第179話 鋼の巨獣
チュイルリー宮殿の医務室。
清潔なリネンのベッドの上で、国王ルイ16世は重い瞼をゆっくりと開けた。
「……ここは……」
「気がつかれましたか、陛下。過労による極度の疲労と、高熱です。丸二日間、意識を失っておられましたよ」
ベッドの傍らで、主治医のサンソン先生が安堵の息を吐きながら、冷やしたタオルをルイの額に乗せた。
「二日間……!? まさか、そんなに寝ていたのか!」
ルイはバネで弾かれたように跳ね起きた。
「ダメだ、こんな所で寝ている暇なんてない! 機関車のボイラーの圧力弁がまだ完成していないんだ! 僕が行って、研磨をやり直さないと……!」
「安静になさってください! 今のあなたのお体では、ハンマーを握ることすら……」
サンソン先生の制止を振り切り、ルイは作業着を引っ掴むと、ふらつく足取りで医務室を飛び出した。
(……僕がやらなきゃ。アントワネットが暴動を鎮め、みんなが道を作ってくれたのに、僕が心臓部を作れなかったら、すべてが嘘になってしまう!)
焦燥感と、己の不甲斐なさへの絶望。
彼は昔からそうだった。宮殿の冷たい人間関係から逃れるように、一人で地下の工房に引きこもり、誰とも言葉を交わさずに錠前を作り続ける「孤独なオタク」。
歴史を変えるほどの大きなプロジェクトを動かしていても、最後は「自分一人で完結させなければならない」という強迫観念が、彼の魂を鎖で縛り付けていた。
フラフラになりながら、地下の特別工房へと続く階段を転がり降りる。
「……ん?」
工房の分厚い鉄扉に近づいた時、ルイは異変に気がついた。
自分が倒れ、主を失って静まり返っているはずの工房の中から、凄まじい熱気と、ガンッ! ガンッ! という激しい金属の打撃音、そして大勢の人間の怒号が聞こえてきたのだ。
「まさか……! また馬車組合の工作員が、機関車を破壊しにきたのか!?」
ルイは血相を変え、近くにあった鉄パイプを握りしめ、工房の扉を勢いよく蹴り開けた。
「やめろォォォッ!! 僕の機関車に触るな……!!」
だが。
鉄パイプを振り上げて飛び込んだオタク王の目に飛び込んできたのは、予想だにしない、あまりにも非日常的な光景だった。
「——おお! お目覚めですか、国王陛下!」
振り返ったのは、ツイードのコートを脱ぎ捨て、サスペンダー姿で汗だくになったイギリスの土木王、ジョン・スミートンだった。
「スミートン先生!? なぜあなたがここに……!」
「遅いですよ、陛下。あなたが倒れている間に、車輪のサスペンション機構の図面を、大英帝国式に『再設計』させていただきました」
スミートンは、巨大な鋼鉄の板バネを指差した。
「鉄の弾性と重力のバランスが取れないと悩んでおられましたな? ならば、複数の鉄板を重ねて衝撃を分散・吸収する『重ね板バネ(リーフスプリング)』を使えばいい! 財務長官殿がロレーヌから持ち帰った『最高品質の鋼鉄』ならば、強烈な弾力を持つバネになります。これと私の開発したジョイント合金を組み合わせれば、どんな段差でも車体は安定しますぞ!」
「かさね……板バネ……! ロレーヌの鉄をそんな風に使うなんて、その発想はなかった……!!」
ルイが驚愕していると、今度は巨大な黒板の前で、チョークの粉にまみれながら数式を書き殴っている男が振り返った。
「……あなたの設計図は、あまりにも力技に頼りすぎていましたよ、陛下」
銀縁眼鏡を光らせた天才数学者、ピエール=シモン・ラプラスである。
「高圧の蒸気を閉じ込めるために、ただ鉄を分厚くしようとしていたでしょう。それでは重量が増しすぎて走れません。……私が、熱力学と流体力学の偏微分方程式を用いて、ボイラー内部の『圧力分散の最適解』を弾き出しておきました。
この数式通りに曲面を成形すれば、鉄の厚みをこれまでの半分に減らしても、爆発の危険性はゼロになります」
「て、鉄の厚みを半分に……!?」
「さあ野郎ども! ラプラスの旦那の計算通りに、鉄板を叩き曲げろ!!」
「おうっ!! 任せとけ!!」
工房の奥から響き渡る野太い声。
そこには、地下トンネルの敷設工事を終えたばかりのジャンやカトリーヌたち、数百人の『鉄道アベンジャーズ』の労働者たちが、上半身裸になってハンマーを振り下ろし、赤熱するロレーヌの鉄板を見事な連携で加工していた。
「み、みんな……! どうして……」
「陛下、お気になさらず。部品の材料と燃料は、我が兵站部隊が途切れることなく15分おきに搬入しております。……あなたはただ、指揮を執るだけでいい」
工房の入り口で、ナポレオンがストップウォッチ片手に、次々と部品を運び込む近衛兵たちを統率している。
「ちょ、ちょっと待ってくださいな! 特注のジョイント合金だの、板バネだの、予算の枠を大幅に超えていますわよ! 今回ばかりは赤字……いや、初期投資として減価償却でギリギリ……ああっ、もう! 特別決裁のハンコを押しますわ!!」
部屋の隅では、ジャンヌが分厚い帳簿と格闘しながら、ソロバンを弾いて怒りの悲鳴を上げている。
そして——極めつけは。
「プァァァァァ〜〜〜ン♪ プォォォォ〜〜〜ン♪」
真鍮で作られた太さの違う複数のパイプを並べ、それに蒸気を吹き込んで、奇妙な音階テストを行っている派手なコートの男がいた。
「モ、モーツァルト君!? 君まで何をやっているんだ!」
「アハハ! やあ陛下! 巨大な鉄のバケモノが走り出したら、パリの市民が怖がっちゃうでしょう? だから僕が、この機関車の『声(汽笛)』を、最高にハッピーな和音に調律しているんですよ!」
モーツァルトは、ウインクをして真鍮のパイプを叩いた。
「単なる威嚇のブザーじゃダメです! ド・ミ・ソの美しい長三和音が鳴り響く『スチーム・ホーン』! これなら、市民は恐怖どころか、踊り出したくなりますよ!!」
土木、数学、労働力、兵站、経済、そして音楽。
フランスが誇る各分野の天才たちの知識と力が、今、一つの巨大な「機関車」を完成させるために、この地下工房に奇跡的な集結を果たしていたのだ。
「……どうして……。どうして、みんな……」
理解が追いつかず、呆然と立ち尽くすルイ。
その背後から、コツコツという軽い足音が近づいてきた。
「……あなたが一人で、すべてを抱え込もうとするからよ、ルイ」
振り向くと、そこには油で汚れたエプロン姿のマリー・アントワネットが、誇らしげな笑みを浮かべて立っていた。
「ア、アントワネット……。君が、みんなを呼んだのか?」
「ええ。あなたが倒れた時、私は気づいたの。あなたは、国を背負う立派な王になった。でも、根っこの部分はまだ『一人で鍵を作っていた、あの頃の孤独な少年のまま』だったんだって」
私は、彼の泥だらけの手を、両手でしっかりと握りしめた。
「いい、ルイ。あなたはもう、暗い部屋で一人で悩む必要なんてないの。
周りを見てごらんなさい。あなたには、こんなにも頼もしい仲間たちがいる。あなたの描いた夢の図面を、現実の形にしてくれる最高のチームがあるのよ!」
ルイは、ハッとして周囲を見渡した。
イギリス人のスミートンと、フランス人のラプラスが、国境を超えて図面の数式を熱く議論している。
平民であるジャンたち労働者が、国王の作る機械のために、汗だくになってハンマーを振るっている。
誰もが、ルイの描いた「鉄の馬」という夢に魅せられ、それを完成させるために、自らの持てるすべての力を注ぎ込んでいた。
「……王様!」
ジャンが、赤熱した鉄を鍛えながら、ニカッと笑って叫んだ。
「俺たちが、地下をぶち抜いて完璧なレールを敷いてやったんだ! ロレーヌの鉄も山ほどある! あとは、アンタがその上に乗っかる『最高の心臓』を完成させるだけだ!……さあ、現場監督! 指示を出してくれ!!」
「……っ!」
その瞬間。
ルイの胸を塞いでいた重く冷たいプレッシャーの鎖が、音を立てて砕け散った。
彼はもう、一人ではない。
このフランスという国家を動かす、最強のプロジェクトチームの「チーフ・エンジニア」なのだ。
「……ああっ……! ああ!!」
ルイの目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
彼は油まみれの袖で涙を乱暴に拭い去ると、床に落ちていたゴーグルを拾い上げ、頭にピタリと装着した。
その目には、絶望の色は微塵もない。
かつての、純粋で熱狂的なオタク王の輝きが、何百倍にもなって蘇っていた。
「……みんな!! 聞いてくれ!!」
ルイは、工房の中心に鎮座する黒鋼のフレームの前に立ち、全開のボリュームで叫んだ。
「ラプラス先生の数式を元に、シリンダーの曲面加工を行う! スミートン先生はロレーヌの鋼でサスペンションの組み込みを! ジャン、カトリーヌ、第3ボイラーの溶接を一気に仕上げるぞ!! モーツァルト君は、そのまま最高の和音を追求してくれ!!」
「「「うおおおおおおおおおおっ!!!」」」
オタク王の的確な指示のもと、地下工房はかつてないほどの熱気と統率力に包まれた。
天才たちの理論と、労働者たちの筋肉。そして、それらを結びつけるルイの圧倒的な機械工学のセンス。
バラバラだった歯車が一つに噛み合い、莫大なエネルギーを生み出していく。
「いいぞ、その調子だ! 溶接の隙間は1ミリの誤差も許さない! 完璧な密閉空間を創り出すんだ!!」
ガンッ! ガンッ! シュゥゥゥゥッ!!
火花が舞い散り、蒸気が吹き上がる中、巨大な鉄のバケモノは、みるみるうちにその威容を現し始めた。
それは、歴史のどんな文献にも載っていない、18世紀のパリに降り立ったオーパーツ。
黄金の装飾が施された漆黒のボイラー。
強靭なサスペンションに支えられた、巨大な鉄の車輪。
(……すごい。本当に、できちゃったわ)
私は、部屋の隅からその光景を見守りながら、震える手で胸を押さえていた。
孤独なオタク王が、仲間という最高のパーツを手に入れた時。
その創造力は、限界という言葉を軽々と置き去りにする。
マリー・アントワネット、27歳。
パリとベルサイユを繋ぐ、最強のアベンジャーズたちの血と汗の結晶。
人類史上初となる超本格的・実用型蒸気機関車『ベルサイユ・エクスプレス』が、ついにその漆黒の産声を上げようとしていた。




