第162話 パリの尊厳
1782年、初冬。
パリの街を吹き抜ける風が氷のように冷たくなり始めた頃。
チュイルリー宮殿の作戦会議室は、かつてないほどの重苦しい空気に包まれていた。
「……どうしてですか、ロベスピエール先生!!」
市場の女リーダーであるカトリーヌが、会議室のテーブルを両手でバンッと叩き、涙声で絶叫した。
「あんたは、アタイら平民の味方だったはずだ! 法律は弱者を守るためにあるって、そう言ってたじゃないか!! なのに……どうして、アタイらを追い出すあの悪徳管理人どもを、引っ捕らえてくれないんだよ!!」
カトリーヌの背後には、家賃を倍に引き上げられ、寒空の下に家財道具ごと放り出された労働者たちの代表が数名、絶望の表情で立ち尽くしていた。
その非難の矢面に立たされている法務顧問、マクシミリアン・ロベスピエールは、一言も弁明できなかった。
彼のトレードマークである銀縁の眼鏡は曇り、いつも完璧に結ばれている純白のネクタイは緩みきっている。何より、彼の目の下には黒い隈が張り付き、数日間まともに寝られていないことは誰の目にも明らかだった。
「……申し訳ない、カトリーヌ殿」
ロベスピエールは、ひび割れた声で絞り出すように言った。
「私が起草した新憲法は、絶対王政による『国王の気まぐれな財産没収』から国民を守るため、【私有財産権の絶対的保護】と【契約の自由】を最も神聖な権利として明記してしまった。……もし今、王室の権力を使って、地主たちの『家賃の引き上げ』という正当な経済活動を強制的に禁じれば、それは法治国家の根幹を破壊する『独裁への逆行』となってしまう。……法律家である私には、法を破ることは、決してできない」
「法がなんだってんだ!! 目の前で子供が凍えてるんだぞ!!」
激昂したカトリーヌが、ロベスピエールの胸ぐらを掴み上げた。
ロベスピエールは抵抗しなかった。ただ、無抵抗のまま、その非難を全身で受け止めようとしていた。
「やめなさい、カトリーヌ!!」
私はたまらず立ち上がり、カトリーヌの手を強く引き剥がした。
「王妃様……! でも……っ!」
「ロベスピエールの手を見て!!」
私が叫ぶと、会議室の全員の視線が、ロベスピエールの両手に集まった。
彼の手は、真っ黒なインクと、血の滲んだ包帯でボロボロになっていた。
彼は、地主たちの横暴を止めるための合法的な抜け道を探すために、この数日間、過去数百年分のパリの不動産契約書と民法典を、血の滲むような思いでめくり続けていたのだ。
「……一番悔しい思いをしているのは、彼よ。自分たちが作った『正義のルール』が、悪党に逆手に取られているんだから」
私が静かに告げると、カトリーヌはハッとして手を離し、膝から崩れ落ちた。
「……王妃様。俺たちは、どうすればいいんですか……。このままじゃ、パリで生きていけない……」
労働者たちの声が、私の胸を鋭利なナイフのように抉った。
その頃。
労働者たちが追い出された後の第4区画では、デギュイヨン公爵の代理人となった元看守・モローが、仕立ての良いスーツを着こなし、冷酷な笑みを浮かべていた。
彼は、新しく雇った荒くれ者たちに命じて、路上で震える労働者たちに「一枚のビラ」を配らせていた。
そこに書かれていたのは、バスティーユ監獄の暗闇でデギュイヨン公爵が書き上げた、扇動文書である。
『白き街の黒い真実』
『王妃は、我々平民のために下水道を掘ったのではない。自分の取り巻きの金持ちや外国人を住まわせるため、邪魔な平民をパリから追い出す口実として、街を「清潔」にしたのだ。美化とは、すなわち差別である。清潔さとは、金持ちだけが享受できる贅沢である。我々は、王妃の自己満足のために、故郷を奪われたのだ!』
「……嘘だ。王妃様が、俺たちを騙していたなんて……」
「でも、現に俺たちは追い出され、あの建物には金持ちが入っていくじゃないか……!」
寒さと飢えは、人間の理性と思考力を容赦なく奪っていく。
ビラを読んだ労働者たちの瞳から、これまでマリー・アントワネットに向けていた「信頼と感謝の光」がスッと消え失せ、代わりに「疑心と憎悪の暗い炎」が宿り始めていた。
インフラ整備という「善意」。
それ自体を「悪意の証拠」として反転させる、デギュイヨン公爵の悪魔的な論理。パリの街の分断は、彼の目論見通り、最悪の形で進行していた。
その夜。
私とルイは、変装用の粗末なマントを羽織り、護衛のアーサーだけを連れて、パリの城壁の外――城外スラムへと足を運んでいた。
そこは、パリを追い出された労働者たちが、雨風をしのぐために廃材で急造したテント村だった。
舗装された道はなく、足首まで浸かる泥濘。下水道もないため、あちこちからツンとした排泄物の臭いが漂ってくる。かつての「悪臭のパリ」が、そのまま城壁の外へスライドしたような地獄の光景だった。
私は唇を噛み締め、持参した「高栄養・瓶詰めスープ」や毛布を積んだ荷車を引いて、泥の中を進んだ。
「ジャン!」
泥だらけのテントの前で、小さな焚き火にあたっているジャンと、その家族を見つけた。ジャンは私とルイの顔を見ると、驚いたように立ち上がったが、すぐにその目を伏せた。
「……王妃様、それに国王陛下。こんな場所へ、何の用ですか」
「ジャン、これを持ってき……」
私がスープの瓶を渡そうとした瞬間、ジャンはそれを静かに、しかしきっぱりと手で押し返した。
「……いりません」
「え?」
「王妃様。お気持ちはありがたいです。でも……俺たちは、恵んでもらうために生きてるわけじゃないんです」
ジャンは、冷たい風の中で、真っ直ぐに私の目を見た。
「パリは、俺たちの誇りなんです。俺たちは、誇りある労働者だ。……施しを受けて生き延びる惨めな乞食になりたいわけじゃない。俺たちはただ、自分たちの造ったあの街で、自分たちの給料で家賃を払って、胸を張って生きたいだけなんです!!」
――ガツン、と。
ジャンの言葉が、私の魂を激しく揺さぶった。
彼らは、同情を求めているのではない。
「人間としての尊厳」と「市民としての権利」を取り戻すことを求めているのだ。
「……ごめんなさい、ジャン」
私は、スープの瓶を荷車に戻し、泥の中に毅然と立ち尽くした。
「私が間違っていたわ。あなたたちに必要なのは、毛布やスープなんかじゃない。……あなたたちの『家』を奪った悪党どもを叩き潰すための、本気の喧嘩よね」
私の瞳に、かつて断頭台の運命をねじ伏せた時の、あの燃え盛るような『反逆の炎』が再び灯った。
「約束するわ。必ず、あなたたちをパリの光の中へ連れ戻す。……私とルイの、すべてを懸けて!!」
翌朝。
チュイルリー宮殿の巨大な作戦会議室には、フランスの頭脳――天才アベンジャーズが全員集結していた。
国王ルイ、財務長官ジャンヌ、法務顧問ロベスピエール、天才数学者ラプラス、土木王スミートン、賑やかし担当モーツァルト、そして兵站の魔王ナポレオン。
「いいこと、みんな!!」
私は、会議室のテーブルを扇子でバンッと叩いた。
「敵の『パリ都市開発信託』は、法律と資本主義のルールを盾にして、私たちの民衆を追い出している。なら、答えは一つよ!!」
私は、全員の顔をギラギラとした目で見渡した。
「法律を変えられないなら、法律の中で戦うわ。……私たちが、国家という名の『最強の市場競争者』となって、奴らの不動産ビジネスを完膚なきまでに経済的に叩き潰すのよ!!」
「市場競争、ですって……?」
ジャンヌが目を丸くする。
「ええ! 奴らの強みは『清潔なインフラが整った一等地を独占していること』よ。でも、そのインフラの大元を握っているのは誰? だったら、奴らのアパートなんか目じゃないほどの高品質で、格安の住宅を、私たちが大量に造って市場に供給すればいい!! 需要と供給の法則よ! 安くて良い家があれば、奴らのボッタクリ高級アパートなんか誰も借りなくなる。そして地主への地代が払えなくなって、奴らの会社は自己破産するわ!!」
「なるほど……! 圧倒的な『供給力』による、不動産価格の暴落と価格破壊の包囲網……!」
ナポレオンが、その軍事的なまでの経済戦略に戦慄し、震える手で手帳を開いた。
「ですが王妃様」
ジャンヌが冷静にソロバンを弾く。
「何千人もの労働者を救うための住宅となれば、とてつもない規模の巨大建築が必要です。石やレンガを一つ一つ積んでいては、完成までに数年かかります。これからの厳しい冬を越せませんわ」
「数年なんてかけないよ!!」
その時、目を血走らせたオタク王・ルイが、巨大な設計図をバサァッとテーブルに広げた。
「大量生産で培った互換性部品のシステムを、そのまま建築に応用するんだ!! 家の壁、床、柱。すべてを同じサイズで、工場の蒸気機関とスミートン先生の水硬性セメントを使って、事前に大量のコンクリートのパネルとして造り上げておく! 現場では、それをプラモデルのように組み立てるだけだ!!」
「な、なんだと……!? 建築物を、工場で部品化して造るだと!?」
大英帝国のスミートンすらも、その一〇〇年先を行く狂気のアイデアに度肝を抜かれた。
「石造りと違い、引っ張る力に弱いセメントの弱点は、以前工場で開発した『特殊鋼のワイヤー』をパネルの中に網目状に埋め込むことで解決できる! 鉄とコンクリートのハイブリッドだよ!」
ルイのオタク全開の解説に、誰もが言葉を失う。
「ラプラス先生! あなたの流体力学と構造力学の数式で、この『鉄筋コンクリートパネル』を五階建てまで積み上げても絶対に崩れない、最強の応力計算を弾き出して!!」
「……容易いことです。三日で完璧な構造計算書を仕上げてみせましょう」
ラプラスが、銀縁眼鏡を不敵に光らせて即答する。
「ナポレオン! あなたの兵站部隊を総動員して、工場からパネルを現場へピストン輸送し、軍隊の陣形構築の速度で巨大マンション群を組み立てなさい!!」
「工期は一ヶ月……いや、三週間でやってみせます」
ナポレオンが、軍帽を目深に被り直して獰猛に笑った。
「名付けて、王立・超大型集合住宅プロジェクト……団地の建設よ!!」
私の宣言に、会議室の温度が一気に沸点に達した。
「……王妃様! 陛下!」
絶望の底にいたロベスピエールが、涙ぐみながら立ち上がった。
「これならば、法律には一切触れません! 国家による正当な公共事業であり、最強の合法的な『市場介入』です!!」
「ええ。奴らに思い知らせてやるわ。本当の資本主義の暴力ってやつをね!」
私が扇子を高々と掲げた時、ジャンヌが一つだけ、重大な懸念を口にした。
「……ですが王妃様。パリの中心部はすでに敵に買い占められています。これほど巨大な団地を建設するための『広大な土地』が、城壁のすぐ外側に一つだけありますが……」
「どこなの?」
「カトリック教会の保守派が所有する、広大な修道院の領地です。……彼らは王室の近代化を快く思っておらず、金では絶対に土地を売らないでしょう」
ジャンヌの言葉に、一瞬の静寂が落ちる。
だが、私は全く怯むことなく、最高に邪悪で、美しい笑みを浮かべた。
「いいわ。だったら、私が直接出向いて『神様の代理人』と熱い交渉をしてあげる。……札束と、論理という名の巨大なハンマーを持ってね」
マリー・アントワネット26歳
デギュイヨン公爵の仕掛けた冷酷な不動産戦争に対し、マリー・アントワネットと天才たちは、時代を超越したオーバーテクノロジー「鉄筋プレハブ式団地」による、規格外の経済反撃の狼煙を上げた。
見えない敵との、パリの地面を巡る戦争が、いよいよ激しく動き出そうとしていたのである。




