第163話 神の土地
パリの城壁のすぐ外側、東部郊外に広がる広大な荒地。
そこは、カトリック教会の保守派が数百年にわたって所有し続ける「サン・マルタン修道院」の領地であった。手入れもされず、ただ雑草が生い茂るだけの広大な空き地だが、パリの中心部に極めて近く、団地を建設するための立地としては、まさに完璧にして唯一の場所だった。
冷たい冬の風が吹きすさぶ中、私はジャンヌと、ロベスピエールを両脇に従え、重厚な修道院の扉を叩いた。
応接室に通されるなり、修道院長であるクレマン司教は、分厚い聖書を胸に抱きながら、冷ややかで頑固な声で告げた。
「王妃様。いくら金を積まれようとも、この土地は神聖なる教会の財産であり、世俗の権力に売り渡すことは法王庁が許しません。ましてや、身分しらぬ下賤な労働者どもを何千人も詰め込むような、下品な『箱』を建てるなど、神への冒涜に他ならない!」
クレマン司教の背後には、保守派の修道士たちがズラリと並び、私を敵視するような視線を向けている。彼らは旧体制における最大の既得権益層であり、平民の生活向上など露ほども関心がないのだ。
「……神への冒涜、ですか」
私は、用意された粗末な木椅子にゆったりと腰掛け、扇子をパチンと開いた。
「司教様。あなた方は毎日、礼拝堂で『貧しき者、救われよ』とお祈りしていらっしゃるわね。……でも、今この瞬間も、パリの路上では家を追われた労働者の子供たちが、凍える寒さの中で震えているの。あなた方は祈るだけで、彼らに毛布一枚、パン一切れ与えようとしない。それどころか、使い道のない土地を抱え込んで、ただ雑草を育てている。……神様は、一体どちらの行いを『冒涜』だとお怒りになるかしら?」
「ぐっ……! それは……!」
クレマン司教の顔が、怒りと図星を突かれた焦りで赤く染まる。
「詭弁だ! 教会には教会の教義と、何百年も守ってきた財産権があるのだ!憲法においても、私有財産は保護されると明記されているはずだぞ!」
「ええ、その通りです。ですから我々は、無理矢理に奪うような『違法行為』はいたしません」
私の横から、銀縁眼鏡を鋭く光らせたロベスピエールが、冷徹な声で一歩前に出た。
「ですが司教様。この広大な土地は長年『未利用の荒地』として放置されていますね。……新憲法に基づく新たな税法案によれば、生産活動を行わない未利用の私有地に対しては、来年度から『高額固定資産税』が課せられることになります」
「な、なんだと!?」
今度は、ジャンヌが山のような帳簿をドンッとテーブルに置いた。
「そして修道院の現在の財務状況ですが……信者からの寄付金が激減しており、建物の修繕費すら事欠く大赤字状態ですね?もしこのまま土地を放置して高額な税金を課せられれば、あなた方は半年以内に破産し、この修道院の建物ごと競売にかけられることになりますわよ」
「ひっ……!」
圧倒的な法と経済の挟み撃ち。司教と修道士たちの顔から、血の気が引いた。
「で、ですが! 土地を売り払えば、我々は法王庁から破門されてしまう!」
「だから、売らなくていいのよ」
私は扇子を閉じ、怯える彼らに向かって、最高に甘く、そして抗えない「悪魔の契約」を提示した。
「『定期借地権設定契約』よ。土地の所有権は教会のままにしておくわ。王室が、あなた方からこの土地を借り上げるの。そうすれば、あなた方は土地を手放さずに済むし、王室から毎年、地代が確実に入ってくる」
「毎年……! 地代が……!」
「ええ。確実な現金収入を得ながら神様に感謝するの。……どちらが信仰に集中できるか、言うまでもないわよね?」
沈黙。
圧倒的な論理、合法的な脅迫、そして抗えない魅惑的なメリットの提示。
クレマン司教は、プルプルと震えながら数分間葛藤した後、ついにその場に泣き崩れるようにして契約書にサインをした。
「……神よ、どうかお許しください……!」
「ふふっ。神様もきっと大賛成よ」
こうして、私たちは、パリの不動産市場をひっくり返すための「前線基地」を、たった15分の交渉で手に入れることに成功したのである。
翌朝。
サン・マルタン修道院の領地は、まるで魔法にでもかけられたかのような、異次元の光景に包まれていた。
「第一陣の馬車部隊、到着! パネルを下ろせ!! 第二陣は右翼へ展開!! グズグズするな、これは兵站の戦争だ!!」
軍帽を被ったナポレオンが、白馬に跨りながら、メガホンで怒号を飛ばす。彼が指揮しているのは、兵士ではない。何百台もの荷馬車と、パリ中から集められた数千人の労働者たちだった。
「す、すげえ……なんだあれは!?」
労働者たちの先頭に立っていたジャンやカトリーヌたちが、目を丸くして立ち尽くした。
荷馬車から次々と下ろされているのは、レンガや石材ではない。
スミートンが開発した水硬性セメントを使用し、ルイの工場で事前に完璧なサイズで成形された、巨大で真っ白な『鉄筋コンクリートの壁パネル』だった。窓の枠も、配管の穴も、すでに工場で寸分の狂いもなく開けられている。
「さあ、野郎ども!! 僕たちの見せ場だ!!」
その時、地鳴りのような轟音とともに、見たこともない巨大な鉄の怪物が姿を現した。
黒煙を吹き上げる巨大な蒸気機関を搭載し、太いワイヤーと巨大な鉄のアームを備えた、超大型の『蒸気式起重機』である。その操縦席で、顔をススだらけにした国王ルイが、レバーを握って狂喜の笑みを浮かべていた。
「パネルを吊り上げろ!! ラプラス先生の計算したジョイント部分に合わせて、巨大なブロックを組み合わせるんだ!!職人の経験なんていらない! このボルトを締めて、隙間にセメントを流し込めば、一日でワンフロアが完成する!! これが、僕たちの新しい武器「プレハブ工法」だァァァッ!!」
ゴアァァァァァッ!!
蒸気クレーンが唸りを上げ、数トンはある巨大なコンクリートパネルを、まるで子供が積み木で遊ぶかのように軽々と持ち上げ、空中で正確な位置へと下ろしていく。
「お前ら、ボーッと見てる暇はないよ!!」
カトリーヌが、我に返って労働者たちに檄を飛ばした。
「王様と王妃様が、アタイらの『家』を造るために、あんなバケモノまで持ち出してきてくれたんだ! このままお情けにすがるつもりかい!?」
「違う!! 俺たちだって、自分の家は自分の手で造る!!」
ジャンが、モンキーレンチを高く掲げて叫んだ。
「いくぞ!! 王様のクレーンが下ろしたパネルを固定しろ! ボルトを締めろ!! これは俺たちの誇りを取り戻すための戦いだ!!」
「「「うおおおおおおおおおっ!!!」」」
追い出され、絶望の底にいた労働者たちの目に、猛烈な炎が蘇った。
彼らはただの「家を失った被害者」ではない。パリの地下迷宮を掘り抜いた、世界最高峰の技術と団結力を持つ、誇り高き「建設アベンジャーズ」なのだ。
ガキンッ! ガキンッ! と、巨大なボルトが次々と締め上げられていく。
ラプラスの完璧な構造計算により、柱のない巨大な空間が、ブロックを組み合わせるだけで恐るべきスピードで組み上がっていく。
「……見事なものです」
その光景を少し離れた丘から見ていたナポレオンが、懐中時計の蓋をパチンと閉じた。
「通常のレンガ建築なら一階部分を造るだけで数ヶ月はかかるところを、このパネル工法ならばわずか一日で一階層が完成してしまう。……会議室でのシミュレーション通りとはいえ、現実に家という概念が『不動産』から『工業製品』へと変換されていく様は、圧巻ですね」
「ええ。安くて、速くて、頑丈。これが規格化の暴力よ」
私は、土煙の向こうで猛烈な勢いで組み上がっていく巨大なコンクリートの箱を見つめながら、不敵に微笑んだ。
「さあ、見せてあげるわ。悪徳大家どもに、圧倒的な『供給過多』の絶望をね」
それから、わずか二週間後。
「……ば、馬鹿な。幻覚だ。こんなこと、あり得るはずがない……!!」
パリの不動産を牛耳り始めていたモローは、視察のために乗っていた馬車の窓から、城壁の外の景色を見て絶句した。
二週間前まで、ただの荒地だったはずの場所に。
真っ白なコンクリートで作られた、『五階建ての巨大建造物群』が、十棟もズラリと立ち並んでいたのだ。
「なんだ、あの城のような巨大な建物は!? いつ、誰がこんなものを……!」
「も、モロー様!! 大変です!!」
モローの部下が、血相を変えて馬車に駆け寄ってきた。
「王室から、とんでもない布告が出されました! あの建物は、王室が直轄で運営する国営集合住宅だそうです!部屋数は千室以上! しかも、家賃は我々が設定した額の『十分の一』以下です!!」
「じゅ、十分の一だと!?」
モローの顔面から、一瞬で血の気が引いた。
「そ、そんな安値で貸し出せるはずがない! 建築費だけで莫大な赤字になるはずだ! 王室のハッタリだ!!」
「ハッタリではありません! すでにパリ中から、家賃に苦しんでいた平民たちが殺到し、あの団地への入居契約を次々と結んでいます!……モロー様! このままでは、我々が貴族から買い上げた『高級アパート』には、誰も住む者がいなくなります! 借り手がいなくなれば、貴族たちへ支払う地代がショートし、我々の会社は一瞬で連鎖倒産してしまいます!!」
「あ、あああ……」
モローは、ガタガタと震えながら座席に崩れ落ちた。
不動産投資の絶対の基本は「需要と供給」である。パリという限られた土地で、家が足りないからこそ価値が暴騰し、法外な家賃が取れたのだ。
だが、王妃は「家そのものを工場で大量生産して、供給を無限に増やす」という、当時の常識を破壊するチート技で、市場の価値を一撃で大暴落させたのだ。
「バケモノだ……! あの王妃は、経済のルールすら物理でへし折りやがる……!!」
モローは、詰んだ己の運命を悟り、恐怖に顔を歪めた。
そして。
完成した第一号・王立団地の中庭。
「……王妃様。これは、夢じゃないんですよね?」
新しい部屋の鍵を受け取ったジャンが、震える声で私に尋ねた。
彼の目の前には、堅牢なコンクリートで造られた、美しく、機能的な五階建ての集合住宅がそびえ立っている。
部屋には、『太陽の光がたっぷり入る大きなガラス窓』があり、各フロアには地下からポンプで汲み上げた『共同の水道と、水洗式のトイレ』が完備されていた。
さらに、一階には安価で新鮮な野菜が買える市場のスペースと、子供たちが遊べる安全な公園まで併設されている。
「夢じゃないわ、ジャン。そして、これは施しでもない」
私は、集まった数千人の労働者たちを前に、高らかに宣言した。
「この団地は、あなたたちが自分たちの手で造り上げた『努力と技術の結晶』よ!!
あなたたちは、自分たちの力で、自分たちの家を勝ち取ったの!! だから、今日からは誰に遠慮することもなく、胸を張ってここで生活しなさい!!」
「「「うおおおおおおおおおっ!!!」」」
中庭に、割れんばかりの歓声と、歓喜の涙が弾けた。
「すげえ!! 家の中があったかいぞ!!」
「窓から光が入ってくる! もう暗くてカビだらけの屋根裏部屋に住まなくていいんだ!!」
労働者たちが、次々と自分の新しい部屋へと駆け込んでいく。
その笑顔は、かつてパリの中心部から追い出された時の悲痛な涙とは違う、未来への希望に満ちた圧倒的な輝きを放っていた。
「……やりましたね、マリー」
ナポレオンが、珍しく相好を崩して微笑んだ。
「ええ。これで、悪徳地主たちの『高家賃ビジネス』は崩壊よ。空室だらけになったアパートを、今度は私たちが二束三文で買い叩いて、さらに労働者向けの住宅に改装してやるわ」
私は扇子をパチンと開き、遠くパリの中心部――目に見えない敵が潜む方向を鋭く見据えた。
「さあ、見えない不動産王さん? あなたの仕掛けた市場ゲームは、私の『プレハブ団地』の前にゲームオーバーよ。……次は、どんな手を打ってくるのかしら?」
マリー・アントワネット、26歳。
彼女は、法律の壁と資本主義の暴走を、圧倒的な「工業力と規格化」という劇薬でねじ伏せ、労働者たちの住処と尊厳を取り戻したのである。
だが、バスティーユ監獄の暗闇でこの報告を聞いたデギュイヨン公爵が、決してこれで諦める男ではないことを、私たちはまだ知らなかった。
不動産戦争の第二幕は、より深く、より残酷な「人間の欲望の根本」を突く、底なしの泥沼へと向かおうとしていたのである。




