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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第175話 鋼の天秤と夜の雨音

 フランス東部、ドイツ国境に隣接する鉄の都・ロレーヌ地方。


 空を覆う鈍色の雲と、巨大な溶鉱炉から立ち上る煙が、この街特有の重苦しくも熱気のある景観を造り出していた。


 その中心部に位置する『ロレーヌ鉄鋼ギルド』の本部会議室。


「……何度言われても、答えは同じです、財務長官殿。我々には、王室が求める『数千トン』もの鋼鉄を回す余裕などありません」


 ギルド長である初老の男は、葉巻の煙を吐き出しながら、頑なに首を横に振った。


「嘘をおっしゃい」

 ジャンヌは、銀縁眼鏡の奥で鋭い光を放ちながら、机の上に分厚い書類をバンッと叩きつけた。


「我が財務局の調査によれば、あなた方の倉庫には現在、ヨーロッパ中に出荷するための莫大な在庫が眠っているはず。……なぜ出し渋るのです? 王室からの巨大な『指名買い』は、ギルドにとって願ってもない特需のはずですわよ」


「お言葉ですが、我々はすでにパリ馬車組合をはじめとする固定の顧客を抱えている身。急な大量発注で生産ラインを乱したくはないのです。……それに、王室の強引なやり方は、我々の気風に合いませんな」


「あら? だったら『生産ラインそのもの』を王室の金で根本からアップデートして差し上げますわよ」


 ジャンヌは、悪魔的な笑みを浮かべて、次なる『契約書』をギルド長の鼻先に突きつけた。


「国王陛下が直々に設計した『最新型・反射炉』と『コークス製鉄法』の設計図です! これを導入すれば、あなた方の工場の生産効率は一気に十倍に跳ね上がる! しかも、初期投資の費用は全額、王室が『無利子』で融資いたしますわ!」


「な、十倍……無利子融資だと!?」

 ギルド長の顔色が変わった。技術者にして商人である彼にとって、それは喉から手が出るほど欲しい魔法の契約だった。


「それだけじゃありませんわ。パリ〜ベルサイユ間の鉄の馬が成功すれば、次はパリとここ『ロレーヌ』を繋ぐ巨大路線が敷かれます。そうなれば、あなた方の鉄は馬車によるチマチマした輸送ではなく、一日に数百トンという規模で瞬時にヨーロッパ中へ出荷できるようになるのです!」


 ジャンヌは扇子をパチンと開き、勝利を確信した声で言い放った。


「さあ、ハンコを押しなさい。これはギルドにとって、一世紀に一度の黄金の契約ですわ!」


「くっ……!」

 ギルド長の手が震え、契約書の上のペンへと伸びかけた。


 だが。


「——騙されるな、ギルド長!! パリの女狐の言葉など信じるな!」


 突如、会議室の奥の扉が蹴り開けられた。

 ドカドカと足音を立てて雪崩れ込んできたのは、ギルドに雇われている地元の屈強な用心棒たち数十人だった。彼らの手には、抜き身の短剣やマスケット銃が握られている。


「なっ……! ギルド長、これは一体どういうつもりですの!?」


 ジャンヌが立ち上がって睨みつけると、ギルド長は冷や汗を拭いながら後ずさった。


「も、申し訳ない、財務長官殿。莫大な融資は魅力的だが、パリ馬車組合から『王室に鉄を売ればロレーヌへの物流を絶つ』と脅されていてな。あなたには、ここで『交渉決裂によりお引き取りいただいた』ことにさせてもらう。手荒な真似はしたくないが、大人しく帰っていただこうか」


「……つまり、あなた方の存在が、我が王室の健全な市場取引を阻害する『非合法な障壁』であると、そう認識してよろしいですね?」


 部屋の隅。

 まるで影と同化するように静かに控えていた漆黒のフロックコートの男——アーサーが、足音もなく用心棒たちの前へと進み出た。


「ああん? なんだお前。女の護衛か? たった一人で何ができるってんだ!」


「『一人』で十分だと言っている」


 アーサーの瞳が、氷のように冷たく細められた。


「ジャンヌ殿、目をつむっていてください。監査局長に、血生臭い帳簿外の処理をお見せするわけにはいきませんからね」


「え? ア、アーサー……?」


 ジャンヌが思わず目を閉じた、その瞬間。


 ——ドガァッ!! バキィッ!!!


 会議室の中に、肉が潰れ、骨が軋む凄まじい音が連続して響き渡った。


 悲鳴すら上げる暇はない。アーサーは銃口を向けられるよりも早く敵の懐に潜り込み、最小限の動きで相手の急所を的確に沈黙させていく。


「ひ、ひぃぃぃっ! な、何だこいつは!?」


「撃て! 早く……がはっ!」


 恐る恐る目を開けたギルド長が目撃したのは、たった数十秒の間に、武装した三十人の荒くれ者たちが、一瞬にして床に山積みとなって気絶していく光景だった。


 アーサーは、ネクタイの乱れをスッと直しながら、静かにギルド長を振り返った。


「これで、貴方の決断を鈍らせる『非合法な圧力』は物理的に排除されました。……商談の続きをどうぞ、ジャンヌ長官」


「……え、ええ!」


 ジャンヌは、恐れおののくギルド長に向けて、再び契約書を突きつけた。


「ご理解いただけましたわね? あなた方を脅かす古き権益の圧力は、我が王室の『最強の盾』がすべて粉砕いたします。あなたは安心して、我々に鉄を売り、莫大な富を築けばいいのです!」


「わ、分かりました!! 王室に逆らうなど、とんでもない!! いくらでも売ります、すぐに工場のラインを王室専用に切り替えさせます!!」


 ギルド長は、もはや馬車組合への義理など忘れ去り、半泣きになりながら震える手で契約書にサインを書き殴った。


 こうして、マリーたちの鉄道計画を阻んでいた「鉄の壁」は、ジャンヌの圧倒的な経済ロジックと、アーサーの無慈悲な物理制圧という最強のコンボによって、見事に打ち破られたのである。


 * * *


 その夜。

 商談を終え、ロレーヌの高級宿舎の一室でくつろいでいたジャンヌは、窓の外の不穏な空模様に眉をひそめていた。


 ゴロゴロ……!

 遠くで重い雷鳴が響き、昼間の鈍色の空から一転、バケツをひっくり返したような猛烈な豪雨が窓ガラスを叩きつけている。


「嫌な天気ですわね……。明日の馬車の出発に影響が出なければいいのですが」


 ジャンヌがランプの火を少し大きくしようとした、まさにその時。


 ピシャァァァァンッ!!!!!


 宿舎のすぐ近くに、地響きを伴う巨大な落雷が落ちた。

 その凄まじい衝撃に、部屋のランプの火がフッと消え、室内は暗闇に包まれた。


「きゃあっ!?」


 ジャンヌは思わず悲鳴を上げ、ベッドの上で毛布を被って丸く縮こまった。


 ——実は、悪魔の金庫番として恐れられる彼女には、誰にも言えない秘密があった。


 幼い頃、貧しい修道院で育った彼女は、嵐の夜に暗闇の中で一人ぼっちで震えていたトラウマから、「雷と暗闇」が極度に苦手だったのである。


「ひっ……! 怖い……」


 再び雷鳴が轟き、ジャンヌは両耳を塞いでガタガタと震え出した。冷徹な財務長官の面影はどこにもなく、そこにはただの怯える一人の少女の姿しかなかった。


「……ジャンヌ殿」


 突然、暗闇の中で低い声が響いた。


「!? 誰……っ!」


「私です」


 声の主は、隣の部屋で待機していたはずのアーサーだった。


 彼は停電と同時に、対象者の安全を確保するために音もなく彼女の部屋へと踏み込んでいたのだ。


「ア、アーサー……?」


「はい。暗殺者がこの混乱に乗じて侵入する可能性を考慮し、緊急の近接警護態勢に移行します」


 暗闇の中で、彼がベッドのすぐ傍まで近づいてくる気配がした。


 ピシャァァァァンッ!!


「ひゃああっ!!」


 再び巨大な雷が落ち、窓ガラスがビリビリと震える。


 ジャンヌは恐怖のあまり、無意識のうちに暗闇の中で手を伸ばし、アーサーのシャツの胸元をギュッと強く握りしめていた。


「……怖いのですか、ジャンヌ殿」


「こ、怖くなんかありませんわ! ただ、急に大きな音がしたから、鼓膜の防衛本能が働いただけですのよ……っ!」


 強がる彼女の言葉とは裏腹に、その小さな体は小刻みに震え、彼を掴む手の力はますます強くなっていく。


 数秒の沈黙。


 アーサーは、暗闇の中で小さく息を吐くと、ベッドの縁に腰を下ろし、震えるジャンヌの背中にそっと大きな手を回した。


「えっ……」


「ご自身の『脆弱性』を隠す必要はありません」


 アーサーは、彼女の体を自分の方へと優しく、しかし逃げ場のない力強さで引き寄せた。


「貴女が何に怯えていようと、関係ない。雷鳴だろうが、暗闇だろうが、暗殺者だろうが……貴女を脅かすあらゆるエラーから、お守りします」


 彼の熱い胸板に、ジャンヌの顔がすっぽりと埋もれる。彼の低い声は、雷の音よりも大きく、そして深くジャンヌの心臓に響き渡った。


「……アーサー……」


「聞いてください」


 アーサーは、ジャンヌの頭を自分の左胸へと静かに押し当てた。


「私の心臓の音を」


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。


 雨音と雷鳴が吹き荒れる中、ジャンヌの耳に届いたのは、あの「氷の暗殺者」の、異常なまでに力強く、そして狂ったように早い鼓動の音だった。


「……また、エラーを起こしていますわよ、アーサー」


 ジャンヌは、彼の胸に顔を埋めたまま、安心感と愛おしさで涙ぐみながら呟いた。


「……ええ。貴女を抱きしめているせいで、私の制御プロトコルは完全に崩壊状態です。……ですが、この音が聞こえている間は、貴女は絶対に安全だ」


 アーサーは、ジャンヌの背中を抱く腕に、さらにギュッと力を込めた。


「貴女の心臓の音は、私が守ります。……だから、今夜だけは、私のこの見苦しいエラー音で、恐怖を上書きしてください」


「……バカ」


 ジャンヌの目から、恐怖の涙ではなく、別の温かい涙が一粒こぼれ落ち、彼のシャツを濡らした。


「あなたのその不器用な鼓動が、世界中のどんな音楽よりも安心するなんて……本当に、私はどうかしてしまったみたいですわ」


 ジャンヌは、雷の恐怖を完全に忘れ、アーサーの熱い体温に包まれながら、その広い背中にそっと両手を回し返した。


 窓の外では激しい嵐が吹き荒れていたが、暗闇の部屋の中には、ただ二つの重なり合う熱い心音だけが、どこまでも優しく響き続けていたのである。


 * * *


 数日後。

 パリのチュイルリー宮殿、作戦会議室。


「……マリー。ロレーヌから、伝令の早馬が到着しましたよ」


 ナポレオンが、王室暗号で書かれた書類を手に、ニヤニヤと笑いを堪えながら私に差し出した。


「どれどれ?」


 私は書状を受け取り、そこに書かれた内容を読み上げた。


『鉄鋼ギルドとの契約、完全勝利にて締結完了。数千トンの鋼鉄の第一陣が、明日パリへ向けて出発する。追伸:アーサーのメンテナンスが完了したため、二人の間における「絶対的な専属防衛契約」も無事に更新された。以上』


「……なによこれ! 最後の追伸、完全に惚気じゃない!!」


 私は、バンッとテーブルを叩いて大爆笑した。


「あのアイスウーマンのジャンヌに、公文書でこんなロマンチックな報告をさせるなんて……アーサーの奴、ロレーヌの夜で一体どんな物理的スキンシップをキメたのよ!」


「詳細は不明ですが、少なくとも『鉄』よりも硬い絆が結ばれたことは間違いないようですね」

 ナポレオンも、皮肉っぽく肩をすくめている。


「いいわ! 最高の知らせよ! これで、蒸気機関車を造るための材料はすべて揃った!!」


 私は、広げられたパリ〜ベルサイユ間の巨大な路線図を、扇子で力強く指し示した。


「さあ、みんな! 休んでいる暇はないわよ! 大量の鉄が届けば、いよいよ歴史を変える『大鉄道工事』のスタートよ!! 誰の邪魔もさせない、一気にベルサイユまで線路を敷き詰めてやるわ!!」


 鉄不足という致命的な壁を、愛と物理でぶち破ったアベンジャーズたち。


 しかし、彼らが意気揚々と地面を掘り進めたその先——パリの地下深くには、彼らの想像を絶する「恐るべき闇」が、口を開けて待ち構えていたのである。


 マリー・アントワネット、27歳。

 ロマンチックな恋の余韻はつかの間、歴史のオカルトと迷信が渦巻く、最も不気味な土木工事の幕が、今静かに切って落とされようとしていた。

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