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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第171話 王冠の教育

 翌朝。

 まだ太陽が顔を出す前の、薄暗く冷たい空気の中。


「ママン……このお洋服、チクチクするよ。それに、なんだかカビみたいな匂いがする」


 チュイルリー宮殿の裏口で、王太子ジョゼフは、不満げに自分の袖を引っ張っていた。


 彼が着ているのは、いつものシルクや柔らかなベルベットではない。パリの古着屋で用意した、粗悪な麻のシャツと、膝の擦り切れたウールのズボンだった。


「我慢しなさい、ジョゼフ。今日一日は、あなたは王太子殿下じゃないわ。パリの街角に住む、ただの『パン屋の息子』よ」


 私もまた、飾りのない地味な木綿のワンピースに、くすんだ色のエプロンを身につけていた。髪もわざとボサボサに束ね、顔には炭の粉を薄く塗って汚れを装っている。


「アントワネット。護衛はアーサーの部下を数名、私服で周囲に配置してある。……だが、本当に僕はお留守番でいいのかい? 万が一暴動でも起きたら……」


 心配性なルイが、そわそわと私の手を握ってきた。


「ダメよ、ルイ。あなたのその『人の良さそうなオーラ』は、どんなに変装しても目立ちすぎるわ。それに、今回は危険な場所へ行くわけじゃない。……ただ、この街の『本当の姿』を見に行くだけよ」


 私はルイを安心させるように微笑み、ジョゼフの小さな手を引いた。


「ジョゼフ。あなたは見て知って感じる必要がある。さあ、行くわよ、もう一つのフランスへ」


 * * *


 夜明けのパリ。

 私たちは、お忍びの馬車でパリの中心部――美しく舗装され、ガス灯が輝く第4区画を通り抜け、城壁のすぐ外側にあたる東部郊外、バンリューへと向かった。


 馬車を降り、自らの足で歩き始めた途端、ジョゼフの足取りがピタリと止まった。


「……ママン。ここ、パリじゃないみたい。お空が、灰色だよ」


 ジョゼフが、怯えたように私のエプロンを強く握りしめた。


 無理もない。

 私たちの目の前に広がっていたのは、大理石の噴水も、青々とした並木道もない、文字通りの『灰色の世界』だった。


 足元はぬかるんだ泥とゴミが混ざり合ったヘドロの道。


 立ち並ぶのは、廃材を継ぎ接ぎして作られた今にも崩れそうなバラック小屋の群れ。


 そして、空を覆っているのは、安価な泥炭を燃やす強烈な匂いと、重苦しい黒煙だった。


 ここは、私たちが手を出しきれていない場所。

 フランスが誇るインフラ革命と経済成長の噂を聞きつけ、「パリへ行けば仕事がある」と地方から一攫千金を夢見て押し寄せたものの、定職に就けずに溢れ返ってしまった『新規の移民や難民たち』が吹き溜まっている、新興スラムであった。


「ジョゼフ。よく見ておきなさい。……これが、お城の外にあるもう一つの『現実』よ」


 私は、彼の肩を抱きながら、ゆっくりと泥道を進んだ。


 すれ違う人々は、誰もが虚ろな目をして、疲労に肩を落としている。


 朝早くから、日雇いの仕事を求めて中心部の市場へ向かう男たち。凍えるような水で、ひび割れた手から血を流しながら内職の洗濯をする女たち。プレハブ団地や工場に収容しきれなかった、爆発的な人口増加の歪みがここに集約していた。


「……あの子……靴、履いてないよ」


 ジョゼフが指差した先。

 路地裏のゴミの山を漁っている、一人の小さな男の子がいた。


 年齢はジョゼフと同じか、一つ上くらいだろうか。

 だが、その体はジョゼフよりもふたまわりは細く、頬は痩せこけ、服はボロボロに破れていた。彼は裸足のまま泥の中を歩き、捨てられた野菜のくずや、燃え残りの石炭を拾い集めては、持っていた麻袋に詰め込んでいた。


「行ってみましょう」


 私が背中を押すと、ジョゼフは恐る恐る、その男の子に近づいていった。


「……あの、ねえ。何をしてるの?」


 ジョゼフが声をかけると、男の子はビクッと肩を震わせ、野良犬のように警戒に満ちた目でこちらを睨んだ。


「なんだよ、お前。あっち行けよ。このゴミ山は俺の縄張りだぞ」


「ご、ごめんね。僕、縄張りを取るつもりはないんだ。ただ……そんな汚いものを拾って、どうするのかなって」


 ジョゼフの純粋すぎる質問に、男の子は信じられないものを見るような顔をした。


「汚いものって……お前、馬鹿なのか? これはただのゴミじゃねえ。燃え残りの石炭の欠片だ。これを集めて鍛冶屋の親父に持っていけば、一スーで買い取ってくれるんだよ」


「一スー……?」


「そうだ。一スーあれば、今日一日、俺と妹が食うための『黒パン』が買える。俺が拾わなきゃ、病気の母ちゃんも妹も、みんな腹を空かせて死んじまうんだよ!」


 男の子は吐き捨てるように言うと、再び泥だらけの手に息を吹きかけながら、石炭探しを再開した。


 ジョゼフは、その場で雷に打たれたように立ち尽くした。


 彼にとって、「パン」とはお腹が空けばメイドが皿に乗せて運んでくるものであり、「仕事」とは大人たちがするものという認識しかなかった。


 自分と同じ歳の子供が、家族を生かすために、泥の中でゴミを拾っている。その絶望的なまでの『生存競争のリアル』が、五歳の脳髄を揺さぶっていた。


「……可哀想だ」


 ジョゼフの大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「そんなの、絶対に間違ってる。君が泥んこになって、ご飯も食べられないなんて……」


 ジョゼフは、ズボンのポケットに手を入れた。


 そこに入っていたのは、私が今朝、「もし迷子になった時のために」とお守り代わりに入れておいた、一枚の金貨だった。


 それは、このスラムの人間からすれば、一年間休まずに働いても手が届かないほどの、圧倒的な大金である。


「これ、あげるよ!」


 ジョゼフは涙を拭い、満面の笑みでその金貨を男の子の前に差し出した。


「これで、美味しい白いパンをたくさん買って! お母さんの病気のお薬も買えるよ! だからもう、そんな汚い泥の中を探さなくていいんだ!」


 自分のもっている一番価値のあるものを、苦しんでいる人に分け与える。


 それは、五歳の子供が考えうる、純粋で美しい「善意」だった。


 だが。


 ――パーンッ!!


「えっ……?」


 乾いた音が、路地裏に響き渡った。

 男の子が、ジョゼフの手から金貨を激しく叩き落としたのだ。


 泥の中に転がり落ち、くすんでいく黄金の輝き。


「……な、なんで……?」

 ジョゼフが呆然とする中、男の子は憎悪と、そして強烈な『恐怖』に顔を歪めて叫んだ。


「馬鹿にするな!! そんな金、俺が持ってみろ! 大人に『盗んだに違いない』って言われて、袋叩きにされて警察に突き出されるだけだ!!」


「ち、違うよ! 僕があげたって言えば……!」


「誰がスラムのガキの言うことなんて信じるかよ! そもそも、お前みたいに苦労も知らねえ奴に、施しを受ける筋合いはねえ! 俺は乞食じゃねえ、自分の力で稼いで生きるんだ!!」


 男の子は、ジョゼフを強く突き飛ばした。


「わっ……!」


 ジョゼフが泥の海に尻餅をつく。

 男の子は、拾い集めた石炭の袋を抱きかかえ、脱兎のごとく路地の奥へと走り去ってしまった。


「…………うっ、ひぐっ……うわぁぁぁぁぁぁっ!!」


 残されたジョゼフは、泥だらけになった自分の手と、叩き落とされた金貨を見比べ、大声で泣き出した。


 自分の純粋な優しさが否定された悲しみ。

 そして、どうして助けてあげられないのかという、無力感。


 私は、周囲に身を潜めていた近衛兵たちを視線で制止し、ゆっくりとジョゼフの前に歩み寄った。


「……痛かったわね、ジョゼフ」


 私は泥だらけの彼を抱き起こし、泥に沈んだ一枚の金貨を拾い上げた。


「ママン……っ、どうして? 僕はただ、あの子に美味しいパンを食べてほしかっただけなのに……。僕のやり方、間違ってたの……?」


 しゃくり上げる息子を抱きしめながら、私は彼の耳元で、冷酷な世界の真理を教えるように、静かに語りかけた。


「ジョゼフ。あなたの心は、誰よりも優しくて、美しいわ。……でもね、あの子が怒ったのも当然なのよ」


「どうして……?」


「あなたが彼に差し出した金貨。それは確かに、あの子の今日のご飯を買うことはできる。でも、明日になったら? 金貨を使い切ってしまったら、あの子はまた、泥の中で石炭を拾わなければならないのよ」


 私は、ジョゼフの目を見て、はっきりと告げた。


「『施し』は、一時的に彼を助けることはできても、彼の人生を変えることはできない。むしろ、彼から『自分の力で生きる誇り』を奪ってしまう。……あの子が本当に欲しかったのは、金貨じゃないの」


「じゃあ……何が欲しかったの……?」


「それはね、『金貨を稼ぐための、正当な仕事』よ」


 ジョゼフが、ハッと息を呑む。


「ゴミ山を漁らなくても、安全な場所で働いて、自分のお給料で胸を張ってパンを買える環境。……それが、あの子が本当に必要としていたものなの」


 私は、泥だらけになった金貨を、ジョゼフの小さな手のひらに握らせた。


「よく聞きなさい、ジョゼフ。王冠の重さというのはね、金貨の重さじゃないの」


 私は、灰色の空と、立ち並ぶスラムのバラック小屋を見渡した。


「王様のお仕事は、目の前の可哀想な子供一人に、金貨を与えて同情することじゃない。……あの子のご両親が健康に働けるように『病院』を建て、あの子が泥を漁らなくて済むように『学校』を造り、みんなが豊かに暮らせるための『法律とルール』を設計することよ」


 ――王の仕事とは、国家の土台を創ること。


 その言葉の意味が、五歳の少年の心に、決して消えない強烈なくさびとして打ち込まれた瞬間だった。


「一人にパンを配るのではなく、百万人が自分でパンを焼ける国を創る。それが、王が玉座に座る理由であり、パパとママンが命懸けでやっているお仕事なの」


「…………」


 ジョゼフの瞳から、子供特有の弱々しい涙が消えた。

 代わりに宿ったのは、自らの無力さを恥じ、そして何が何でも世界を変えてみせるという、王太子としての強い『覚悟』の光だった。


「……ママン」


 ジョゼフは、泥だらけの手で顔をごしごしと拭い、真っ直ぐに私を見上げた。


「僕……お勉強する。パパみたいに機械を作ることも、ジャンヌみたいにお金の計算をすることも、ロベスピエール先生みたいに法律を考えることも、全部ぜんぶ、お勉強する!」


「ジョゼフ……」


「もう、泣かない。僕が大人になった時、あの子みたいな子供が、石炭を拾わなくていいように。……僕が、この国の一番大きな『土台』になるんだ!!」


 五歳の少年の、それは魂からの宣誓だった。


 立憲君主制というシステムの中で、王の役割を見失いかけていた彼は、この灰色のスラムで「真の王冠の重さ」を見出したのだ。


「……ええ。あなたなら、きっと世界で一番立派な王様になれるわ」


 私は泥だらけの息子を強く抱きしめ、心からの誇らしさとともに微笑んだ。


 マリー・アントワネット、27歳。

 未来のフランスを背負う王太子ジョゼフの帝王学は、机上の空論を飛び越え、最も泥臭く、最もリアルな社会の底辺から、力強くその第一歩を踏み出した。


 だが、私たちがこのスラムで「希望」を語り合っていたまさにその時。


 この灰色の新興スラムをも飲み込み、パリ全体を焼け野原にしようと企む陰謀は、最終段階へと突入しようとしていたのである。


 ジェントリフィケーションによる地代の高騰、そして合法的な立ち退き。


 デギュイヨン公爵の残党が放った「不動産戦争」の残滓は、まだ熱を失わず、私たちが恐れていた形で、パリの街に襲い掛かろうとしていた。

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