第176話 死者が眠る幾何学迷宮
ジャンヌとアーサーが、愛と物理の力でロレーヌの鉄鋼ギルドから莫大な「鉄」を勝ち取って凱旋してから、数日が経過した。
パリに到着した数百台の巨大な荷馬車の列。
そこに積まれた鈍く光る数千トンの良質な鋼鉄の山を見た瞬間、国王ルイ16世は歓喜のあまり白目を剥いて気絶しかけたほどだった。
「素晴らしい……! これだけ極上の鉄があれば、どんな高圧ボイラーでも、どこまでも続くレールでも、思いのままに作り出せるぞ!!」
油まみれの作業着姿のルイは、鉄のインゴットに頬ずりしながら叫んだ。
「お疲れ様、ジャンヌ。……なんだかロレーヌに行く前より、お肌のツヤが良くなってるんじゃない?」
私がニヤニヤしながら小突くと、ジャンヌは「ななな、何を仰いますの! これは良質な鉄分を視察したことによるプラシーボ効果ですわ!」と真っ赤になって早口で弁明した。
その後ろで、アーサーが全く表情を変えずに「ジャンヌ殿の心拍数は正常です。私が一晩中メンテナンスしましたから」と真顔で爆弾発言を投下し、ジャンヌが悲鳴を上げて彼をポカポカと叩くという、お約束のイチャイチャが展開されていた。
「はいはい、ごちそうさま。……さあ、材料は揃ったわ! これからが本番よ!」
私は扇子をパチンと開き、アベンジャーズたちに向けて高らかに号令をかけた。
「目指すはベルサイユ宮殿! パリの民衆と王室を繋ぐ『鉄の道』を、一気に敷き詰めるわよ!!」
かくして、フランスの歴史を根底から覆す「巨大鉄道工事」が、文字通り国家の総力を挙げてスタートした。
パリから南西へ向かって伸びる、全長約二十キロのルート。
そこには、これまで培ってきたすべてのオーバーテクノロジーが惜しげもなく投入された。
「いいか野郎ども!! この鉄の道は、1ミリの歪みも許されねえ! スミートンの旦那が作った水硬性セメントで、ガチガチの基礎を固めるんだ!!」
労働者のリーダーであるジャンが、モンキーレンチを振り上げて檄を飛ばす。
「ラプラス先生の数式通りにレールを置け! 蒸気機関車が最高速度で走っても脱線しないように、カーブの角度は完璧に計算されてるんだからな!」
カトリーヌもまた、作業員たちを指揮しながら巨大な鉄のレールを次々と敷設していく。
日給は高く、福利厚生は完璧。さらに「自分たちが歴史を創っている」という圧倒的な誇り。労働者たちの士気は最高潮に達しており、工事はラプラスの計算すら上回る驚異的なスピードで進んでいった。
しかし。
パリ市外郭の南部、モンパルナスからダンフェール・ロシュローにかけての丘陵地帯に差し掛かった時。
「……ラプラス先生。この先のルートですが、地上の起伏が激しすぎます。このままレールを敷けば、機関車の登坂能力の限界を超えてしまいますぞ」
スミートンが、測量図面を片手に眉をひそめた。
「ええ、分かっています。蒸気機関の重量と粘着摩擦係数を考慮すれば、登り勾配は1パーセント未満に抑える必要がある」
ラプラスは銀縁眼鏡を押し上げ、地図の丘陵地帯に真っ直ぐな赤い線を引いた。
「ゆえに、この丘は越えません。……地下を真っ直ぐに貫く『トンネル』を掘削します。距離にして約二キロ。すでに地下の地質データは解析済みです。石灰岩の層を貫けば、最短ルートでベルサイユへの平野に抜けられます」
「よしきた! 下水道工事で地下掘りはお手の物だ! 野郎ども、ツルハシを持て!!」
ジャンの掛け声とともに、労働者たちは意気揚々と地下へのトンネル掘削を開始した。
硬い石灰岩の層を、爆薬と蒸気ドリルで砕き、スミートンのセメントで壁を補強しながら進んでいく。
誰もが、このまま順調にベルサイユまで到達できると信じて疑わなかった。
だが——彼らは知らなかったのだ。
パリの地下には、美しい光の都の歴史の裏側に隠された、おぞましくも巨大な「闇」が広がっていることを。
* * *
トンネル掘削開始から、数日後の深夜。
「……おい、なんだこの岩盤。やけに硬えな」
地下深くの掘削最前線。
ランタンの薄暗い明かりの中で、ジャンはツルハシを持った手に伝わる、奇妙な反発力に首を傾げていた。
「ジャン、少し火薬の量を増やすかい? この岩の奥、なんだか音が空洞みたいに響くんだ」
同僚の労働者が、岩壁をハンマーで叩きながら言った。
「空洞? 地下水脈か? ……いや、水の流れる音はしねえな。よし、軽く発破をかけてぶち抜いてみよう。みんな、下がってろ!」
ジャンは導火線に火をつけ、岩陰に隠れた。
ドムッ!!
くぐもった爆発音とともに、硬い石灰岩の壁が崩れ落ちる。
もうもうと立ち込める土埃が晴れるのを待ち、ジャンはランタンを片手に、ぽっかりと開いた大穴へと足を踏み入れた。
「おーい、中は安全かー?」
「ああ、崩落の危険はなさそうだ。やけに広い空間に出たぞ。古い採石場の跡みたい……だ……?」
ジャンは、ランタンの明かりを高く掲げた。
その瞬間。
地下の冷たい風が吹き抜け、ジャンの全身の毛穴が総毛立ち、血液が凍りついた。
「な…………なんだ、これ……っ!?」
ランタンのオレンジ色の光が照らし出したもの。
それは、ただの岩壁ではなかった。
大腿骨。脛骨。そして——無数の、人間の頭蓋骨。
「ひっ……!?」
ジャンの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
視界の果てまで続く、広大な地下迷宮。
その壁一面が、数え切れないほどの人骨によって、幾何学模様のように緻密に、そして不気味なほど整然と積み上げられていたのだ。
十字に組み合わされた大腿骨。その間に綺麗にはめ込まれた、空洞の目を持つ頭蓋骨。
何万、何十万……いや、何百万という死者の顔が、ランタンの光に浮かび上がり、一斉にジャンたちを見下ろしていた。
「あ、あああ……」
「骸骨だ! 壁が全部、骸骨でできてる!!」
「俺たちは……地獄への扉を開けちまったんだぁぁぁぁっ!!」
労働者たちがパニックを起こし、ツルハシを投げ捨てて一目散にトンネルの出口へと逃げ出した。
ジャンもまた、腰を抜かしそうになりながら、恐怖に顔を歪めて暗闇の迷宮から逃げ出したのである。
* * *
「……地下に、何百万もの人骨が積み上げられた迷宮、ですって?」
翌朝。チュイルリー宮殿の会議室。
真っ青な顔で震えながら報告するジャンを前に、私は思わず立ち上がった。
「はい……。嘘じゃありません。王妃様、あそこは呪われてます! 俺たちは、死者の国を掘り当てちまったんです!!」
ジャンの悲痛な叫びに、会議室の空気が重く沈む。
「落ち着きなさい、ジャン。死者の国など非科学的だ。骨が勝手に動いて人間を襲うことはない」
ナポレオンが冷静に諭すが、ジャンは首を激しく横に振った。
「理屈じゃねえんです! あの光景を見たら、誰もマトモな神経じゃいられねえ! 作業員たちは『呪われる』『熱病が再発する』ってパニックを起こして、もう誰も地下に入ろうとしません。……工事は完全にストップしてます!!」
「うーん……。困ったな。あそこを迂回するとなると、地盤の緩い地帯を通らざるを得ず、工期が数年は遅れてしまうよ」
ルイが図面を見つめて頭を抱えた。
「迂回など論外です。予算が尽きますよ」
ジャンヌが即座に却下する。
(それにしても、何百万もの人骨が積み上げられた地下迷宮……。パリの地下、骸骨……)
私の脳内に、前世の歴史知識がバチバチと音を立てて繋がった。
「……『カタコンベ』ね」
私がポツリと呟くと、ロベスピエールとラプラスがハッとしてこちらを見た。
「ご存知でしたか、王妃様。……その通りです。あそこは地獄でも呪いの迷宮でもありません。我がフランスの『公衆衛生の歴史』の負の遺産——パリの地下墓地です」
ラプラスが、銀縁眼鏡を押し上げて静かに語り始めた。
「……数年前、王妃様が下水道改革を始められる前のパリは、深刻な墓地不足に陥っていました。特に中心部にあった『イノサン墓地』には、数百年間にわたって何百万もの遺体が詰め込まれ、土は腐敗液でドロドロになり、強烈な死臭が周囲の市場の牛乳を腐らせるほどでした」
その光景を想像し、私は思わず顔をしかめた。
「これではペストやコレラが蔓延すると判断した当時の警察長官が、秘密裏に巨大なプロジェクトを動かしました。毎晩、黒い布で覆われた馬車を使って、溢れ返った墓地から何百万という遺骨を掘り出し……かつてローマ時代から使われていた、パリ市外郭の『巨大な廃石切り場』へと移送し続けたのです」
「それが、あの人骨の壁の正体というわけか……」
ナポレオンが、忌々しげに息を吐き出す。
「ええ。ただ無造作に放り込むだけではスペースが足りなかったため、採石場の作業員たちが骨を幾何学模様に美しく積み上げ、崩れない強固な『壁』として再構築した。……労働者たちが掘り当てたのは、その巨大な納骨堂の一部です」
ラプラスの論理的な説明を聞いても、ジャンの震えは止まらなかった。
「だ、だとしてもですよ! いくら病気を防ぐためとはいえ、死者をあんな冷たい地下に積み上げて放置するなんて……。しかも、俺たちはその死者の頭の上を、鉄のバケモノ(蒸気機関車)で轟音を立てて走り抜けようとしてるんですよ!?罰が当たるに決まってます!!」
労働者たちにとって、死生観や宗教的な迷信は、理屈では決して割り切れない絶対的な「恐怖」である。
死者の眠りを妨げた。その罪悪感と呪いへの恐怖が、どんな高給や福利厚生よりも重く、彼らの足を止めてしまっていたのだ。
「……王妃様。これは厄介な壁ですぞ」
スミートンが、腕を組んで深刻な声を出した。
「岩盤ならば、私のセメントと爆薬で砕くことができる。しかし、人間の心に巣食った『恐怖』や『迷信』という壁は、物理的な力ではどうにもならん。彼らの心が折れたままでは、この先の巨大工事は絶対に不可能だ」
会議室に、重苦しい沈黙が降りた。
鉄不足という物理の壁は、ジャンヌの交渉力とアーサーの暴力で超えた。
だが、次なる壁は「オカルトと心理的恐怖」。
しかも、最悪なことに……。
「……王妃様! 申し上げます!」
近衛兵が、息を切らして会議室へ飛び込んできた。
「パリの市街地に、怪文書が大量にばら撒かれています!! 『王室の鉄の馬が、地獄の扉を開いた! カタコンベの亡霊たちが怒り、パリに再び死の病を蔓延させるだろう!』という内容です!」
「怪文書ですって……!?」
「ええ! さらに、一部の過激な市民や労働者たちが、『工事を今すぐ中止しろ! 悪魔の機械を破壊しろ!』と暴動の兆しを見せ、工事現場の入り口に集結しつつあります!!」
「……チッ。やはり動きましたか」
ナポレオンが、舌打ちをした。
「馬車組合の連中ですね。カタコンベの発見をこれ幸いと利用し、労働者の恐怖心を煽ってパニックを引き起こし、鉄道計画を完全に頓挫させる気でしょう。……見事な扇動工作です」
人間の「未知への恐怖」をコントロールする。
それは、資本の暴力よりも遥かにタチが悪く、伝染しやすい最強の毒だった。
「どうするんだい、アントワネット。このままじゃ、暴徒がせっかく敷いたレールを破壊してしまう!」
ルイが青ざめた顔で私を見る。
私は、手に持っていた扇子をゆっくりと閉じ、そして、静かに立ち上がった。
「……ジャン。案内しなさい」
「え?」
「その『カタコンベ』の最深部よ。私が直接、そこへ行くわ」
「お、王妃様!? 何を仰ってるんですか! あんな不気味な場所へ行くなんて、絶対にダメです!」
ジャンが血相を変えて止める。アーサーも無言で私の前に立ち塞がった。
「退きなさい、アーサー。……迷信や恐怖というものはね、目に見えないからこそ膨れ上がるのよ」
私は、真っ白なドレスの裾を翻し、毅然とした態度で言い放った。
「あの場所は、地獄でも呪いの迷宮でもない。……私たちがこの街を綺麗にする過程で、名前も奪われて地下に追いやられざるを得なかった、パリの歴史そのものよ。
私が自らそこへ行き、この国の母として死者たちに謝罪と敬意を払い、そして生きている者たちの『迷信』を打ち砕いてみせる。……パリの未来を走る鉄の馬は、幽霊なんかには絶対に止めさせないわ!!」
マリー・アントワネット、27歳。
馬車組合の卑劣な扇動と、パリの地下に眠る数百万の骸骨という最恐のホラー展開を前に。
彼女は一切の怯えを見せることなく、ランタンの灯り一つを手に、死の迷宮・カタコンベの奥底へと真っ向から足を踏み入れようとしていたのである。




