第164話 貧者の玉座
国営集合住宅の完成は、パリにおける不動産戦争の形勢を一気に逆転させた。
家賃を従来の十分の一に抑え、かつ清潔で暖かな生活空間を大量に供給したことで、悪徳地主たちが釣り上げていた「ぼったくりアパート」の需要は崩壊。空室を抱え、地代の支払いに窮した大家たちは次々と破産し、王室はその空き物件を安値で買い叩いては、新たな公共施設や労働者用住宅へと改装していった。
「……完璧ですわ、王妃様! 敵の『パリ都市開発信託』の資金繰りはショートしました。これにて、不動産市場における我々の完全勝利です!!」
ジャンヌが、会議室で高らかに勝利宣言を行い、アベンジャーズの面々は歓喜の祝杯を挙げた。凍える路上に放り出された数千人の労働者たちも、今は団地の温かい部屋で、家族揃って穏やかな冬を過ごしている。
「ええ。これでやっと、みんな安心して眠れるわね」
私は、暖炉の火を見つめながら、深く安堵の息を吐いた。
インフラという巨大なハードを造り、さらに「団地」という住環境を整備した。もはや、物理的にも経済的にも、このパリで私たちを脅かすものは何もないはずだった。
……そう、人間という生き物が、環境さえ整えれば常に「善良で規律正しい存在」であり続けると、無邪気に信じることができたならば。
同時刻。
バスティーユ監獄、最上階の特別独房。
「……モロー。お前の会社が破産手続きに入ったそうだな」
暗闇の中で、デギュイヨン公爵が鉄格子越しに、モローに向かって淡々と告げた。
モローの顔は土気色になり、立派なシルクのスーツは冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「も、申し訳ありません、閣下……! まさか、あのオーストリア女が、家そのものを大量生産して、供給量を増やすなどという『反則技』を打ってくるとは……! 我々が貴族から買い取った物件はすべて空室になり、借金だけが残りました! もう終わりです……!!」
「愚かな。たかが盤面が一つひっくり返された程度で、なぜ勝負が終わったと思うのだ」
デギュイヨンは、全く動じることなく、ワインを優雅に口に運んだ。
「いいか、モロー。あの王妃は『経済の暴力』で我々をねじ伏せたつもりだろう。だが、彼女は決定的なミスを犯した。……需要と供給のバグを生み出してしまったのだ」
「バ、バグ……?」
「そうだ。あの団地の家賃は『十分の一』だと言ったな。それは本来の市場価値から見て、異常なまでの安値だ。……資本主義において、本来の価値よりも不当に安いものが市場に存在すれば、必ずそこから『利益を抜こうとする人間』が現れる」
デギュイヨンの落ち窪んだ双眸に、底知れぬ人間の「強欲」を弄ぶ、悪魔的な光が宿った。
「モロー。お前はこれから、パリの裏路地や、地方から流れてきた『日雇いの貧民ども』にこう囁きかけろ。『王妃の団地には入れないだろうが、俺がコネを使って、家賃の半額で団地の部屋に住まわせてやる』と」
「なっ……!? で、ですが、団地の契約は『入居者本人』の厳格な審査があります! 我々が入り込む隙など……」
「だから、我々が貸すのではない。すでに団地に住んでいる『居住者』に貸させるのだ」
デギュイヨンの唇が、三日月型に歪んだ。
「……彼らにこう教えろ。『お前が借りている一部屋を、地方の出稼ぎ労働者に又貸ししろ。そうすれば、お前は寝ているだけで、毎月不労所得が手に入るぞ』と。……貧者に、資本主義の最も甘い毒――「搾取する側の快感」を味わわせるのだ」
モローは、デギュイヨンの描いたあまりにも黒く、そして恐ろしく理にかなった地獄のスキームに、息を呑んで戦慄した。
「あ、悪魔だ……。閣下、あなたは人間の醜さを……どこまで……」
「王妃が信じている『善良な民衆』などという幻想を、完膚なきまでに叩き壊してやる。……さあ、行けモロー。箱庭のネズミどもに、資本主義の禁断の果実をばら撒いてこい」
それから、さらに一ヶ月が過ぎた、真冬のパリ。
「……なんだ? 最近、団地の第3ブロックの様子がおかしいな」
団地の管理委員長を任されていたジャンは、見回りの最中に首を傾げていた。
彼が設計図通りに管理しているはずの、清潔で静かな団地。しかし、第3ブロックの特定の部屋からだけ、夜な夜なひどい騒音が響き、廊下にはゴミが散乱し、強い排泄物や安酒の臭いが漂い始めていたのだ。
「ちょっと様子を見てみるか……」
ジャンは、臭いの元である304号室のドアをノックした。
この部屋は、ジャンの同僚の一人、ピエールが家族で暮らしているはずの部屋だった。
「おい、ピエール。いるか? 部屋の前が汚れてるぞ」
返事がない。
ジャンがドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。ギイッと扉を開けた瞬間。
「――ッ!?」
ジャンは、あまりの悪臭と異様な熱気に、思わず鼻を覆って後ずさった。
そこは、もはや「人間の住む部屋」ではなかった。
本来はピエールの家族四人が快適に暮らすために設計されたコンクリートの部屋。そこに、見ず知らずの薄汚れた浮浪者や日雇い労働者たちが、なんと十五人も足の踏み場もないほど寿司詰めにされて、床に転がっていたのだ。
換気もされず、トイレも詰まり、壁にはカビが生え、かつての美しい部屋の面影は消え失せていた。
「な、なんだお前ら!? ピエールはどうした!? なんでこの部屋にこんな大勢が……!」
ジャンが怒鳴ると、奥で酒を飲んでいた男が、うつろな目で答えた。
「ああ? うるせえな。俺たちは、家主のピエールさんから、一人一日二リーブルで『ベッドの空きスペース』を借りてるんだ。文句があるなら、別の棟に引っ越した家主に言えよ」
「か、貸してる……!? ピエールが、この部屋を……!?」
ジャンの頭の中が、真っ白になった。
王室が、労働者たちを救うために赤字覚悟で提供した、格安の希望の箱舟。
それを、身内であるはずの労働者が、自分よりもさらに弱い貧困層を押し込み、法外なピンハネをして「商売の道具」にしているというのか。
ジャンは血相を変え、ピエールが移り住んだという別の区画のアパートへと走った。
「……王妃様! 大変です! 団地が……団地の一部が、とんでもないことになってます!!」
チュイルリー宮殿に駆け込んできたジャンの報告を聞き、私とロベスピエール、そしてルイは、信じられない思いで凍りついた。
「又貸し……!? しかも、一つの部屋に十五人も詰め込んで、多重に家賃を搾取しているですって!?」
「はい……!」
ジャンは、悔しさに顔を歪め、ボロボロと涙を流した。
「俺は、ピエールを問い詰めました。『お前、なんであんな酷いことをするんだ! 王妃様が俺たちを救ってくれた恩を仇で返す気か!』って……。そしたらアイツ、なんて言ったと思いますか?」
ジャンは、怒りで拳から血が滲むほど強く握りしめ、かつての仲間の言葉を口にした。
『ジャン、お前はバカだな。せっかくタダ同然で手に入れた権利なんだ。これを使って賢く稼いで、何が悪い?俺だって、一生ツルハシを振るうのは御免なんだよ! 資本家どもが俺たちを搾取して金持ちになったように、俺も下の奴らから少しばかりピンハネして、上流階級の仲間入りをさせてもらうだけさ。これは正当なビジネスだ!!』
「…………ッ!!」
私は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け、その場に力なくへたり込んだ。
「嘘でしょ……。だって、彼らは……あんなに純粋に、綺麗な街を誇りに思ってくれていたのに……」
「王妃様……」
ジャンが、血を吐くような思いで呻いた。
「アイツだけじゃないんです。モローとかいう怪しい投資家が、団地の連中に『部屋を又貸しすれば儲かるぞ』と吹き込んで回っているらしいんです。そのせいで、今や団地の『三割』の部屋が、貧乏人を詰め込むタコ部屋に改造され、もとの住人たちは不労所得で遊び歩いてる……! 真面目にルールを守って住んでる俺たちの方が、『バカ正直な負け組』みたいに言われてるんです!!」
――悪意。
あまりにも純粋で、人間の根源的な醜さを突いた、極上の悪意。
「……ロベスピエール」
私は、震える声で、法務顧問を呼んだ。
「この、悪質な『又貸し』と『タコ部屋労働』……法律で、今すぐ禁止して、彼らを追い出すことは……」
ロベスピエールは、顔面を蒼白にし、唇から血が出るほど噛み締めていた。
「……できません」
その言葉は、死刑宣告のように重かった。
「なぜ!? これほどの不正が起きているのに!!」
「不正では、ないのです……!!」
ロベスピエールが、悲痛な絶叫を上げた。
「私が作った入居契約書には、『部屋を清潔に保つこと』は明記しましたが……まさか、入居者が他人に部屋を貸し出すことを禁じる条項など、入れていなかった!誰も、貧しい労働者がそんな強欲な資本家のような真似をするなど、想像すらしていなかったからです!!」
ロベスピエールは、己の甘さと、契約の抜け穴を突かれた悔しさに、その場に泣き崩れた。
「明文で禁止されていない以上、彼らの又貸しは『合法的な経済活動』とみなされます。……今から強引に法律を遡求して彼らを追い出せば、それは法治国家の否定です。……私は、またしても敗北した……!」
人間の「強欲」。
自分たちが被害者であった時は「平等と正義」を叫んでいた労働者が、いざ自分たちに「他者を搾取する権利」が与えられた瞬間、何のためらいもなく弱者を食い物にする『プチ悪徳大家』へと変貌してしまった。
インフラという「ハード」をどれだけ清潔にしても、人間の心の中にある「欲望の泥沼」までは、決して洗浄することなどできなかったのだ。
「……どうすればいいんだ。僕たちが良かれと思って造った団地が、さらにひどいスラムを生み出してしまったなんて……」
ルイが、自らの両手を見つめながら、絶望に顔を歪める。
団地という均質な箱庭は、皮肉にも「資本主義の毒」を最も効率よく培養する温床となってしまった。このままでは、団地はスラム化し、犯罪の巣窟となり、パリの街はかつてよりも酷い地獄へと落ちていくだろう。
「……王妃様」
絶望の沈黙が支配する会議室で。
ナポレオンが、冷徹な目で、しかし静かに燃えるような決意を秘めて口を開いた。
「敵は、我々の『善意』と『法律』を縛り首の縄に使っている。……ならば、法で裁けない悪党を、どのように処理するか。歴史が証明する答えは、一つしかありません」
「ナポレオン……?」
「法律の枠外には、枠外のやり方で対応するのです」
ナポレオンは、軍帽を目深に被り、懐中時計をカチリと鳴らした。
「表の法廷で裁けないなら、裏の暴力で圧倒する。……カトリーヌ殿、ジャン殿。あなた方『美化委員会』を、本日より王室直属の特務風紀部隊に格上げします。……毒をもって、毒を制する準備を」
綺麗事だけでは、決して世界は救えない。
マリー・アントワネットと愉快な仲間たちは、人間の醜悪な欲望に直面し、ついに「法と正義」という純白のドレスを脱ぎ捨て、泥と血にまみれた「物理的な排除」という、冷酷なる第二ラウンドへと足を踏み入れようとしていた。
見えない敵・デギュイヨン公爵との知恵比べは、いよいよ互いの喉笛を噛み千切るような、熾烈極まる最終局面へと向かっていくのである。




