第166話 バスティーユ監獄襲撃事件
底冷えのするパリの裏路地。
表通りの輝かしいガス灯の光が届かない、薄暗く湿った地下酒場に、どす黒い怨念と熱狂が渦巻いていた。
「聞け、パリの市民たちよ!! 我々は騙されていたのだ!!」
木箱の上に立ち、血走った目で群衆を扇動しているのは、破産した悪徳投資家、モローだった。
「王妃が街を綺麗にしただと? 笑わせるな! あれは我々平民の生活を管理し、気に入らない者を力ずくで排除するための『罠』だったのだ! つい数日前、団地で何が起きたか知っているだろう! 王妃の私兵部隊が、武装して押し入り、正当な家賃を受け取っていただけの市民たちを、問答無用で暴力的に叩き出したのだ!!」
モローの悲痛な叫びに、酒場に集まった数百人の男たちが、怒りのどよめきを上げた。
集まっているのは、団地で「タコ部屋ビジネス」を潰されて恨み骨髄の元労働者たちや、王室のプレハブ団地戦略によって破産に追い込まれたブルジョワの大家たち。さらには、デギュイヨン公爵が裏で金を握らせて潜り込ませたプロの暴動扇動家たちである。
「法治国家だなどと嘯きながら、自分たちの都合が悪くなれば『衛生』を口実に暴力を振るう!あんなオーストリア女の独裁を許してなるものか! 明日は我が身だぞ! 俺たちの財産と自由を守るために、今こそ立ち上がる時だ!!」
「「「そうだ!! オーストリア女を許すな!!」」」
群衆の怒りが頂点に達した時、酒場の奥から、黒マントを被ったデギュイヨン公爵の密使が、何十丁ものマスケット銃を床に放り投げた。
「武器を持て、市民よ! だが、チュイルリー宮殿へ攻め込むには、まだ弾薬が足りない。……まずは、東にそびえる『暴政の象徴』を叩き潰すのだ!」
モローが指差した方角。
それは、パリの東部にそびえ立つ巨大な石の要塞。
「バスティーユ監獄だ! 俺は元看守だから知っている! あそこの地下弾薬庫には、王室が溜め込んだ二万ポンドもの火薬がある! バスティーユを襲撃し、火薬を奪い、無実の罪で囚われた政治犯たちを解放して我々の指導者として迎え入れるのだ!!」
「「「バスティーユへ!! 暴君の城をぶっ壊せ!!」」」
1782年、冬。
デギュイヨン公爵の緻密な心理操作と、マリー・アントワネットが振るった「衛生の強制執行」という劇薬が化学反応を起こし。
史実より七年も早く、フランス革命の最大の象徴であるバスティーユ襲撃への導火線に、火が点けられたのである。
* * *
「……暴徒の数、およそ一万!! 斧や猟銃、さらには奪った大砲まで持ち出し、武装した状態でバスティーユ監獄へと進軍中です!!」
チュイルリー宮殿の作戦会議室。
息を切らして飛び込んできた近衛兵アーサーの報告に、会議室の空気は氷のように凍りついた。
「一万の暴徒だと……!?」
ロベスピエールが、顔面を蒼白にしてテーブルに手をついた。
「あ、ああ……私が恐れていた通りのことが起きてしまった……。国家が法を無視して暴力を振るえば、民衆もまた法を捨てて暴力で応える。……暴力の連鎖だ。我々は、自らの手で革命のパンドラの箱を開けてしまったのだ!」
自責の念に押し潰されそうになるロベスピエールの横で、ナポレオンがパリの地図に赤い駒を置き、戦況を分析した。
「……最悪の状況です。現在、バスティーユ監獄を守備しているのは、ド・ローネー侯爵率いる老兵わずか百名のみ。一万の暴徒を相手に、まともな防衛戦など不可能です。もしド・ローネー侯爵がパニックを起こして群衆に大砲を撃ち込めば、それは『王室による市民の虐殺』となり、パリ全土が血の海に沈みます」
「じゃ、じゃあ、降伏して門を開けさせればいいんじゃないか!?」
ルイが青ざめて叫ぶが、ナポレオンは首を横に振った。
「それも最悪です。門を開ければ、暴徒は火薬を手に入れ『反乱軍』へと変貌し泥沼の内戦状態に引きずり込まれます」
撃っても地獄。降伏しても地獄。
敵は、マリー・アントワネットを「血も涙もない暴君」に仕立て上げるための、完璧なチェックメイトの盤面を組み上げていた。
(……歴史の、修正力)
私は、扇子を握りしめながら、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
あの日。断頭台の運命から逃れるために、私は歴史を変えようと必死に足掻いた。
インフラを整え、経済を回し、美味しいご飯を食べさせることで、史実の「フランス革命」の芽を摘み取ったはずだった。
しかし、歴史は、あの手この手で「バスティーユの陥落」と「王室の暴政」というイベントを発生させようと、強引にシナリオを軌道修正してきているのだ。
「……王妃様。いかがなさいますか。近衛連隊を出動させ、鎮圧しますか?」
ナポレオンが、静かに、しかし覚悟を決めた目で私に問う。
私は、深く息を吸い込み、そして。
「フフッ。あはははははっ!!」
絶望的な空気の漂う会議室で、突如として腹の底から笑い声を上げた。
「お、王妃様……? 気が触れられたのですか!?」
ロベスピエールが後ずさる。
「触れてないわよ、ロベスピエール。……ただ、あまりにも相手のやり方が『古典的』すぎて、笑っちゃっただけよ」
私は扇子をバチンと開き、全員の顔を見渡した。
「いいこと? なぜ彼らは、数ある建物の中から『バスティーユ』を狙うの? 火薬が欲しいだけなら、他の兵器廠でもいいはずよ。……それはね、バスティーユが『王室の圧政と恐怖の象徴』だからよ! あの暗くて不気味な城を壊すことで、彼らは『自分たちが王室に勝った』というヒロイズムに酔い痴れたいのよ!」
「それはそうですが……だからこそ、落とされれば王室の威信は地に落ちるのでは?」
「だったら!」
私は、ニヤリと最高に邪悪で、そして無敵の笑みを浮かべた。
「暴徒に壊される前に、私たちが自分たちの手で、解体してしまえばいいじゃない!!」
「……はい?」
天才たちが一斉に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「考えてもみなさい! あの監獄、維持費ばかりかかって全然エコじゃないし、パリの景観を損ねてるし、都市開発の邪魔でしかなかったのよ!だから、ちょうど今日! この瞬間に! 王室の主導でバスティーユ監獄・解体公共事業をスタートさせるのよ!!」
「王妃様……何を仰って……。一万の暴徒が、今まさに大砲を引いて迫っているのですよ!?」
「だから、彼らを解体工事のアルバイトとして雇うのよ!!」
私のぶっ飛んだ発言に、会議室が水を打ったように静まり返った。
「暴動のエネルギーは『破壊衝動』と『貧困』から来ている。……だったら、あの巨大な石の塊をぶっ壊すという『最高に楽しいエンターテインメント』を与え、さらに『日給』を払ってあげれば、彼らは暴徒から最強の解体作業員にジョブチェンジするわ!!これぞ、マリー・アントワネット流・究極の怒りマネジメントよ!!」
数秒の沈黙の後。
「……狂っている。しかし、暴徒の心理を逆手に取った、完璧なロジックだ!!」
ナポレオンが、震える手で顔を覆い、狂気じみた笑い声を漏らした。
「直ちに兵站を動かします。食糧庫からワインとパンを全放出させなさい。暴徒の足なら、今から重機を動かしても十分に先回りできます!」
「よしきた!! 壁を壊すなら僕の出番だな!!」
オタク王ルイが、目をバキバキに血走らせて立ち上がった。
「プレハブ団地を造る時に使ったスチーム・クレーン! あれの先端に、特大の『鉄球』を取り付ければ、どんな石壁でも一撃で粉砕できるぞ! アームの油圧を最大まで開放すれば、最上階の壁だろうと届いてみせる!」
「最高よ、ルイ! ナポレオン! ジャンヌ、国庫から大至急、日雇い労働者一万人分の『日給』を手配して!!さあ、行くわよ!! フランスの歴史を変える、世界最大の解体フェスティバルの始まりよ!!」
同時刻。
パリ東部、バスティーユ監獄の正面ゲート。
松明の炎が夜空を赤く染め上げ、手製の槍やマスケット銃、そして奪い取った大砲を引き連れた一万の群衆が、怒号を上げながら重厚な城門の前に押し寄せていた。
「城門を開けろォォォッ!! ド・ローネー!! 俺たちに火薬を渡せ!!」
「圧政の象徴をぶっ壊せ!! 王妃をギロチンへ送れ!!」
群衆の先頭で、モローが狂ったように叫ぶ。
城壁の上では、守備隊長のド・ローネー侯爵と少数の老兵たちが、青ざめた顔でマスケット銃を構え、震え上がっていた。
「……撃てば暴徒を刺激するだけだ……! だが、門を開ければ我々は殺される……! 王室からの援軍はまだか!?」
ド・ローネーが絶望しかけた、まさにその時だった。
プォォォォォォォォォォンッ!!!!!
突如として、暴徒たちの背後から、鼓膜をつんざくような蒸気笛の音が響き渡った。
「な、なんだ!?」
一万の群衆が振り返ったその先。
パリの大通りから、見たこともない異形の車列が、猛スピードで突進してきていた。
先頭を走るのは、黒煙を吹き上げながら進む、巨大な鉄球をぶら下げたスチーム・クレーン車。
その後ろには、山のようなパンとワイン樽を積んだ数十台の荷馬車。
さらにその後ろには、モーツァルト率いる陽気な行進曲を奏でる王立軍楽隊のブラスバンドが続いている。
そして、先頭のクレーン車の屋根の上。
黄金のガス灯の光に照らされ、純白のドレスの上に、なぜか『黄色い安全ヘルメット』を被ったマリー・アントワネットが、巨大なメガホンを握りしめて仁王立ちしていたのである。
「パ、パリの市民たちよーーーっ!! よく集まってくれたわね!!」
私のメガホンから放たれた、明るく、底抜けに陽気な大音声が、暴動の熱気に水をぶっかけたように広場を静まり返らせた。
「な、王妃だと!? なぜこんな所に! しかも、なんだあの奇妙な鉄のバケモノは!?」
モローが呆然とする中、私はメガホンで高らかに宣言した。
「あなたたちが怒るのも無理はないわ! この古くて、暗くて、ジメジメしたバスティーユ監獄! パリの美しい景観を損ねる、最悪の『粗大ゴミ』よね!!……だから私、決めたの! 今日、この瞬間をもって、王室の権限によりバスティーユ監獄の解体を布告します!!」
「「「…………は?」」」
一万の暴徒たちの頭の上に、巨大なハテナマークが浮かんだ。
「そこで!! 今ここに集まってくれている、元気いっぱいの市民のみんなに提案よ!!これからこの監獄をぶっ壊す解体作業を手伝ってくれた人には、一人につき日給『五リーブル』をその場で現金支給!!さらに、作業後の打ち上げとして、極上のワインと焼きたてのパンを無料で振る舞うわ!!」
「ご、五リーブル!? 俺の三日分の稼ぎじゃねえか! しかも飯付き!?」
「それだけじゃないわよ! 壊したバスティーユの石材は、すべてあなたたちにあげる! 『圧政の象徴を打ち砕いた記念の石』として加工して売れば、いいお小遣い稼ぎになるわよ!!さあ、大砲なんて物騒なものはしまって、ツルハシを持ちなさい!! 歴史のゴミ掃除のお時間よ!!」
私が叫び終わると同時に、軍楽隊が最高にアップテンポで陽気な労働歌を奏で始めた。
「…………」
「…………なぁ」
暴徒たちの間で、ざわめきが起こった。
「大砲撃って軍隊と殺し合うより……石叩き割って、金もらって、ワイン飲んだ方が……よくね?」
「ていうか、記念の石って絶対高く売れるぞ! 田舎の親父が喜ぶ!」
「よっしゃああああっ!! ぶっ壊せェェェッ!!」
人間の怒りというものは、強烈な「現金」と「お祭り騒ぎ」の前には、驚くほど呆気なく霧散するものである。
「だ、騙されるな!! あれは王妃の罠だ! 攻撃しろ!! 撃て!!」
モローが必死に叫ぶが、もはや誰も彼のことなど見ていなかった。
「一番デカい石は俺のもんだ!! どけ!!」
一万の暴徒は、一瞬にして目を金貨マークにした最強の解体作業員へとクラスチェンジを果たし、嬉々としてツルハシやハンマーを振り上げ、バスティーユの城壁へと群がり始めたのである。
「ド・ローネー!! 何をボーッとしているの! 門を開けて、彼らを中庭へご案内しなさい!! 安全第一でね!!」
「は、ハハァーーーッ!! 城門、開けェェェッ!!」
ギギギギギギッ……!
かつては血みどろの戦闘の末に破られるはずだったバスティーユの正門は、守備隊長自身の「安全誘導」によって、極めて平和的に開け放たれた。
「さあ、まずは僕がお手本を見せよう!! 蒸気機関、最大出力!!」
ルイが操縦桿を引くと、スチーム・クレーンの先端に取り付けられた数トンの巨大な鉄球が、唸りを上げて空を舞った。
ドッッッゴォォォォォォォォォンッ!!!!!
凄まじい轟音とともに、何百年も囚人たちを閉じ込めてきた分厚い石壁が、まるでビスケットのように粉々に砕け散った。
「「「うおおおおおおおおっ!! すげええええええっ!!!」」」
解体作業員(元暴徒)たちから、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。
「さあ、みんなも続け!! 遠慮はいらない、好きなだけぶっ壊せ!!」
私の号令とともに、一万人による、世界で最も平和で、最もやかましい「歴史的建造物の破壊活動」がスタートした。
その頃。
バスティーユ監獄、最上階の特別独房。
「……フフッ。始まったな」
外から聞こえてくる凄まじい轟音と、地鳴りのような群衆の叫び声を聞きながら。
デギュイヨン公爵は、暗闇の中で極上のワイングラスを傾け、愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。
「聞け、あの怒りに満ちた破壊の音を。ついに民衆が、王妃の欺瞞に気づき、この忌まわしき体制を打ち砕きに来たのだ。
さあ、暴徒どもよ。早くこの牢の扉を打ち破り、私を解放せよ。お前たちの指導者として、このフランスを血の海で浄化してやろう……!!」
デギュイヨンが、両手を広げて「新時代の到来」を迎え入れようとした、まさにその時。
ズゴォォォォォォォォォンッ!!!!!
彼の背後――外の世界に通じる分厚い石壁が、突如として凄まじい衝撃とともに大爆発を起こし、粉々に吹き飛んだ。
「な、ぬおおおおっ!?」
爆風と石の破片を全身に浴びて、デギュイヨンは無様に床に転がった。
咳き込みながら顔を上げると、ぽっかりと開いた壁の大穴の向こうに、巨大な黒い鉄球が揺れているのが見えた。
「おっと、ごめんごめん! 解体作業中だから、危ないよ!」
そして、大穴の向こう側から、巨大な重機の操縦席に乗った国王ルイ16世が、ゴーグルを額にずらしながら、満面の笑みで手を振っていた。
「こ、国王……!? な、なぜ貴様がここに!? 暴動は……群衆の怒はどうしたのだ!!」
デギュイヨンが血相を変えて壁の穴から外を見下ろすと。
そこには、彼が期待した「血みどろの革命軍」の姿はどこにもなかった。
『おい、そこの石材運ぶの手伝え!!』
『こっちの壁も壊していいか!?』
『お疲れさーん! 次の班、ワインとパン支給しまーす!!』
一万人の市民たちが、王立軍楽隊の陽気な音楽に合わせて、楽しそうに石を叩き割り、笑顔でレンガを運び出し、肩を組んでワインを飲んでいる大規模な土木作業のフェスティバルの光景が広がっていたのである。
「な……なんだ、これは……」
デギュイヨンは、己の人生で築き上げてきたすべての知略と、人間の悪意に対する絶対の自信が、文字通りガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「あ、あり得ん……。私が仕掛けた、人間の強欲と憎悪の連鎖が……。なぜ、あんな楽しそうな『お祭り』にすり替わっているのだ……!!」
「フフッ、残念だったわね、デギュイヨン公爵」
鉄球の横から、メガホンを持った私が顔を覗かせた。
「人間の悪意や憎悪なんて、しょせんは『現金』と『美味しいご飯』、そして『楽しいエンタメ』の前には、ちっぽけな風船みたいなものよ。……歴史のシナリオ通りに、私がギロチンに送られると思った? 甘いわね。私は、自分の首を繋ぐためなら、歴史の象徴ごと物理で粉砕する女よ!!」
私は、絶望に顔を歪める旧体制の怪物に向かって、最高にドヤ顔でピースサインを決めた。
マリー・アントワネット、26歳。
史実においてフランス革命の幕開けとなるはずだった「血塗られたバスティーユ襲撃」は、マリー・アントワネットの機転とルイの重機によって、ただの最高に陽気な解体公共事業へと上書き保存を果たし、歴史の修正力を木っ端微塵に打ち砕いたのである。




