった。
* * *
(……驚くべき速度だ。街が、まるで一つの生き物のように進化している)
チュイルリー宮殿を出たナポレオンは、護衛もつけずに一人、パリの中心部を歩いていた。
美しく平らに舗装された道路。整備された地下下水道。広場には清潔な水が湧き出る噴水があり、行き交う市民たちの顔には、かつて彼が知っていた「革命前夜の飢えと絶望」は微塵もなかった。
前世の記憶にあるパリは、泥と汚物と血の匂いが染み付いた、暴力と恐怖の都だった。
ギロチンが毎日休みなく落ち、密告が横行し、誰もが疑心暗鬼に陥っていた恐怖政治の時代。そこから軍事力と砲火によって強引に秩序を打ち立てたのが、かつての彼、皇帝ナポレオンだったのだ。
(だが、今のこの街にはギロチンの影さえない。血を一滴も流さず、マリーは資本主義とインフラの力だけで、この国を根底から救ってしまった……)
ナポレオンは、自分が構築に携わった平和で豊かな街並みを見渡し、静かな誇りと、そして言いようのない『空虚さ』を感じていた。
戦いがない。軍事の天才である自分が、大砲を撃つ必要がない世界。それは望んだことのはずなのに、時折、自分の存在意義がひどく不確かに感じられることがあった。
頭の奥が、ガンガンと熱を帯びて痛む。呼吸をするたびに、胸の奥を冷たい隙間風が吹き抜けていくような感覚。
(……私は、一体誰なんだろうな。この平和な世界で、何のために生きている?)
十四歳の少年の体の中に閉じ込められた、老成した皇帝の魂。
誰とも共有できない圧倒的な孤独を抱えながら、彼がモンテーニュ通り近くの、新しくできた上品なカフェの前を通り過ぎようとした、その時だった。
「あーっ! 待って、僕の汽車!!」
背後から、幼い男の子の甲高い声が響いた。
振り返るよりも早く、木製の小さな「蒸気機関車のおもちゃ」が、コロコロと石畳を転がり、ナポレオンの磨かれた黒いブーツの先端にコツンとぶつかって止まった。
「…………」
ナポレオンは、足元のおもちゃを見下ろした。
それは、彼がルイ16世と共に設計し、つい先日開通したばかりの『ベルサイユ・エクスプレス』を模した、パリの子供たちに大人気の最新の玩具だった。
「ごめんなさい、お兄ちゃん!」
タタタッ、と小さな足音を立てて、二歳を過ぎたばかりの金髪の男の子がナポレオンの足元へ駆け寄ってきた。
ナポレオンはゆっくりと膝をつき、木製の機関車を拾い上げた。
「ほら、君の汽車だ。……大事にするんだぞ」
「ありがとう、兵隊さん!」
少年が満面の笑みでおもちゃを受け取った、その時だった。
「ウジェーヌ! 急に走り出したりしてはダメよ。転んでお洋服が汚れてしまうわ」
ふわりと。
ナポレオンの鼻腔を、甘く懐かしい、バニラとスミレの花を混ぜ合わせたような香りがくすぐった。甘く、少しだけ舌足らずな、南国の訛りを含んだフランス語。
――ドクンッ。
その声を聞いた瞬間。
ナポレオンの心臓が、肋骨を突き破らんばかりに激しく跳ね上がった。
呼吸が止まる。視界が、一瞬にして真っ白に染まる。
忘れるはずがない。忘れることができるはずがない。どんなに遠く離れていても、どんなに時代を隔てていようとも、彼の魂がその声の響きを、その香りを記憶している。
ナポレオンが弾かれたように顔を上げると、そこには、少し息を切らした一人の美しい女性が立っていた。
秋の柔らかな陽射しの中、最新流行のドレスに身を包み、亜麻色の豊かな髪を揺らす彼女。優雅でしなやかな身のこなし。そして、誰をも魅了する、あの甘くアンニュイな微笑み。
「……ローズ……」
ナポレオンの唇から、無意識にその名前が零れ落ちた。
ローズ。
カリブ海のマルティニーク島で生まれた植民地生まれのフランス人。
のちに彼自身が『ジョゼフィーヌ』という新しい名を与え、フランス帝国の初代皇后として共に戴冠式に臨み、彼が生涯でただ一人、魂を狂わせるほど愛した女性。
「ごめんなさいね。この子ったら、最近開通した『鉄の馬』に夢中で……」
彼女は、ナポレオンの目を見て、柔らかく、そして全てを包み込むような甘い微笑みを浮かべた。
――ああっ。
その瞬間、ナポレオンの内側で必死に築き上げていた理性の堤防が、音を立てて決壊しそうになった。前世の記憶が、濁流のように彼の脳内へと流れ込んでくる。
『君を愛している。狂おしいほどに。私を君の胸の中で死なせてくれ』
イタリア遠征の過酷な戦場から、彼が血の滲むような思いで彼女に書き送った、無数の熱烈な恋文。
ノートルダム大聖堂での戴冠式。皇帝となった彼が、彼女の頭に誇り高く王冠を授けた、あの栄光の瞬間。
彼女の不貞に泣き狂い、それでも決して彼女を嫌いになれず、ベッドの横で許しを乞うた情けない夜。
そして……跡継ぎが生まれないというただそれだけの理由で、政治のために最も愛する女を切り捨てた、冷たく残酷な離縁の日。
『私の運命は、私の意志に勝るのだ。……すまない、ジョゼフィーヌ』
涙に暮れてマルメゾン城へと去っていった彼女の背中を、彼は何度夢に見て、何度後悔の血の涙を流したことか。セントヘレナ島に流刑となり、孤独の中で息を引き取る瞬間まで、彼の口を突いて出た最後の言葉は「フランス、軍隊……ジョゼフィーヌ」だった。
(ジョゼフィーヌ……! 私だ、ナポレオンだ! 今度こそ……今度こそ、何があっても君を手放したりはしない……!)
狂おしいほどの愛情と、前世の贖罪の念が彼を突き動かす。
至近距離で聞く彼女の声、彼女の瞳。それは、前世で彼が毎晩抱きしめ、そして自らの手で捨て去ってしまった「愛する妻」そのものだった。抱きしめたい。今すぐ、私のローズだと叫んで、この腕の中に閉じ込めたい。
彼は、涙を拭うことすら忘れ、無我夢中で彼女へ向けて一歩を踏み出した。
だが、彼を現実に引き戻したのは、穏やかで気品のある青年の声だった。
「すまないね、少年。我が息子が迷惑をかけた」
ふいに、ローズの背後から、豪奢な貴族の外套を羽織った長身の青年が歩み出てきて、彼女の肩を親しげに抱き寄せた。
「ありがとう、アレクサンドル。……さあウジェーヌ、パパのところへ行きなさい」
「パパー!」
小さなウジェーヌが、青年の足元に嬉しそうに抱きつく。
青年――アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵は、息子を抱き上げ、妻である彼女の頬に愛おしそうに口づけをした。
「…………あ」
踏み出しかけたナポレオンの足が、冷たい石畳の上に完全に凍りついたように止まった。
血の気が引いていく。ナポレオンの頭の中で、「状況の計算」が、信じられないほどの冷酷さで弾き出された。
正史において、彼がジョゼフィーヌと出会ったのは、フランス革命の恐怖政治が終わった後のことだ。
彼女の夫であったアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵は、家柄を重んじる傲慢な男で、田舎育ちの妻を恥じて愛人を囲い、夫婦関係は完全に破綻していた。そして革命の動乱の中で反逆の疑いをかけられ、ギロチンで処刑された。
未亡人となり、自らも投獄され、死の淵を彷徨いながらも生き延びた彼女の前に現れたのが、若き日のナポレオンだったのだ。
彼女がナポレオンの妻になったのは、『夫がギロチンで死んだから』だ。
だが、今のこの世界はどうだ。
彼とマリー・アントワネットが、徹底的なインフラ整備と経済改革を行ったおかげで、フランスから「革命の火種」は消滅した。
貧困はない。暴動もない。
ということは当然、革命裁判所もギロチンも存在しない。経済的な余裕と平穏な社会が、史実では破綻していたはずのボアルネ夫妻の仲を、穏やかな愛情で結び直してしまったのだ。
(……ボアルネ子爵は、死なない)
ナポレオンは、ガクガクと震える手で自らの顔を覆いそうになるのを必死に堪えた。
ギロチンが落ちないこの平和な世界では、アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵は処刑されることなく、生涯を全うする。
つまり、ジョゼフィーヌは永遠に「ボアルネ子爵夫人」であり続けるのだ。
彼女が未亡人になる未来は、この世界線には存在しない。彼が入り込む隙間など、一ミリたりとも残されていない。
「服装を見ると……兵学校の生徒か。その若さでパリに出入りしているとは、よほど優秀と見える」
アレクサンドルは、冷酷なモラハラ夫の面影はなく、妻と子を深く愛する「良き父親」の顔で、ナポレオンの制服の襟章を見て興味深そうに目を細めた。
「私は、アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵。こっちは妻のローズと、息子のウジェーヌだ。君の名前は?」
夫からの、極めて紳士的な名乗り。
ナポレオンは、胸の奥で荒れ狂う暴風雨のような感情を、押さえ込み、ゆっくりと立ち上がって美しい敬礼をしてみせた。
「……お初にお目にかかります、子爵閣下。私は、ブリエンヌ兵学校所属、ナポレオン・ボナパルト士官候補生です」
すでに兵学校所属でもなけば、士官候補生でもないが、彼は咄嗟に嘘をついた。
「ナポレオン……ボナパルト。ふふっ、なんだかとても強そうで、素敵な響きのお名前ね」
ローズが、鈴を転がすような声で彼の名前を反芻した。
前世で、彼女がベッドの中で何度も何度も甘く囁いてくれたその名前を、今は「初めて出会った見知らぬ少年」に対する愛想の良い挨拶として口にしている。
その無自覚な残酷さが、ナポレオンの心を千々に切り裂いた。
「ボナパルト君か。覚えておこう」
アレクサンドルは微笑みながらウジェーヌの頭を撫でた。
「君も未来の将校なら、この国の劇的な変化を感じているだろう? ……数年前まで、この国は破産寸前で、飢えた民衆の怒りがいつ爆発してもおかしくない最悪の状態だった。私も、貴族という身分を捨ててでも、国を変えるための『過激な革命』が必要だとすら考えていたよ」
アレクサンドルの言葉に、ナポレオンはハッとした。
そうだ。この男は、前世において革命軍の将軍として戦い、国民議会の議長まで務めた生粋の「自由主義者」だった。彼がギロチンにかけられたのは、皮肉にもその急進的すぎる理想が、さらに過激なテロリストたちの標的になったからだ。
「だが、今は違う」
アレクサンドルは、モンテーニュ通りの美しい街並みと、平和に行き交う市民たちを見渡し、心の底からの安堵の息を吐いた。
「マリー・アントワネット王妃殿下と、その裏で国家の舵取りをしている『見えざる天才たち』のおかげだ。彼らは、血を一滴も流すことなく、インフラと経済の力でこの国を救ってしまった。……おかげで、私は狂気に満ちた戦場や血で血を洗う政治闘争に身を投じることなく、こうして愛する妻と子供と共に、平和な昼下がりを過ごすことができる。……この奇跡のような時代を創ってくれた者たちに、私は心から感謝しているんだ」
ボアルネ子爵は、ローズと見つめ合い、優しく、そして心から愛おしそうに微笑み合った。
――ガツン、と。
ナポレオンの頭を、目に見えない巨大なハンマーが殴りつけた。
(……そうか)
アレクサンドルは知らない。
彼が今、心から感謝を捧げた『見えざる天才』の一人が、目の前に立っている十四歳の少年であることを。
そして、ナポレオン自身も、今この瞬間、はっきりと理解した。
自分がマリーに協力し、必死になって設計した鉄道網。徹夜で計算した兵站。国家を富ませるための数々のインフラ事業。
それらのすべてが、めぐりめぐって「ギロチンを消滅」させ、目の前にいるアレクサンドルの命を救い、そして……最愛のジョゼフィーヌの「永遠の幸福」を完璧なものにしてしまったのだということを。
(私が……私がこの国の革命を潰し、平和を創ったから。君から『不幸』をすべて奪い去った。だから君はもう、孤独に震えながら、未亡人として私の腕の中に逃げ込んでくる必要がないんだ……!)
残酷すぎるパラドックス。
世界を救うということは、自らの最愛の女との出会いを永遠に抹消するということ。
もし自分がここで声をかけ、前世の記憶を語ったところで、それは狂人の戯言でしかない。仮に権力を使って無理やり彼女を奪ったとしても、それは彼女の今の「本物の幸せ」を破壊し、前世と同じ悲劇を繰り返すだけだ。
絶望と。身を切られるような喪失感と。
そしてそれを遥かに上回る、歪で、途方もない愛の達成感。
(君が……ギロチンの恐怖に怯えることもなく。愛する子供たちと、平和な時代で笑顔のまま生きていけるのなら。……私のちっぽけな恋心など、いくらでも泥の中に捨ててやる……!)
それは、かつて全ヨーロッパを自らのエゴと野望で焼き尽くした男が初めて見せた、極限の「自己犠牲」であった。
「……ええ、子爵閣下。全くもって、素晴らしい時代です」
ナポレオンは、顔を上げ、十四歳の少年とは思えないほど深く、静かな声で言った。噛み締めた唇の端から、一筋の血が滲んでいた。
「血を流さず、誰も断頭台へ送られることなく、家族が共に笑い合える。……軍人として、これほど護りがいのある国は他にありません。あなた方のような平和な市民の日常こそが、我々が命を懸けて護るべき宝なのですから」
「……ボナパルト君」
アレクサンドルが、少年のあまりにも達観した言葉に、驚きと深い感銘を受けて目を見開いた。
「素晴らしい覚悟だ。君のような立派な若者がいる限り、フランスの未来は安泰だな。……どうか、立派な将校になってくれ」
「はっ」
ナポレオンが再び鋭い敬礼をすると、ボアルネ一家は満足そうに微笑み、待たせてあった馬車へと歩き出した。
だが、馬車に乗り込む直前。
ローズだけが、ふと立ち止まり、振り返ってナポレオンの方を見つめた。
「……ボナパルト君」
「はい、マダム」
ローズは、少しだけ不思議そうな、そして酷く慈しむような瞳で、彼を見つめた。
「あなたの瞳……とても大人びていて、立派だけれど。……でも、どうしてかしら。どこか、酷く悲しそうに見えるわ」
「え……」
「世界のために戦うのも立派だけれど、どうか、あなた自身の幸福も忘れないでね。……あなたにも、いつか心から愛する人が見つかって、優しく温かい未来が訪れますように。神に祈っているわ」
――ああ。
それは、彼が前世で皇帝の座を追われ、孤島へ流されると決まった時。
すでに離縁していた彼女が、こっそりと彼に宛てて送ってくれた最後の手紙に書かれていた言葉と、全く同じ祈りだった。
(……君は、どんな時代でも、誰の妻であっても。本当に、優しくて、愚かなほどに慈悲深い……私の、たった一人の女神だ)
ナポレオンは、もう限界だった。
彼は軍帽を深く被り直し、顔を隠して、深く、深く一礼した。
「……もったいないお言葉です。マダム・ボアルネ」
ナポレオンは、震える声の輪郭を必死に抑え込み、自らの魂を削り出すような思いで、最後の言葉を紡いだ。
「あなたのその微笑みが、このフランスの地で永遠に曇らぬよう。……私が、必ず、この国を護り抜いてみせましょう」
――さようなら。私の、永遠の皇后。
ナポレオンの心の中の、誰にも届かない決別の言葉。
ローズは、彼の言葉にパッと花が咲いたような美しい笑みを浮かべると、「ありがとう」と優しく囁き、夫と子供の待つ馬車へと乗り込んでいった。
カポッ、カポッという蹄の音が遠ざかっていく。
ナポレオンは、馬車が完全に見えなくなるまで、その場から一歩も動けなかった。
ポツリ、と。
冷たい雨が、パリの石畳を濡らし始めた。
雨は次第に強くなり、周囲の市民たちが慌てて雨宿りの場所へと駆け出していく中、ナポレオンだけは一人、雨の中に立ち尽くしていた。
「……あぁ……っ」
軍帽から滴り落ちる雨水に紛れて、彼の目から、堪えきれなかった大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
それは、ただの失恋の涙ではない。
愛する女性の幸福を、誰の手でもない「自らの手」で完成させてしまったという途方もない喪失感と、そして皇帝としての究極の『誇り』の涙であった。
雨の中。
十四歳の少年は、空を見上げ、音のない声で咆哮した。
このもどかしくも気高い『皇帝の涙』を知る者は、雨に濡れるパリの石畳の他には、誰一人としていなかった。




