第178話 孤独な鉄の心臓
死者の迷宮・カタコンベのパニックを乗り越え、パリとベルサイユを結ぶ鉄の道は、いよいよ完成の時を迎えようとしていた。
恐怖を克服し、先人への敬意という最強のモチベーションを手に入れた労働者たちの進軍は、もはや誰にも止められない。スミートン特製の水硬性セメントで完全に補強された地下トンネルは、いかなる崩落も許さない堅牢な地下回廊へと姿を変え、その中心には寸分の狂いもない二本の鉄のレールが、陽光の待つ地上へと真っ直ぐに伸びていた。
「線路の敷設は、予定よりも二週間早く完了する見込みです。……王妃様の荒療治が見事に功を奏しましたね」
チュイルリー宮殿のバルコニーで、ナポレオンが懐中時計の蓋をパチンと閉じて報告した。
「ええ。ジャンたちなら絶対にやり遂げてくれると信じていたわ」
私は、春の心地よい風を胸いっぱいに吸い込みながら、晴れやかな笑顔を向けた。
「これで、『道』はできたわ。あとは……その上を走る『主役』の完成を待つだけね」
「……その件ですが、マリー」
ナポレオンの表情が、スッと冷たく曇った。
「ルイ陛下の様子が、少々おかしいのです。この三週間、食事の時以外は一切工房から出てこられない。いや……最近は、運ばせた食事すら手をつけていない日があるようです」
「えっ……? ルイが?」
私は胸の奥に、チクリとした嫌な予感を感じた。
確かに彼は、昔から錠前作りや機械いじりに夢中になると寝食を忘れる「生粋のオタク」ではある。だが、最近の彼の目は、純粋な探求心というよりも、何かに追い詰められているような焦燥感を帯びていた気がする。
「ちょっと、様子を見てくるわ」
私はドレスの裾を翻し、足早に宮殿の地下深く——ルイの専用工房へと向かった。
* * *
一方、その頃。
パリの薄暗い裏通りにある馬車組合の秘密サロンでは、組合長が激しい怒りでワイングラスを壁に叩きつけていた。
「ガッデム!! なぜだ! なぜあのオーストリア女は、カタコンベの死者の呪いすら味方につけやがる!! これでは、トンネル工事が完成してしまうではないか!」
怒号に震え上がる組合の幹部たち。
彼らが大枚を叩いて仕掛けた煽動工作は裏目に出てしまった。
「……組合長。道が完成しても、その上を走る『バケモノ』が完成しなければ、鉄道計画はパーです」
暗闇の中から、一人の黒装束の男が音もなく進み出た。
組合が雇った、産業スパイにして破壊工作のプロフェッショナルである。
「ほう……。工作の目処は立っているのか?」
「ええ。王室の地下工房の排気口ルートは特定済みです。……国王は現在、たった一人で巨大な蒸気機関車の組み立てを行っている。護衛は工房の外にしかいません」
工作員は、懐から小型の爆薬と、金属を腐食させる強酸の小瓶を取り出した。
「国王が心血を注いでいる『ボイラーの圧力弁』や『サスペンションの図面』。あれを少し細工してやるだけでいい。……数万トンの鉄の塊は、試運転の際に内部から大爆発を起こし、国王もろとも木端微塵に吹き飛ぶでしょう」
「クックック……。素晴らしい。自らの発明品で死ぬなら、あの錠前オタクも本望だろう。……やれ。必ず、息の根を止めろ!」
組合長の狂気に満ちた命令を受け、工作員は夜の闇へと溶け込んでいった。
* * *
チュイルリー宮殿、地下特別工房。
むせ返るような熱気と、鉄の匂い。
その中央には、漆黒の鋼鉄で組み上げられた、巨大な蒸気機関車のフレームが鎮座していた。まだ装飾も施されていない無骨な骨組みだが、その質量と威圧感は圧倒的だ。
だが、その巨獣に命を吹き込むべき主——国王ルイ16世の姿は、痛ましいほどにボロボロだった。
「……ダメだ。これじゃ、ダメなんだ……ッ!」
ルイは、油とススで真っ黒になった顔を歪めながら、ハンマーを床に投げつけた。
彼の目の前には、ボイラーの圧力を制御するための巨大なシリンダーバルブが置かれている。しかし、その継ぎ目からは、シューゥゥ……という不吉な蒸気の漏れる音が止まらなかった。
「三十トンを超える車体を、時速四十キロで走らせるための超高圧ボイラー。……ラプラス先生の計算は完璧だ。スミートン先生が用意してくれた鋼鉄の強度も申し分ない。……なのに! 僕の加工技術が、それに追いつかないんだ!!」
ルイは、自身の髪を掻き毟りながら絶叫した。
理論上は可能でも、それを現実の「物質」として寸分の狂いもなく削り出し、組み立てるには、神業のような精密加工技術が必要不可欠だった。
少しでも密閉性が甘ければ、蒸気は漏れ出し、推進力は失われる。無理に圧力を高めれば、ボイラーは臨界点を超えて大爆発を起こす。
さらに、車体を支える車輪のサスペンション機構。これもまた、鉄の弾性と重力のバランスを完璧に取らなければ、走行中のわずかな段差で車体が空中へ跳ね飛び、大惨事となってしまう。
「僕が……僕がやらなきゃいけないんだ。これは、僕が言い出したことなんだから……!」
ルイの瞳には、かつての「モノ作りを楽しむ純粋なオタク」の光はなかった。
そこにあるのは、フランスの未来と、マリーの期待、そして何万もの労働者たちの夢を『自分一人で背負わなければならない』という、重すぎるプレッシャーによる強迫観念だった。
(アントワネットは、暴動を鎮めてくれた。ジャンヌは鉄を用意してくれた。みんな、自分の役割を完璧にこなしている。……僕だけが、僕の技術だけが、みんなの足を引っ張っているんだ……!)
ギリッ、と奥歯を噛み締め、ルイは再びレンチを握りしめた。
睡眠時間はとうに削り尽くし、手には火傷とマメが重なり、視界は疲労で霞んでいる。
「もう一度だ。バルブの研磨を、最初からやり直す……!」
彼がフラフラと旋盤に向かおうとした、その時だった。
カチャリ……。
工房の奥、排気口の鉄格子が、不自然な音を立てて外された。
「……え?」
ルイが振り返るよりも早く、音もなく侵入してきた黒装束の工作員が、背後から忍び寄っていた。
「死ね、国王」
工作員の手には、鈍く光る凶刃。
疲労の極致にあったルイに、それを避ける反応速度は残されていなかった。
——その直前。工房の分厚い鉄扉の向こう側。
「ルイ! 開けて、私よ!」
私が扉のノブに手を掛けようとした瞬間。
「……王妃様、お待ちを」
同行していたアーサーが、ピタリと私の腕を制止した。
「アーサー? どうしたの?」
「工房の内部から、陛下の荒い息遣いとは別の、『不規則な呼吸音』が一つ混じっています」
アーサーの眼光が、氷のように鋭く細められた。
「……侵入者です。制圧します」
バンッ!!!
アーサーが容赦なく鉄扉を蹴り破り、爆発的なスピードで工房内へと突入した。
「なっ!?」
凶刃を振り下ろそうとしていた工作員が、突然の扉の破壊音に一瞬だけ動きを止める。
その一瞬の隙は、漆黒の暗殺者にとっては永劫にも等しい致命的なロスだった。
「ぐはぁっ!!」
地を這うようなスピードで工作員の懐へと潜り込んだアーサーの無慈悲な肘打ちが、男の鳩尾に深く突き刺さる。工作員は声にならない悲鳴を上げて床に崩れ落ちた。
「……対象の制圧完了。王妃様、ご無事で」
「アーサー、ありがとう! ……ルイ!! 大丈夫!?」
私はドレスの汚れも構わず、立ち尽くしている夫の元へと駆け寄った。
「ア、アントワネット……どうして、君がここに……」
ルイの目は虚ろで、手足は小刻みに震えていた。
「どうしてって、あなたの様子がおかしいってナポレオンから聞いて……」
私が彼の頬に手を伸ばした瞬間。
ルイの巨体が、まるで糸の切れた操り人形のように、グラリと傾いた。
「ルイ!?」
私は慌てて彼の体を抱き止めたが、その体は異常なほど熱く、燃えるようだった。
「ご、ごめん……アントワネット……」
ルイは、私の腕の中で、苦しげに息を荒らげながら呻いた。
「僕一人の頭脳じゃ……この巨大な鉄の馬には、命を吹き込めない……。計算は合っているのに、僕の手が……技術が、追いつかないんだ……っ」
「バカね、何を言ってるの。そんなに思い詰めるまで、どうして一人で抱え込んでいたのよ!」
「だって……これは、僕の仕事だから。みんなが完璧に道を作ってくれたのに、僕が失敗したら……すべてが台無しに……」
ルイの目から、悔しさと無力感の涙が、油にまみれた頬を伝ってこぼれ落ちた。
「僕じゃ……ダメだったんだ。太陽王の残した夢を、現代に蘇らせるなんて……最初から、僕みたいな冴えない錠前オタクには、無理な話だったんだ……」
その言葉を最後に、ルイは完全に意識を手放し、私の腕の中でぐったりと気を失ってしまった。
「ルイ!! しっかりして、ルイ!!」
私の悲痛な叫びが、蒸気と鉄の匂いが充満する地下工房に虚しく響き渡る。
絶対の自信を持っていたオタク王の、初めての完全なる挫折。
それは、設計図や理論だけでは決して乗り越えられない、「現実の物質」という壁の圧倒的な重さだった。
横たわる巨大な未完成の黒鋼のフレーム。
主を失った蒸気機関は、まるで冷たい鉄の骸のように、沈黙を守っている。
馬車組合の暗躍による物理的な危機は間一髪で防いだものの、心臓部たる機関車の開発は、ストップしてしまった。
「……どうすればいいの」
私は、高熱で気を失った夫を抱きしめながら、絶望の淵で唇を噛み締めた。
パリとベルサイユを繋ぐ、夢の鉄道計画。
その最後の、そして最大の壁は、天才ゆえの「孤独」であった。
マリー・アントワネット、27歳。
圧倒的な物理の壁と、愛する夫の倒れた姿を前に、彼女はかつてないほどの無力感に包まれていた。だが、この絶体絶命のピンチこそが、これまでバラバラに活躍していた天才たちを一つの「真のチーム」へと昇華させるための、最後の試練となることを、彼女はまだ知らなかったのである。




