第170話 幼き王太子の問い
青空に白亜の建築が映え、美しく舗装された大通りを流麗な馬車が行き交うパリ。インフラの大革命と新憲法の制定という、二つの大きな歴史の歯車が噛み合ったフランスは、かつてないほどの安定と繁栄の季節を迎えていた。
だが、国家という船が「生存」という嵐の海を乗り越え、穏やかな凪の海へと出た時、船長たる者は全く新しい、そしてより根源的な問いに直面することになる。
「……ジョゼフも、もう五歳。まもなく本格的な学びの段階へと足を踏み入れる年齢ね」
チュイルリー宮殿の私室。
私は、窓辺から中庭を見下ろしながら、ポツリと呟いた。
眼下では、金髪を揺らしながら元気に走り回る我が子、ジョゼフの姿があった。
真新しい服に身を包み、少し背伸びをして新しい学びの世界へと飛び込んでいく子供たちの姿を見るにつけ、親としての誇らしさと同時に、言いようのない重圧が胸にのしかかってくるのを感じていた。
特に、彼が背負うことになる運命の重さを思えば。
「ママン! パパ!」
ジョゼフが、泥だらけの靴のまま私とルイのいる部屋へと駆け込んできた。
「こらこら、ジョゼフ。まずは手を洗ってきなさい。バイ菌さんがお腹に入っちゃうわよ」
私がハンカチで彼の頬の泥を拭ってやると、ジョゼフは「はーい!」と素直に頷いた。
健康で、賢く、そして何より心優しい子だ。
歴史書が記した「病弱で幼くして命を落とす王太子」の面影は、どこにもない。私たちが築き上げた清潔な環境と、栄養満点の食事が、彼の運命をねじ曲げたのだ。
手を洗い終えたジョゼフが、ふと大きな瞳で私たちを見上げて発した『ある言葉』が、私の心臓を冷たい手で鷲掴みにした。
「ねえ、ママン、パパ。……僕、大きくなったら何になればいいの?」
「え?」
私は、予想外の質問に目を瞬かせた。
「何になるって……ジョゼフは王太子殿下よ。いずれはパパの後を継いで、このフランスの立派な『王様』になるのよ」
私が微笑みながらそう答えると、五歳の少年は、首をコテリと傾げて、無邪気に、そして極めて残酷な論理で問い返してきた。
「でもさ、この前ロベスピエール先生が言ってたよ。『今のフランスは憲法っていうルールで動いていて、決まり事はみんなで話し合う国民議会が決める』って。……それに、パパはいつも地下で機械を作ってるし、ママンはジャンヌたちとお金の計算をしてるじゃない?」
ジョゼフは、真剣な顔で模型の歯車を指差した。
「ルールは法律が決めて、機械はエンジニアが作って、お金はお金持ちが動かすんでしょ?……じゃあ、『王様』のお仕事って、一体なんなの?」
――ガツン、と。
私とルイは、目に見えないハンマーで後頭部を殴られたような衝撃を受け、その場に絶句した。
「王様のお仕事は……それは……」
ルイが口ごもる。
無理もない。かつてのフランスであれば、「王とは神に選ばれし絶対者であり、国そのものである」と答えれば済んだ。王の言葉が法であり、王の気まぐれがすべてだったからだ。
しかし、私たちは自らの生存のために、その絶対王政を自らの手で解体した。
新憲法により、王は「法に従って国家を運営する執行責任者」へと格下げされた。実務は各分野の専門家たちが担い、システムが自動的に国を回す。それが私たちが目指した「安全な国家」の完成形だった。
だが、その結果として……。
「立憲君主制下における王の存在意義」が空洞化してしまっていたのだ。
「……ママン? パパ?」
不安げに私たちを見上げるジョゼフに、私は必死に笑顔を取り繕い、「パパとママンで、ジョゼフにとって一番素敵なお仕事を考えておくからね」と言って、彼を乳母に預けた。
扉が閉まった瞬間、私とルイは同時に深々とため息をつき、頭を抱えた。
「……痛いところを突かれたね。子供の純粋な疑問というのは、時にどんな哲学者の論文よりも鋭い」
ルイが、作業着のポケットから油で汚れた手ぬぐいを取り出し、力なく顔を拭った。
「ええ……。私たちが必死に生き延びるために作った『新しいフランス』は、皮肉なことに、ジョゼフから『王としての明確な役割』を奪ってしまったのよ」
私は、扇子を握りしめたまま、ギリッと唇を噛んだ。
何もやることがない、ただ玉座に座ってハンコを押すだけの王。それは一見すると安全で気楽なポジションに見える。
しかし、歴史の修正力という魔物を知っている私には、それがどれほど危険な状態か理解できた。
「権力を持たず、存在意義も見出せないまま大人になれば、彼は周囲の貴族や野心家に操られる『都合の良いお飾り』になってしまう。あるいは、満たされない自尊心を埋めるために、享楽に溺れる暗君になるかもしれない。……そんな王を、新時代の民衆が敬うはずがないわ。いずれ必ず、第二の革命が起きてしまう!」
断頭台の凶刃は、私とルイの世代では回避できたかもしれない。
しかし、ジョゼフの世代で彼が「無能な王」の烙印を押されれば、フランスは再び血の海に沈む。私たちが築いたインフラも、憲法も、すべてが彼を処刑するための舞台装置へと反転してしまうのだ。
「……ルイ。これは、インフラ整備よりも、憲法制定よりも、遥かに重大で困難な『国家の最優先プロジェクト』よ」
私は、覚悟を決めた目でルイを見据えた。
「ええ。僕たちの手で……ジョゼフに『新しい時代の王冠の重さ』を教えなければならない。……アベンジャーズを召集しよう」
その日の夜。
チュイルリー宮殿の最も厳重な秘密会議室に、フランスを牽引する最高頭脳たちが集結していた。
王室最高法務顧問・ロベスピエール。
軍事および兵站総司令官・ナポレオン。
財務特別監査局長・ジャンヌ。
賑やかし担当・モーツァルト。
そして、天才数学者・ラプラス。
「……なるほど。王太子殿下の『帝王学』のカリキュラムに関する御前会議、というわけですか」
私が事の経緯を説明すると、ロベスピエールが銀縁眼鏡を押し上げ、深く頷いた。
「これは極めて重要な議題です。王妃様が危惧される通り、新憲法下の王は、ただ血筋だけで尊敬される存在ではありません。……殿下には徹底した『法学と哲学』の教育が必要です。ルソーの社会契約論を暗唱させ、王とは国民第一の奉仕者であるという理念を、骨の髄まで叩き込むべきです」
「生ぬるいですね、法務顧問殿」
ロベスピエールの提案を即座に一刀両断したのは、ナポレオンだった。
彼は懐中時計の蓋をカチンと鳴らし、冷徹な軍人の目を光らせた。
「奉仕者などという言葉では、いざという時に七十万のパリ市民、ひいては数千万のフランス国民を導くことはできません。群衆が王に求めるものは、法律の知識ではなく『圧倒的なカリスマと力』です」
「力だと? 貴官はまた、王を軍事独裁者にでもする気か!」
「現実を見なさい。対仏大同盟の脅威は去っていない。王とは、国家最大の武力装置のトップです。殿下には、幼少期よりマスケット銃と大砲の弾道計算を叩き込み、戦場で血と硝煙の匂いを嗅がせ、将兵の心を掌握する『統率力』を身につけさせるべきだ」
「いやいやいや、待ってくれ二人とも!」
激突する法と軍事の天才たちの間に、ルイが慌てて割って入った。
「ジョゼフはまだ五歳だよ!? 哲学だの弾道計算だの、そんな重いものを背負わせたら、彼の心が潰れてしまう!もっとこう……機械工学とか、流体力学とか、モノ作りの楽しさを教えることから始めればいいじゃないか。自分で蒸気機関を組み立てられる王様なんて、最高にクールだろ?」
「陛下、それは単なる陛下の趣味の押し付けですわ」
ジャンヌが、氷のように冷たい声でオタク王を切り捨てた。
「王とは国家の『最高経営責任者』です。殿下に最も必要なのは、複式簿記とマクロ経済学の知識! 感情に流されず、常に投資とリターンの損益分岐点を冷酷に計算できる『金庫番の目』こそが、国を豊かにするのです!」
「私の確率論的予測モデルによれば、あなた方の教育論はすべて偏っており、王太子殿下の人格形成において重大なバグを引き起こす確率が99.8%です」
ラプラスまでが参戦し、会議室はそれぞれの「己の天才性」をジョゼフに叩き込もうとする、エゴと理想の暴走状態に陥っていた。
「……みんな、ストップ!!!」
私は扇子をテーブルにバンッと叩きつけ、彼らの議論を強制終了させた。
「あなたたちの言うことは、全部正しいわ。法も、軍事も、経済も、科学も。新時代の王には不可欠な要素よ。……でもね、あなたたちは一番大事なことを忘れているわ」
私は、立ち上がり、天才たちの顔を一人一人見据えた。
「ジョゼフは、あなたたちのような最初から完成された天才じゃない。……血の通った、たった五歳の男の子なのよ。本でルソーを読ませても、机の上で損益計算書を見せても、彼の心には決して届かない。……生きた経験が伴わなければ、どんな帝王学もただの暗記の苦行になってしまうわ」
「リアル、ですか……?」
ロベスピエールが怪訝な顔をする。
「ええ。あなたたちの専門知識を教え込むのは、もう少し先でいい。今、この真っ白なキャンバスのような時期に、ジョゼフに最も教えなければならないこと。……それは『王冠の重さ』そのものよ」
私は、自らの胸に手を当てた。
かつて私自身が、無知な小娘から、泥水にまみれて戦う「フランス王妃」へと生まれ変わるために必要だった、強烈な原体験。
「王様の仕事とは何か。……それを言葉で教えるのではなく、ジョゼフ自身の肌で、心で、痛いほど感じてもらう。そのための『特別なフィールドワーク』を、明日から決行するわ!」
「フィールドワーク……。一体、どこへ行かれるおつもりですか?」
ナポレオンが問う。
私は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「決まってるじゃない。私たちが血と汗と涙を流して築き上げた、この美しいフランスの『一番底』……。煌びやかな大通りを支え、泥にまみれながら社会の土台を維持し続けている、労働者たちの熱気が燃える現場よ」
マリー・アントワネット27歳。
教育とは、知識の詰め込みではない。魂への着火である。
私は、愛する息子をあえて温室から引きずり出し、立憲君主制という新たな時代の「真の帝王」として鍛え上げるための、規格外の教育プログラムを始動させた。
これは、一人の幼き王子が、己の運命と王冠の真の重さを知るための、壮大にして過酷な「社会科見学」の幕開けであった。




