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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第169話 誤作動する鼓動

 春の驟雨しゅううは、通り過ぎるのも早かった。


 ヴァンセンヌの森を濡らした雨雲は東へと抜け、雲の切れ間からは再び眩いばかりの陽光が差し込み始めている。草木は雨露を弾いてキラキラと輝き、まるで世界全体が洗い立ての宝石のような美しさを放っていた。


「……天候の回復を確認。雨期は過ぎました、ジャンヌ殿」


 ミッドナイトブルーのコートの下で作られていた「二人だけの密室」が、ふわりと持ち上げられる。


 アーサーはコートをバサリと振り、水滴を弾き飛ばすと、再びいつもの無表情な――しかし、どこか体温の熱を残した顔で、ジャンヌを見下ろした。


「あ、ありがとう存じます……。おかげで、私のドレスは濡れずに済みましたわ」


 ジャンヌは、真っ赤に茹で上がった顔を両手で仰ぎながら、視線を彷徨さまよわせた。


 彼女の防衛は完璧だった。だが、目の前に立つ「最強の盾」自身の状態は、お世辞にも無傷とは言えなかった。


「……アーサー! あなた、全身ずぶ濡れじゃありませんの!」


 ジャンヌが悲鳴を上げるのも無理はない。

 コートを傘代わりにしてジャンヌを覆っていたアーサーは、薄い白のシャツ一枚で豪雨を真っ向から浴びていたのだ。


 上質なシャツは雨水を吸って肌にぴったりと張り付き、彼の鍛え上げられた胸板や、引き締まった腹筋のシルエットを、彫刻のように生々しく浮かび上がらせている。さらに、水も滴る銀色の前髪の隙間から覗く、獲物を狙う獣のように鋭くも静謐せいひつな瞳。


(……ッッッ!! 破壊力が高すぎますわ!? これほどの美と筋肉、王室の帳簿外資産として計上しなければならないレベルですのよ!?)


 ジャンヌの脳内ソロバンが、煩悩という名のバグを引き起こして火花を散らす。


 だが、見惚れている場合ではない。春とはいえ、雨に濡れた体で風に当たれば急激に体温を奪われる。


「いけませんわ、すぐに馬車へ戻りますわよ! このままではあなたが……私の重要な防衛戦力が、風邪という名の不良債権に陥ってしまいます!」


「問題ありません。私の基礎体温維持機能は……」


「黙って私の言うことを聞きなさい!!」


 ジャンヌは強引にアーサーの腕を掴み、迎えの装甲馬車へと足早に歩き出した。


 * * *


 チュイルリー宮殿、財務特別監査局の奥にある、ジャンヌの私室。


 馬車で宮殿に帰還したジャンヌは、アーサーを自らの部屋に押し込み、最高級のふかふかなタオルを何枚も彼の頭からバサバサと被せた。


「さあ! 今すぐその濡れたシャツを脱いで、体を拭きなさいな! 温かいハーブティーも淹れますから!」


「……ジャンヌ殿。私は護衛です。対象者の私室に上がり込み、あろうことか武装と衣服を解除するなど、軍律違反の極みです。直ちに廊下での警備任務に……」


「却下ですわ!!」

 ジャンヌは、部屋の扉を背にして通せんぼするように立ち塞がった。


「いいですか、アーサー。これは財務長官としての『業務命令』です! 今のあなたの状態は、水濡れによって装備の耐久値が著しく低下している『要メンテナンス状態』。そんな状態で私の護衛をするなど、リスク管理の観点から絶対に認めません!」


「……しかし」


「つべこべ言わずに脱・ぎ・な・さ・い!! 私が目を逸らしている間に!!」


 ジャンヌが真っ赤な顔で両手で目を覆うと、アーサーは小さくため息をついた。

「……承知しました。命令とあらば」


 ガサッ、と濡れた布が肌から離れる音が響く。

 指の隙間からほんの少しだけ様子をうかがっていたジャンヌは、思わず息を呑んだ。


 現れたのは、過酷な任務と戦場で培われた、一切の無駄な脂肪がない完璧な肉体。だが、その滑らかな肌には、無数の「古い傷跡」が刻まれていた。


 刃物による切り傷、銃弾が掠めた痕。それは彼が今まで、どれほどの死線を潜り抜け、血みどろの任務を遂行してきたかを無言で物語る『勲章』であった。


(……この人は、こんなにも傷だらけになるまで、自分を削って……)


 胸の奥が痛んだ。

 投資だの、資産だの、合理的な言葉で武装している彼だが、その実態は「自分自身の価値を極限まで低く見積もり、他者を守るためだけに生きている」不器用すぎる男なのだ。


「……濡れた装備の破棄、完了しました。水分の拭き取りを行います」


 アーサーは半裸のまま、タオルで無造作にガシガシと銀髪を拭き始めたが、その手つきは乱暴で、ただ水気を散らしているだけだった。


「……もう。本当に、自分のことになるとポンコツなんだから」

 ジャンヌは呆れたように歩み寄ると、アーサーの手からタオルを奪い取った。


「失礼しますわよ」

「ジャンヌ殿?」


 ジャンヌは背伸びをして、アーサーの濡れた銀髪を、柔らかいタオルで優しく包み込むように拭き始めた。


「……っ」

 アーサーの肩が、微かにビクッと跳ねる。


「動かないでくださいな。私の資産が錆びつかないように、丁寧にメンテナンスしてあげているんですから」


 ジャンヌは、心臓が口から飛び出そうになるのを必死に堪えながら、彼との距離を詰めた。


 石鹸の香りと、雨の匂いが混ざり合う。

 タオル越しに伝わってくるアーサーの頭の形、そして彼から放たれる圧倒的な熱量。


 至近距離で見つめる彼の横顔は、普段の冷徹な暗殺者のそれではなく、主人の手入れを大人しく受ける、大型犬のように無防備なものだった。


「……ジャンヌ殿」

 不意に、アーサーが低く掠れた声で彼女の名を呼んだ。


「な、なんですの?」


「……任務外の接触は、私のセンサーに深刻なノイズを生じさせます。直ちに中止を……」


「中止しませんわ。これも『投資』の一環ですから」

 ジャンヌは意地悪く微笑み、拭き終わった彼の前髪を、指先でそっと撫でて整えた。


 その、指先が彼の額に触れた瞬間だった。

 ――ガシッ。


「あっ……!」


 アーサーの大きな手が、ジャンヌの細い手首を、逃げ場のないほどの力強さで――しかし決して痛みを与えない絶妙な力加減で、きつく握りしめたのだ。


「ア、アーサー……?」


 ジャンヌが見下ろすと、椅子に座るアーサーの瞳が、これまでに見たことのないほど暗く、熱い光を帯びて彼女を真っ直ぐに見上げていた。


 それは、冷徹な機械の目ではない。一人の「男」としての、圧倒的な熱情を秘めた瞳。


「……警告したはずです」


 アーサーは、ジャンヌの手首を引いた。

 抗う間もなく、ジャンヌの体はバランスを崩し――気がつけば彼女は、半裸のアーサーの逞しい太腿の上、すなわち『彼の膝の上』にすっぽりと収まる形で座らされていた。


「きゃあっ!? な、なにを……っ!!」


「……異常が発生しています」


 背中から、彼のがっしりとした両腕が回り込み、ジャンヌの体を逃がさないようにすっぽりと抱き込む。彼の熱い胸板が、ジャンヌの背中にピタリと密着した。


「い、異常って……! 離しなさいな、こんな至近距離、監査基準を大幅に逸脱していますわ!!」


 真っ赤になって暴れようとするジャンヌ。だが、アーサーは彼女の体を拘束したまま、彼女の右手をそっと取り、己の『左胸』――心臓の位置へとピタリと押し当てた。


「……確認してください。これが、現在の私のエラー状況です」


 ジャンヌの手のひら越しに、直接伝わってくる鼓動。


 ――ドッドッドッドッドッドッ……!!!


「……えっ?」


 ジャンヌは息を呑んだ。

 彼の心臓は、まるで暴走する蒸気機関のように、異常なまでの早鐘を打っていたのだ。


 どんな過酷な戦闘下にあっても、銃口を向けられても決して乱れることのなかった、あの氷のように冷酷な暗殺者の心拍数が、今、破裂しそうなほどに跳ね上がっている。


「私の肉体は、感情の起伏によって心拍が乱れないよう、徹底的に訓練されてきました。いかなる薬物や拷問でも、この自律神経を崩すことはできない。……はずでした」


 アーサーは、背後からジャンヌの首筋に、自分の熱い額をコツンと預けた。

 彼の吐息が、ジャンヌの耳元をくすぐる。


「……ですが、貴女が私に触れるたび。貴女が私を案じて、その美しい瞳を向けてくれるたび。……私の制御システムは機能不全に陥る」


「ア、アーサー……」


「これは、極めて致命的な問題です」

 アーサーの腕に、ギュッと力がこもる。

 それは、何があっても自分の「最愛の資産」を手放さないという、独占欲に満ちた強い抱擁だった。


「ジャンヌ殿。貴女は、私の防衛対象であると同時に……私の理性を破壊する、最も危険な存在だ。……これ以上、私に優しくしないでいただきたい。さもなくば、私は護衛という立場を忘れ、貴女を……」


 彼の声は、熱に浮かされたように甘く、そして危うかった。

 その言葉の続きが何を意味するのか。ジャンヌの優秀な頭脳が、それを理解できないはずがない。


 ジャンヌの心臓もまた、彼と同調するように狂ったようなビートを刻んでいた。


 顔は沸騰しそうに熱く、全身の力が抜けていく。だが、彼女は「悪魔の金庫番」。ここで黙ってただ守られるだけの、か弱い乙女ではない。


(……この男、どこまで無自覚に私の市場価値を高騰させれば気が済むんですの!? ならば、私も『投資家』としての意地を見せてやりますわ!!)


 ジャンヌは、震える息を深く吸い込むと。

 彼の胸に当てていた手を、そっと上に滑らせ、彼のがっしりとした首筋へと回した。


「……ば、バカを言わないでくださいな」


「ジャンヌ殿?」


「優しくするなと言われて、はいそうですかと手を引くような、底の浅い投資家だと思わないでいただきたいですわ」


 ジャンヌは、真っ赤な顔のまま、背後にいるアーサーの方へと少しだけ顔を向けた。


「私の計算によれば、あなたのその『エラー』は、問題でも病気でもありません。……人間として極めて正常な、投資に対する『利息』の支払いですわ」


「利息……?」


「ええ。あなたが私を最優先防衛目標として生涯守り抜くというのなら。私もまた……あなたという最高の資産を、一生かけて独占し、メンテナンスし続ける義務がありますの。……だから、その狂った心拍数は、私にだけ支払われる『特別配当』として、喜んで回収させていただきますわ!」


 それは、ジャンヌ流の、不器用で、プライドが高くて、最高に情熱的な愛の告白に他ならなかった。


「…………ッ!!」

 アーサーの瞳が、驚きに大きく見開かれる。


 数秒の沈黙の後。

 氷の暗殺者の口元から、ふっと、これまでで一番柔らかく、そして熱を帯びた笑みがこぼれた。


「……完全な敗北です。貴女の監査の前には、私のどんな防衛壁も意味を成さない」


 アーサーは、ジャンヌの肩を優しく引き寄せ、彼女の華奢な体を自分の腕の中に閉じ込めた。


「ならば、ジャンヌ長官。私の全存在の管理権限を、今この瞬間から、貴女一人に譲渡します。……一生、私を監査し続けてください」


「っ……! と、当然ですわ! 1サンチームの誤差も許しませんからね……っ!」


 ジャンヌは涙目で強がりながら、彼に身を預けた。


 雨上がりの午後。チュイルリー宮殿の奥深くの私室で、軍事と経済の論理を極限までこじらせた二人の不器用な男女は、これ以上ないほど甘く、そして絶対に誰にも破ることのできない『生涯の専属契約』を交わしたのである。


 * * *


「……最高よ! もう、最高オブ最高!!」


 隣の部屋の壁に耳を押し当てながら、私は、口元をハンカチで押さえて音無き歓喜の悲鳴を上げていた。


「二人がゆっくり馬車で戻ってくる間に、マリー・エクスプレス号で爆速で先回りしてスタンバイした甲斐があったわ! 無自覚スパダリ暗殺者と、ツンデレ悪魔の金庫番! この二人のロマンス、パリ中の新聞で連載したら絶対にバカ売れするわ!!」


「……王妃様、部下のプライバシーを金に換えようとするのは、いくらなんでもブラックすぎます」


 隣で同じく耳を当てていたナポレオンが、冷静にツッコミを入れつつも、手帳に『ジャンヌ&アーサー契約完了。国家防衛力・財政基盤のシナジー、無限大』と、きっちり記録を残している。


 マリー・アントワネット、27歳。

 春風とともに訪れた、最強で不器用な恋の結末。


 フランスという国家の歯車は、彼らの強固な愛によって、さらに無敵の駆動力を得て、新たな歴史のステージへと力強く回り始めるのであった。

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