第168話 春の野外演習
1783年、春。
マリー・アントワネットと愉快な仲間たちが成し遂げた「パリ・インフラ大革命」から数ヶ月。下水道と浄水システムが完璧に稼働し始めた花の都は、かつてないほどの清潔さと活気に満ち溢れていた。
疫病の影は払拭され、新憲法による私有財産権の保護が経済活動を劇的にブーストさせている。フランス国家の財政は、まさに我が世の春を謳歌していた。
しかし。
チュイルリー宮殿の奥深く、財務特別監査局の長官室においては、国家の黒字化とは裏腹に、一人の女の「内なるバランスシート」が深刻な問題を引き起こしていた。
「……おかしいですわ」
財務長官ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワは、分厚い秘密帳簿に突っ伏し、熱を持った頬を両手で挟んで深々とため息を吐いていた。
彼女の目の前にある帳簿には、本来ならば国家予算の推移が緻密な数字で記されているはずだった。だが、今の彼女の帳簿の端には、無意識のうちに書き込まれた『A』というイニシャルや、謎の計算式がびっしりと並んでいた。
『投資対象:王室警護長アーサー』
『初期投資額:銀の懐中時計』
『回収見込みリターン:絶対的な安全、心拍数の異常な上昇、間接キスによる精神的ダメージ無限大』
「……ダメですわ。彼が視界に入るたびに、私の心臓が不規則な鼓動を打ち、脳内の冷静な判断力がショートしてしまいます。……これは由々しき事態。恋という名の減価償却が、私の寿命を縮めていますわ」
夜会での、あの完璧なエスコートとダンス。
『貴女という最高の国家資産を、生涯をかけて防衛する。それが、私の新たな存在理由です』
あの言葉を思い出すだけで、ジャンヌの顔は瞬時に沸騰したヤカンのように真っ赤になり、頭からプシューッと湯気が噴き出しそうになる。
(……このままでは、仕事になりませんわ。私がこの非合理な感情を解消するためには、自ら積極的にアクションを起こし、この関係性を『コントロール可能な事業計画』へと昇華させるしかありませんのよ!)
ジャンヌはガバッと顔を上げ、銀縁眼鏡をクイッと押し上げた。
彼女はすぐさま立ち上がり、扉の外で直立不動の警備に就いているアーサーのもとへ向かった。
「ア、アーサー! ちょっとよろしいかしら!」
「はい、ジャンヌ殿。何か異常が?」
アーサーは瞬時に片手を懐のナイフに添え、鋭い視線で廊下の左右を索敵した。
「い、異常はありませんわ! そうではなくて……その、本日の午後、パリ郊外の農地における『春季・農業生産力の視察』に向かいます! つきましては、あなたに護衛と……その、演習の協力を命じますわ!」
顔を真っ赤にして早口で捲し立てるジャンヌ。
要するに「お弁当を作ったから、一緒に郊外へお花見に行きましょう」という、不器用極まりないデートの誘いであった。
「……農業生産力の視察、および野外演習ですか」
アーサーは少しだけ首を傾げたが、すぐに軍人の顔に戻り、胸に手を当てた。
「承知しました。ジャンヌ殿の特別任務とあらば。……ただちに市街地を抜けるための装甲馬車を手配し、郊外での隠密・警護フォーメーションを構築します。想定される敵対勢力は?」
「敵はいませんわ!! お花畑と、サンドイッチがあるだけですのよ!!」
ジャンヌが悲鳴のようなツッコミを入れていると。
「……ねえ、ナポレオン」
「はい、マリー」
廊下の曲がり角から、私とナポレオンは、その一部始終を双眼鏡と手帳を持ちながらニヤニヤと見守っていた。
「ジャンヌのやつ、また『デートの誘い』を『軍事ミッション』にすり替えたわね。不器用すぎてキュンキュンするわ!」
「自己正当化の極みですね。しかし、アーサーもそれを純粋な野外演習として受諾している。ある意味で需要と供給は一致しています」
「これは見逃せないわね。ナポレオン、今日の午後のスケジュールはオールキャンセルよ! 『ジャンヌの春のピクニック監視任務』を発動するわ!」
「……非生産的極まりないですが、部下の心理状態を把握するのも上司の務め。王妃様の極秘視察としてお供しましょう」
かくして、教職員アベンジャーズのトップ二名による、手厚すぎる「ストーカー任務」が幕を開けたのである。
午後。パリ郊外、ヴァンセンヌの森。
春の柔らかな日差しが降り注ぎ、若草の香りが風に乗って運ばれてくる美しい草原。王室の所有する安全な私有地であり、ピクニックにはこれ以上ない最高のロケーションである。
だが、その美しい草原のど真ん中に敷かれた純白のシートの上には、極めて異質な緊張感が漂っていた。
「……周囲1キロ圏内、不審な動体反応なし。風速2メートル、風向き南南西。毒虫や野犬の接近経路もロックしました」
アーサーはシートの上に正座したまま、片手に小型の単眼鏡を持ち、鋭い鷹の目で周囲の森をギロギロと警戒し続けている。その姿は、お花見を楽しみに来た青年というより、最前線で狙撃手を警戒する特殊部隊員そのものであった。
「ア、アーサー……。ここは王室の私有地ですわ。そんなに殺気を放っていては、せっかくの小鳥たちも逃げてしまいますのよ?」
ジャンヌは、フリルのついた可愛らしい春用のドレスの裾をいじりながら、引きつった笑いを浮かべた。
「油断は禁物です、ジャンヌ殿。自然界は暗殺者の宝庫。例えばあの美しい色のキノコも、致死性の毒を持っています。貴女の命を脅かす可能性が僅かでも存在する以上、私の警戒レベルを下げるわけにはいきません」
「ここは戦場じゃありませんわ!!」
ジャンヌは思わず叫び、持参した巨大なバスケットをドンッとシートの中央に置いた。
「いいから、索敵は一時中断してこちらを向きなさいな! ……ほ、ほら。視察の間の『栄養補給』として、携帯食料を作ってきましたのよ!」
ジャンヌがバスケットを開けると、そこには「携帯食料」などという無骨な言葉からは想像もつかない、宝石箱のような料理が詰まっていた。
柔らかな白パンに国産の最高級ハムとチーズを挟んだサンドイッチ、色鮮やかな春野菜のテリーヌ、そして食後のデザートには、イチゴをふんだんに使った小さなタルトまで綺麗に並べられている。
帳簿の計算をする合間に、彼女が顔を真っ赤にしながら王室の厨房を借りて手作りした、渾身の「愛妻弁当(仮)」であった。
「な、なんですかその目は! 勘違いしないでくださいませ。これはあくまで、私の護衛として高いパフォーマンスを維持してもらうための、カロリーの『先行投資』ですわ! あなたのために作ったわけじゃ……!」
「……驚異的です」
ジャンヌのツンデレな言い訳を遮り、アーサーはバスケットの中身を見て真剣な声で呟いた。
「炭水化物、タンパク質、ビタミンが完璧な比率で配置されている。しかも、片手で素早く摂取可能な形状に加工されているとは。……これほど戦略的かつ士気を高揚させる美しい兵站は、前線で見たことがありません」
「そ、そうでしょう!? 私の計算に狂いはありませんわ!」
ジャンヌは得意げに胸を張りつつも、アーサーの無自覚なベタ褒めに顔をりんごのように赤く染めた。
「さあ、新鮮なうちに召し上がれ!」
ジャンヌがサンドイッチを一つ手に取り、アーサーへと差し出した。
だが、アーサーはそのサンドイッチを受け取るのではなく、おもむろに顔を近づけ、ジャンヌが持っているサンドイッチを直接「カプッ」と一口かじったのだ。
「――ッ!?」
ジャンヌの心臓が、本日最初のオーバードライブを引き起こした。
至近距離まで近づいたアーサーの整った顔。彼の吐息が指先にかかり、ジャンヌは全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。
(ち、ちちち、近いですわ!? しかも私の手から直接!?)
「……異常なし。痺れ、味覚の違和感は確認できません。極めて安全かつ、美味な補給物資です。どうぞ、ジャンヌ殿。安全は私が保証します」
アーサーは真剣な顔で毒見を完了し、事も無げにジャンヌの手元を促した。
「ど、どうぞって……! あなた、また毒見の口実で……ッ!! 乙女が徹夜で作ったお弁当を、なんのロマンチックなムードもなく事務的にかじるなんて、この超実践的ポンコツ暗殺者ァァァッ!!」
「? 毒見は私の最優先義務ですが。ジャンヌ殿、なぜそんなに顔が赤いのですか。やはり春の陽気で体温調節機能に異常が……」
ジャンヌの悲鳴が、ヴァンセンヌの森に空しく響き渡った。
「ふふふっ、ジャンヌのやつ、アーサーの『無自覚な天然タラシ防御』に振り回されてるわね!」
少し離れた茂みの陰から、私とナポレオンはカモフラージュマントを被りながら、二人の様子を双眼鏡で観察していた。
「ええ。アーサーの行動原理は100%『対象の防衛』ですが、そのプロセスが極めて恋愛的なスキンシップに酷似しているため、ジャンヌ長官の自律神経が悲鳴を上げています。見事なまでのすれ違いですね」
私たちが面白がって実況を続けていると、ふと、空の様子が急変し始めた。
春の天気は変わりやすい。先程までの青空が嘘のように、西の方角から黒い雨雲が猛スピードで接近し、冷たい風が吹き始めたのだ。
「……マリー、急激な気圧の低下です。通り雨が来ますよ」
「あら大変! ジャンヌたち、傘なんて持ってきてないわよ!」
ポツリ、と大粒の雨が降り始めたかと思うと、瞬く間にそれは激しい驟雨となって草原を打ち据えた。
「きゃっ!? あ、雨ですわ!?」
ジャンヌが慌ててバスケットを庇うが、彼女の春用の薄いドレスは、冷たい雨粒に打たれてすぐに濡れ始めてしまった。
その瞬間。
――バサァッ!!
ジャンヌの視界が、深いミッドナイトブルーの闇に覆われた。
アーサーが、己が身に纏っていた漆黒のフロックコートを瞬時に脱ぎ捨て、それをジャンヌの頭上からすっぽりと被せたのだ。
「ア、アーサー……っ?」
突然の暗闇と、コートから香る彼自身の体温と微かな硝煙の匂い。
ジャンヌが驚いて見上げると、アーサーはシャツ一枚の姿になりながら、コートの端を両手で支え、彼女の上に「小さなテント」を作るようにして覆い被さっていた。
「……気象の急変を予測できなかった私の落ち度です。申し訳ありません、ジャンヌ殿」
アーサーの顔は、ジャンヌの顔からわずか数センチの至近距離にあった。
雨音に遮られた狭い空間の中で、二人の呼吸が重なり合う。
「わ、私は大丈夫ですわ! それより、あなたが濡れて……!」
「私のコートは、特殊な防水ワックスでコーティングされています。どんな豪雨でも、内側に水は通しません。……貴女の体温低下を防ぐのが、現在の最優先防衛任務です」
雨が激しさを増し、アーサーの白いシャツが雨に濡れて、その下にある鍛え上げられた彫刻のような筋肉が透けて見え始める。
ジャンヌは、目の前にある強靭な肉体と、自分を雨から守るために微動だにしない彼の真剣な瞳に、心臓が爆発しそうになっていた。
(ち、近いですわ……! 近すぎますわ! 彼の心臓の音が、私の胸にまで伝わってきますの……っ!)
「……アーサー」
ジャンヌは、震える声で彼を見上げた。
「はい」
「こんな雨の中で……私なんかのために、風邪を引いてしまったら、どうするんですの……。あなたは、フランスの重要な防衛戦力ですのに……」
ジャンヌの言葉に、アーサーは雨に打たれながらも、極めて静かに、そして真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返した。
「……間違っていますよ、ジャンヌ殿」
「えっ?」
「私の肉体は、どんな過酷な環境にも耐えうるように訓練されています。この程度の雨で機能停止には陥りません。……しかし、貴女が雨に濡れ、少しでも体調を崩せば、フランスの財政は深刻なダメージを受ける。そして何より……」
アーサーは、コートを支える腕に少しだけ力を込め、ジャンヌの体を自分の方へと優しく引き寄せた。
「私の『心』が、致命的なエラーを引き起こす。……貴女という最高の資産が傷つくこと、それ自体が、私にとって最大の損失なのです」
ドクンッ!!
ジャンヌの頭の中で、ついに限界を超えた「恋のストップ高」が記録され、すべての思考回路が融解した。
ロマンチックのかけらもない、経済と軍事の単語だけで構成された言葉。
なのに、それは世界中のどんな詩人の愛の言葉よりも、不器用で、熱く、ジャンヌの魂を撃ち抜いていた。
「あ……ぅ……、アーサーの、バカ……っ」
ジャンヌは真っ赤な顔を隠すように、アーサーの濡れた胸元にコツンとおでこを押し付けた。
「私がこんなに……計算を乱されているのに。あなただけ、ずっと冷静な顔をして……本当に、ずるい人ですわ」
雨音だけが響き渡るコートの下の密室で、悪魔の金庫番は、無慈悲な暗殺者の胸の中で陥落していた。
アーサーは、自分の胸に顔をうずめるジャンヌを見て、少しだけ戸惑ったように目を瞬かせた後……そっと、片手を彼女の背中に回し、不器用な手つきで優しく抱きしめ返した。
「……体温の低下は確認できませんね。むしろ、少し熱いくらいだ」
「うるさいですわ! これ以上、私の心拍数を上げないでくださいませ!!」
雨上がりのヴァンセンヌの森。
雲の切れ間から差し込んだ春の陽光が、ミッドナイトブルーのコートの下で寄り添う二人を、どこまでも優しく照らし出していた。
「……素晴らしい。大成功ですね、マリー」
遠くの茂みから、双眼鏡を下ろしたナポレオンが満足げに手帳を閉じる。
「ええ! もうお腹いっぱいよ。不器用な二人には、これくらいのアクシデントがちょうどいいスパイスね!」
マリー・アントワネット、27歳。
フランス国家の財政と治安を担う最強の二人は、軍事と経済の論理を激しくすれ違わせながらも、誰よりも強固で、甘く危険な「絶対防衛の恋」を確実に育み始めていたのである。




