第174話 鉄の壁と出張申請
「……ダメだ! 足りない! まったくもって、ぜんっぜん足りないよ!!」
チュイルリー宮殿の地下に設けられた、熱気と油の匂いが充満する特別工房。
そこで図面と睨み合っていた国王ルイ16世が、頭を抱えて悲痛な叫び声を上げた。
「どうしたの、ルイ? エンジンの設計に何か問題でも?」
私が尋ねると、ルイは目の下の隈をさすりながら、絶望的な顔で首を振った。
「エンジンの構造は、ラプラス先生の計算もあってプロトタイプができあがっている。問題は『材料』だ。……アントワネット、パリからベルサイユ宮殿までの距離は、片道で約二十キロメートルある。往復で四十キロだ。……その全行程に『鉄のレール』を二本ずつ敷き詰めるとなると、どれだけの鉄が必要になるか分かるかい?」
「ええっと……数百トンくらい?」
「甘い! 甘すぎるよ! ざっと見積もって『四千トン』だ!! しかも、超高圧の蒸気を閉じ込める機関車の巨大なボイラー本体にも、大砲を造るのと同じか、それ以上に分厚くて頑丈な極上の鋼鉄が大量に必要なんだ!」
「よ、四千トン……!?」
私は、その桁違いの数字に思わず息を呑んだ。
「その通りだ、国王陛下」
腕組みをしていたイギリスの土木王・スミートンが、深刻な顔で頷いた。
「我が大英帝国の最新鋭の製鉄所であっても、それほどの鉄を一朝一夕に用意するのは不可能だ。ましてや、今のフランスの製鉄技術では、すべての工場をフル稼働させても数年はかかるぞ。……これでは、レールを敷く前に計画が頓挫してしまう」
「軍事面からも、これは看過できません」
ナポレオンが、懐中時計をカチンと鳴らして冷徹に告げた。
「鉄道のために国中の鉄をかき集めれば、兵士のマスケット銃や大砲の生産ラインがストップします。対仏大同盟が国境で睨みを利かせている今、それは国家の自殺行為に等しい」
圧倒的な『鉄不足』。
それは、天才たちの知恵や設計図だけではどうにもならない、物理的で絶望的な「素材の壁」であった。
「……何か、解決策はないの?」
重苦しい沈黙が流れる中、私は扇子を握りしめて尋ねた。
「ありますわ。たった一つだけ」
その時、工房の扉が開き、分厚い書類の束を抱えた財務長官・ジャンヌが、銀縁眼鏡をキラリと光らせて入ってきた。
「フランス東部、プロイセン国境に隣接する『ロレーヌ地方』。あそこは、ヨーロッパ有数の良質な鉄鉱石と石炭の産地です。……あそこの『鉄鋼ギルド』が保有している莫大な鉄の備蓄をすべて買い占め、さらに王室の最新技術を導入して製鉄所を大規模に拡張すれば、数千トンの鉄を短期間で確保することは可能です」
「ロレーヌの鉄鋼ギルド! 確かにあそこなら……!」
ルイが顔を上げるが、すぐにまた表情を曇らせた。
「でも、ロレーヌのギルドはすごく排他的で頑固だと聞いている。パリの王室からの急な注文なんて、そう簡単に受けてくれるはずが……」
「ええ。手紙や使者を出した程度では、鼻であしらわれるのがオチでしょうね」
ジャンヌは、妖艶な、しかし絶対の自信に満ちた笑みを浮かべた。
「だからこそ……国家の金庫番である『この私』が、直接ロレーヌへと乗り込みますわ。圧倒的な札束のビンタと、王室直属のインフラ事業という巨大な利権を提示して、彼らの強欲な首を縦に振らせてみせます!」
「ジャンヌが、自ら直接出向くの?」
私が驚いて問うと、ジャンヌは胸を張って頷いた。
「当然ですわ。これは国家の根幹を揺るがす巨大な取引。中途半端な役人に任せておける金額ではありません。それに……」
ジャンヌの表情が、スッと真剣なものに変わる。
「私たちが『鉄の馬』を走らせようとしていることに、すでに勘付いて妨害に動いている連中がいます。……パリの『馬車組合』です。彼らが先回りしてロレーヌのギルドに圧力をかける前に、一刻も早く私が契約をまとめ上げる必要がありますわ」
「馬車組合……! 既得権益の連中ね」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
「分かったわ、ジャンヌ。ロレーヌでの交渉の全権をあなたに委ねる。……気をつけて行ってきてちょうだい」
「お任せくださいませ、王妃様。必ずや、莫大な鉄の山をパリへ引っ張ってまいりますわ!」
ジャンヌは優雅に一礼し、颯爽と工房を後にした。
* * *
同じ頃。
パリの裏路地にひっそりと佇む、馬車組合の秘密サロン。
「……王室の財務長官が、自らロレーヌへ鉄の買い付けに向かうだと?」
分厚い葉巻をふかしながら、組合長の男が冷酷な笑みを浮かべた。
「ああ。しかも、交渉をスムーズに進めるため、目立つ近衛連隊の護衛をつけず、数人の供だけを連れた『お忍びの馬車』で出発するそうだ」
報告に来た裏社会のゴロツキが、ニヤニヤと下卑た笑いを漏らす。
「フン……。オーストリア女も、随分と舐めた真似をしてくれる。我々馬車組合が持つ『裏のネットワーク』を甘く見たようだな」
組合長は、テーブルの上にズラリと並べられた金貨の山を、ゴロツキの方へ押しやった。
「いいか。ロレーヌのギルドには、すでに我々から『王室に鉄を売れば、運送ルートを完全に絶つ』と圧力をかけてある。……だが、念には念を入れねばな。あの目ざとい財務長官の女がロレーヌに到着する前に……」
組合長は、首を掻き切るジェスチャーをした。
「道中の森の中で、馬車ごと『事故』に見せかけて始末しろ。……鉄の馬の心臓部を担う女が消えれば、計画は完全に頓挫する。我々のシノギを奪おうとする者には、容赦のない制裁が必要だ」
「へへっ、任せてくだせえ。東部の街道は俺たちの庭みたいなもんです。あの女の悲鳴、たっぷり聞かせてやりますよ」
巨額の金貨を懐にしまい込み、ゴロツキは暗闇へと消えていった。
* * *
その日の夕刻。
チュイルリー宮殿の裏門で、ジャンヌは目立たない黒塗りの馬車――ルイが開発したサスペンション搭載の超高速馬車『マリー・エクスプレス号』に荷物を積み込んでいた。
「よし、書類の準備は完璧。交渉用の手付金の小切手も問題ありませんわね……。ナポレオン殿が整備した宿駅の乗り継ぎ網をフル活用して夜通し馬を走らせれば、二日後の朝にはロレーヌへ到着しますわよ!」
ジャンヌが御者に指示を出そうとした、まさにその時だった。
「……出発許可は下りていませんよ、ジャンヌ長官」
冷たく、重みのある声が響き、馬車の扉がバンッと閉じられた。
そこに立っていたのは、漆黒のフロックコートに身を包み、片手で分厚い書類の束を持った王室警護長——アーサーだった。
「ア、アーサー!? なんですの、急に。私は王妃様から全権を委任されて……」
「その『単独での長距離移動』が、私の設定した安全基準を著しく下回っていると言っているのです」
アーサーは、氷のように冷たい目でジャンヌを見下ろした。
「今回の出張、護衛が近衛兵わずか二名。……正気の沙汰ではありません。これは直ちに中止するか、私を含めた完全武装の小隊を同行させるべきです」
「バカなことを言わないでくださいな!」
ジャンヌは真っ赤になって反論した。
「これは極秘の買い付け任務です! 軍隊ぞろぞろ引き連れて行ったら、馬車組合の連中に『これから鉄を買いに行きます』って宣伝しているようなものですわ! 私はお忍びで、誰にも気づかれずにロレーヌへ入る必要がありますの!」
「……もう遅いですね」
アーサーは、持っていた書類の束——情報部が傍受した裏社会の暗号通信の解読文——をジャンヌに突きつけた。
「えっ……?」
「すでに馬車組合の末端が、不審な武器を大量に調達し、東部の街道へ先回りして伏兵を配置しています。……ターゲットは十中八九、貴女だ」
アーサーの言葉に、ジャンヌの背筋にゾクッと冷たいものが走った。
「馬車組合が……私を暗殺しようと……?」
「彼らは、鉄道計画を潰すために手段を選ばないでしょう。……貴女は、自分の命の価値を低く見積もりすぎだ」
アーサーは、一歩ジャンヌに近づき、その大きな手で彼女の肩をガシッと掴んだ。
「貴女は以前、私に『一生監査し続けろ』と命じられた。……ならば、貴女というフランスの『最高資産』が損なわれるリスクを、私が座視するはずがない」
「あ……っ」
至近距離で見つめられ、ジャンヌの顔がボンッと音を立てて茹で上がった。
(き、きましたわーっ!? またこの無自覚スパダリ暗殺者の、息を吐くような口説き文句!? 心臓の減価償却が限界突破してしまいますわ!!)
「だ、だからといって、あなたが付いてきたら王妃様の護衛が手薄になりますわ! 私は大丈夫ですから、あなたは宮殿に残って……!」
「王妃様の護衛は、ナポレオン殿が一時的に指揮を執ることで合意済みです。……それに」
アーサーは、掴んでいたジャンヌの肩からスッと手を離し、自らの腰のナイフに手を当てた。
「私が行けば、軍隊のような目立つ行軍は必要ない。……私『一人』の同行で、完全な安全を保障します」
たった一人で、数十人の暗殺部隊から彼女を守り抜くという、圧倒的な自信と実力。
「……もう。本当に、あなたは強引な不良債権ですわね」
ジャンヌは、真っ赤な顔を背けながら、小さくため息をついた。
「仕方ありませんわ。馬車の座席、一人分空けておきますから……しっかり私の命、守り抜いてくださいな」
「承知しました。ジャンヌ殿の命と契約に懸けて」
かくして、悪魔の金庫番と、氷の暗殺者を乗せた黒塗りの馬車は、夕闇の迫るパリを後にして、一路東——鉄の都ロレーヌへと向けて走り出したのである。
* * *
深夜。
パリからロレーヌへと続く、鬱蒼とした森に囲まれた街道。
月明かりすら届かない暗闇の中を、ジャンヌたちの乗る馬車が疾走していた。
「……そろそろですね」
馬車の中で、目を閉じていたアーサーが静かに呟いた。
「え?」
ジャンヌが聞き返した直後。
ヒヒィィィィンッ!!!
馬車を引いていた馬が激しくいななき、急ブレーキがかかった。
車体が大きく揺れ、ジャンヌが座席から投げ出されそうになるのを、アーサーが素早く腕を伸ばして抱きとめる。
「な、何事ですの!?」
「街道に倒木です。……見事な待ち伏せだ」
アーサーが馬車の窓から外を窺うと、暗闇の森の中から、松明を持った数十人のゴロツキたちが、ぞろぞろと姿を現し、馬車を完全に包囲していた。
彼らの手には、鋭い鉈やマスケット銃が握られている。
「へへへっ。ビンゴだぜ。パリのお高くとまった財務長官サマ。お前の旅はここでお終いだ。大人しく降りてきな!!」
ゴロツキのリーダーが、下品な笑い声を上げながら馬車の扉に近づいてくる。
「どうしますの、アーサー!? 敵は三十人以上いますわよ!」
ジャンヌが震える声で尋ねると。
「……数日ぶりの実戦ですね」
アーサーは、極めて事務的な、まるで散らかっている書類を片付ける前のようなトーンで言った。
「ジャンヌ殿、あなたはそこで『一分』お待ちください。……すぐに、この不快な『掃除』を終わらせてきます」
アーサーは、ジャンヌの返事を待たずに、馬車の扉を静かに開けて外へと降り立った。
「ああん? なんだお前。女の護衛か? 一人で出てきて死にたいのか……」
ゴロツキのリーダーが嘲笑おうとした、その瞬間。
——シュンッ!!
「……え?」
リーダーの視界から、アーサーの姿が消えた。
直後、ゴロツキの首筋に、氷のような冷たい衝撃が走る。彼が悲鳴を上げる間もなく、アーサーの手刀が急所を正確に打ち抜き、大男の体は糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちた。
「な、なんだ!? どこから……!」
「撃て!! 撃ち殺せ!!」
残りのゴロツキたちが慌ててマスケット銃を構えるが、アーサーの動きは人間の動体視力を完全に超えていた。
暗闇を滑るように移動し、一切の無駄な動きなく、関節を極め、急所を打ち抜き、あるいは敵の持つ武器を奪い取って同士討ちを誘う。
それは戦闘というよりも、流麗な死の舞踏——圧倒的すぎる『暴業』であった。
「ぎゃあああっ!!」
「ひ、ヒィィッ! バケモノだ!! 逃げろ!!」
恐怖に駆られたゴロツキたちが森へ逃げ込もうとするが、アーサーは一切の容赦なく背後から距離を詰め、次々と彼らの意識を刈り取っていった。
——馬車の中で震えながら待っていたジャンヌが、懐中時計の秒針が『六十秒』を刻んだのを確認した、まさにその時。
ガチャリ、と馬車の扉が開いた。
「お待たせいたしました、ジャンヌ殿」
そこには、返り血を一滴も浴びていない、呼吸一つ乱していない完璧な姿勢のアーサーが立っていた。
彼の背後の街道には、数十人の暗殺部隊が、一人残らず気絶して折り重なるように倒れ伏している。
「障害物はすべて排除しました。……先へ進みましょう。貴女の重要な商談の時間を、これ以上遅らせるわけにはいきませんからね」
アーサーは、何事もなかったかのようにジャンヌに手を差し伸べた。
「……っ!」
ジャンヌは、その圧倒的な強さと、自分を守り抜いてくれた彼の静かな瞳を見て。
恐怖など完全に吹き飛び、代わりに心臓が破裂しそうなほどの『キュンキュン』に襲われていた。
(か……かっこよすぎますわーーーーッ!! 私の専属ボディーガード、世界一の超絶優良銘柄ですわ!!)
「え、ええ。行きましょう、アーサー。……ロレーヌは、もうすぐですわ!」
ジャンヌは、差し出された彼の手をしっかりと握り返した。
馬車組合の卑劣な妨害を、圧倒的な物理の力で粉砕した二人。
だが、真の試練である「鉄鋼ギルドとの交渉」、そして彼らを待ち受ける「ロマンチックすぎる嵐の夜」は、ロレーヌの地で静かに幕を開けようとしていたのである。




