第173話 鉄の道の夜明け
パリ大改造計画の開始から、さらに数ヶ月の月日が流れた。
大通りから枝分かれするように裏路地まで下水道工事が進行し、浄水ステーションも次々と増設。さらには労働者向けのプレハブ式団地も次々と増築されていった。これら圧倒的なインフラ改革によって、パリは名実ともに「世界で最も清潔で、最も豊かな光の都」として、かつてない絶頂期を迎えていた。
だが、皮肉なことに、その「豊かさ」が、新たな都市問題を引き起こしていたのである。
「……動きませんわ。また馬車がスタックしています」
ある日の午後。
チュイルリー宮殿のバルコニーから大通りを見下ろしていたジャンヌが、呆れたように銀縁眼鏡を押し上げた。
彼女の視線の先にあるシャンゼリゼ通りは、見渡す限りの「大渋滞」だった。
農業生産力の向上と地方からの人口流入、そして何よりジャンヌの苛烈なまでの「経済回し」政策により、パリの物流と人の移動は爆発的に増加した。
結果として、パリの道路という道路が、荷馬車、乗合馬車、貴族の自家用馬車で溢れ返り、交通機能が麻痺してしまっていたのだ。
「これでは、せっかく整備した大通りも意味がありませんわ。工場からの製品出荷は遅れ、地方からの食料搬入も滞っている。……それに」
ジャンヌはハンカチで鼻を押さえた。
「馬の数が増えすぎたせいで、清掃局の処理能力を超えて馬糞が溜まり始めています。いくら下水道があっても、路上がフンまみれでは元の木阿弥ですわ!」
「本当にどうにかしないとね。物流の滞りは、経済の死活問題よ」
私は扇子をパチンと鳴らし、眉間にシワを寄せた。
「でも、どうやって解決するの? 道をこれ以上広くすることはできないし、熱気球での輸送はまだ実用段階じゃないわ」
「その問題なら、すでに僕が完璧な解答を用意しているよ!!」
バンッ!! と、バルコニーに通じる扉が勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、顔中を真っ黒なススと油で汚し、目をバキバキに血走らせたオタク王――国王ルイ16世だった。彼の手には、丸められた巨大な設計図面が握りしめられている。
「ル、ルイ!? どうしたのその顔! また徹夜で地下の工房に引きこもっていたの!?」
「フフフ……。アントワネット、ジャンヌ。すぐに皆んなを会議室に集めてくれ。……ついに、究極の『移動手段』のプロトタイプ設計が完成したんだ!!」
* * *
数十分後。
チュイルリー宮殿の最も厳重な作戦会議室に、フランスを牽引する最高頭脳たちが集結していた。
財務特別監査局長・ジャンヌ。
軍事および兵站総司令官・ナポレオン。
王室最高法務顧問・ロベスピエール。
天才数学者・ラプラス。
文化振興特命担当・モーツァルト。
そして、土木王・スミートン。
「……さて、国王陛下。交通渋滞を解消する『究極の移動手段』とは、一体どのような魔法の絨毯で?」
ロベスピエールが、訝しげに尋ねる。
「魔法なんかじゃない。純然たる『科学の力』さ!」
ルイは自信満々に、巨大な青写真を会議テーブルにバサァッと広げた。
「「「これは……っ!?」」」
そこには、これまで誰も見たことがない、異形の機械の図面が描かれていた。
巨大な円筒形のボイラー、複雑に絡み合うシリンダーとピストン、そしてそれらを支える頑丈な鉄の車輪。
「定置式の高圧蒸気機関を、そのまま車輪の上に乗せた……自走式の高出力エンジン、蒸気機関車だ!! 馬のように疲れず、餌の代わりに石炭と水を食い、文句も言わずに馬車数十台分の重さの荷物を引っ張って走り続ける、無敵の『鉄の馬』さ!!」
ルイの熱弁に、会議室は水を打ったように静まり返った。
蒸気機関はすでに工場で導入されている。だが、それを「走らせる」という発想は、当時の常識を飛び越えていた。
「驚異的です……」
ナポレオンが、震える手で懐中時計を見つめながら呟いた。
「これほどの質量の鉄の塊が、馬を遥かに凌駕するスピードとパワーで自走するとなれば……。軍事における部隊の展開速度、そして兵站の概念が根底から覆ります。……圧倒的だ」
「さらに、この鉄の馬は泥道や石畳を走るんじゃない」
ルイは、図面の下部に描かれた『二本の線』を指差した。
「専用の『鉄のレール(軌道)』を敷くんだ! 摩擦抵抗を極限まで減らし、どれほど重い荷物を積んでも、滑るようにスムーズに走ることができる! スミートン先生、レールの基礎工事の土台には、あなたのセメントが必要不可欠だ!」
「おお……! イギリスの炭鉱でトロッコに使われている木製レールの進化系か! それを鉄で造り、地上を走らせるとは……! 私の土木魂が疼くぞ!!」
スミートンも、すっかりイギリスの誇りを忘れて興奮状態に陥っている。
「素晴らしいわ、ルイ!! これなら、パリの渋滞も馬糞問題も一気に解決できる!!」
私も扇子を叩いて歓喜の声を上げた。
——だが、天才たちが集まれば、当然のごとく「エゴの衝突」が起こる。
「では、早速この『鉄の馬』の第一号路線をどこに敷設するか、決める必要がありますね」
ジャンヌが、銀縁眼鏡をキラリと光らせてパリ全図を広げた。
「当然、パリからセーヌ川を下り、港町『ル・アーヴル』へ向かう路線が最優先ですわ! 大陸間貿易の要である港町とパリを直結させれば、物流の回転率は数十倍に跳ね上がり、関税収入が爆発的に増加します!」
「甘いですね、財務長官殿」
ジャンヌの提案を、ナポレオンが一刀両断した。
「最初の路線は、当然『東部国境』へと向かうルートであるべきだ! プロイセンやオーストリアなど、対仏大同盟の脅威はまだ完全には去っていない。有事の際、数万の軍隊と大砲を一瞬で国境へ展開できる軍用鉄道こそが、フランスの絶対防衛線となります!」
「お二人とも、お待ちいただきたい」
今度はロベスピエールが、眉間にシワを寄せて立ち上がった。
「経済と軍事も重要ですが、法治国家の基盤は『地方行政との連携』です。パリから各地方都市へと向かう放射状の路線を敷き、新憲法の精神と行政文書を迅速に伝達する『情報連絡網』を構築することこそが、国家の骨格を強固にする最優先事項です!」
「……私の偏微分方程式によれば、現在最も人口密度の高い都市間の『旅客輸送』こそが、最も利益率が高く、統計的に……」
ラプラスも独自の理論で参戦し、作戦会議室は一瞬にして「最初の路線をどこに敷くか」の激しい大論争の渦に飲み込まれてしまった。
「ああもう、ちょっと待って!!」
私は、メガホン代わりに丸めた図面を口に当てて、思い切り叫んだ。
全員の視線が、私に集中する。
「みんなの意見はどれも正しいわ。でも、どれも『国家の都合』ばかりで、パリの市民たちがワクワクする要素が一つも入ってないじゃない!」
「ワクワク……ですか?」
ナポレオンが怪訝な顔をする。
「そうよ! こんな巨大で、真っ黒で、煙を吹いて走る鉄のバケモノ……。いきなり生活や軍事の中に放り込まれたら、平民たちは絶対に『悪魔の乗り物だ!』って怖がるに決まってるわ! だから、最初の路線は、誰もが乗ってみたくなるような『最高のエンターテインメント』じゃなきゃダメなのよ!」
私は扇子で、パリ近郊の地図の一点を、力強くバチンと叩いた。
「最初の路線は……『パリ〜ベルサイユ宮殿間』に決定よ!!」
「「「べ、ベルサイユ宮殿!?」」」
全員が目を丸くした。
「ええ! かつて絶対王政の象徴だった、あの豪華絢爛なベルサイユ宮殿。あそこを、パリ市民の『最高の日帰りリゾート施設』として一般開放するのよ!」
私は、圧倒的なプレゼン力で彼らに語りかけた。
「パリの中心部から、最新鋭の鉄の馬に乗って、美しい風景を眺めながらベルサイユへ向かう。宮殿の庭園でピクニックをして、鏡の間でダンスを楽しむ。……どう? 最高の『観光エンタメ』じゃない!!それに、外国からのVIPが来仏した時、この鉄道に乗せてベルサイユへ案内すれば、フランスの『圧倒的な技術力』と『富』を見せつける最強の外交カードになるわ!」
「な、なるほど……! 観光と外交の相乗効果……!! それに、乗車賃を取れば、初期投資の回収も早いですわね!」
ジャンヌの目に、再び金貨のマークが浮かぶ。
「さらに重要なのは、心理的な効果よ」
私は、全員を見渡して言った。
「パリとベルサイユを直結することは、かつて物理的にも心理的にも隔絶されていた『王室と市民の距離』を、完全に『ゼロ』にする象徴的な出来事になる。……これは、ただの交通手段じゃない。私たちが一つになったフランスの、未来への架け橋なのよ!」
私の言葉に、反論する者はもう誰もいなかった。
「……素晴らしい」
ナポレオンが、深く頷いた。
「民心の掌握と、国家のプロパガンダとして、これ以上完璧な一手はありません。私も、この『ベルサイユ路線』に賛同します」
「僕も大賛成だ! ベルサイユへの道のりなら、高低差も比較的少なくて、最初の敷設ルートとしては技術的にも最適だ!」
ルイも目を輝かせている。
「決まりね! さあ、国家の総力を挙げて、この『鉄の馬』プロジェクトを始動させるわよ!!」
私の号令とともに、アベンジャーズたちは歓喜の声を上げ、フランスの歴史を根底から覆す「巨大鉄道計画」が、ここに産声を上げたのである。
* * *
だが。
王室が新たな「光」を放てば放つほど、必ずその影で、既得権益を奪われる者たちの「闇」が濃くなるのが、歴史の摂理であった。
その日の夜。
パリの裏通りにひっそりと佇む、高級だがどこか陰気なサロン。
そこには、分厚い葉巻の煙をくゆらせる、身なりの良い男たちが数十人集まっていた。
彼らは「パリ馬車組合」――すなわち、パリと地方を結ぶ物流や旅客輸送、さらにはベルサイユ宮殿へのVIP送迎を独占し、長年にわたって莫大な利益と権力をほしいままにしてきた、大商人たちのトップであった。
「……聞いたか。王室が、蒸気の力で自走する『鉄の馬』とかいう悪魔の機械を作ろうとしているらしい」
組合長である太った男が、葉巻を灰皿に押し付けながら、忌々しげに低い声を漏らした。
「しかも、最初の路線がパリからベルサイユまでだと? ふざけるな! あのルートは、我々馬車組合が代々独占してきた、最も利益率の高い『ドル箱』だぞ!!」
「そうだ! もしそんな鉄のバケモノが走り出せば、我々の豪華な馬車も、大量の荷馬車も、すべてお払い箱だ! 運送の権利も、街道沿いの宿場の利権も、すべて王室に奪われてしまう!!」
男たちの顔には、明確な焦りと、それを上回る『憎悪』が浮かんでいた。
「王妃のインフラ整備には、我々も随分と我慢させられてきたが……。俺たちの『本業』を根こそぎ奪うというなら、話は別だ。……大人しく引き下がると思うなよ」
組合長は、懐からずっしりと重い金貨の入った袋を取り出し、テーブルの上にドンッと置いた。
「あのオーストリア女に、思い知らせてやる必要があるな。……我々馬車組合が、このパリの『足』を握る真の権力者であることを」
男の目が、蛇のように細められる。
「まずは、あの鉄のバケモノを造るための『材料』を絶ってやろう。それから……工事の現場にも、たっぷりと『呪い』を振り撒いてやらねばな」
マリー・アントワネット、27歳。
交通渋滞と物流の限界を打ち破るべく、ついに「鉄道」という近代兵器を歴史の盤面に投入した彼女の前に。
既得権益の塊であり、最も泥臭く、最も執念深い「パリ馬車組合」という新たなる巨大な敵が、その牙を剥き出しにして立ち塞がろうとしていた。
鉄と煙と陰謀の戦いが、今、静かに幕を開けたのである。




