第161話 ジェントリフィケーション
1782年、秋の終わり。
「素晴らしい! 素晴らしいですわ、王妃様!」
チュイルリー宮殿の会議室で、財務長官のジャンヌが、決算書の束を抱きしめながら歓喜の声を上げていた。
「パリの衛生環境が劇的に改善されたという噂は、瞬く間にヨーロッパ中に広まりました。その結果、イギリスやプロイセンから裕福な商人や貴族たちが、安全な居住環境と美味しい水、そしてスイーツを求めて、続々とパリへ移住してきております!」
ジャンヌは銀縁眼鏡をキラリと光らせ、チョークで黒板に右肩上がりのグラフを描き殴った。
「他国からの富裕層の流入により、パリ中心部の商業はかつてないほどの活況を呈しています。消費が爆発し、国営工場の稼働率は常に百パーセント超え! 今月の法人税と消費税の税収は、過去最高を記録しましたわ! 借金完済も目前!さらにこのペースなら国家の内部留保も天文学的な額に達します!!」
「やったわね! 私たちの努力が、ついに完璧な豊かさの循環を達成したのよ!」
私は、ジャンヌとハイタッチを交わし、歓喜に沸いた。
「フフッ、やはり上下水道の規格化が、都市の経済効率を押し上げた結果だね。……インフラへの投資は、最高の利回りを生むんだ」
ルイも、作業着のポケットに手を入れて、誇らしげに胸を張っている。
パリは今、歴史上最も豊かで、最も美しい絶頂期にあった。
街を歩けば、美しく舗装された大通りにガス灯が輝き、人々は笑顔でカフェのテラスに集っている。私が戦ったサバイバルの日々は、ついに「完全なる幸福な社会」として結実したのだと、誰もが信じて疑わなかった。
……だが。
その完璧に思えた幸福の足元で、見えない「亀裂」が致命的な音を立てて走っていたことに、私たちはまだ気づいていなかった。
「……王妃様! 陛下!! 大変です!!」
バンッ!! と、会議室の重厚な扉が乱暴に開け放たれた。
血相を変えて飛び込んできたのは、配管工のジャンだった。彼はインフラ革命の功労者であり、今はパリ美化委員会の現場リーダーを任されている、私が最も信頼する労働者の一人だ。
「ジャン? どうしたの、そんなに慌てて。どこかの水道管でも破裂した?」
「ち、違います! ……俺たちが、俺たちの家族が、家から追い出されそうになってるんです!!」
「……え?」
私は、手に持っていた扇子を落としそうになった。
「家から追い出されるって、どういうこと? まさか、火事でも起きたの?」
「違います、大家からです!! 今朝突然、建物の管理人がやってきて、『来月からの家賃を、これまでの倍に引き上げる。払えないなら今すぐ出て行け』って……!俺だけじゃありません! 第4区画の通り沿いに住んでる労働者の家族が、何十世帯も、今まさに荷物を外へ放り出されてるんです!!」
「ば、倍ですって!?」
ジャンヌが絶叫した。
「そんな無茶苦茶な値上げ、暴利にもほどがありますわ! いくら景気が良いからって、労働者の給料で払える額じゃありません!」
「ええ、払えません! だから俺たちは『そんな横暴は許さない、王室が定めた適正な賃金と生活を何だと思ってる!』って抗議したんです。そしたら管理人は……『文句があるなら、街を綺麗にした王妃に言え』って……!!」
ジャンのその言葉に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「……行くわよ、ルイ。ナポレオン、ロベスピエールも来て。これは、ただの大家と店子の喧嘩じゃない気がする」
私たちはただならぬ気配を感じ取り、すぐに馬車を手配して、ジャンが住むパリ中心部の第4区画の大通りへと急行した。
現場に到着した私たちが目にしたのは、美しく整備された「光の都」には到底似つかわしくない、あまりにも残酷で悲惨な光景だった。
「やめて! お願い、このタンスは亡くなったお婆ちゃんの形見なの! 乱暴に扱わないで!」
「パパ……どうしてお家に入れないの……?」
真っ白に舗装された清潔な大通りの歩道に、ボロボロのベッドや椅子、そして生活の匂いが染み付いた古着が、ゴミのように無造作に放り出されていた。
寒空の下、住む場所を突然奪われた労働者の家族たちが、路上で震えながら泣き叫んでいる。
「どけ! 邪魔だ! 払えない貧乏人は、とっとと城壁の外のドブ沼にでも引っ越しな!」
ガタイの良い数人の男たちが、乱暴に家具を運び出し、抵抗する労働者を容赦なく突き飛ばしていた。
「やめなさい!! 何の権限があって、こんな非道な真似をしているの!!」
私は馬車から飛び降り、男たちに向かって鋭い怒号を放った。
「な、王妃様……!?」
男たちが怯んで動きを止める。
その奥から、仕立ての良い真新しいシルクのスーツを着た、恰幅の良いブルジョワ風の男が、ハンカチで額の汗を拭いながら歩み出てきた。
「おお、これはマリー・アントワネット王妃殿下。……非道などと、人聞きの悪いことを仰らないでいただきたい。私はこのアパートの管理を任されております、正当な『不動産管理人』でございます」
「正当ですって? 突然家賃を倍に引き上げて、逆らえば力ずくで荷物を放り出すのが正当だと言うの!?」
私が睨みつけると、管理人の男は深くため息をつき、懐から一枚の『分厚い羊皮紙の契約書』を取り出した。
「……王妃様。私とて、好きで長年住んでくれた彼らを追い出しているわけではございません。私だって辛いのです。ですが……これもすべて、他ならぬ『王妃様のインフラ整備』のせいなのですから」
「私の、インフラ整備のせい……?」
「ええ」
男は、美しく舗装された大通りと、道の脇に立つ真新しいガス灯を指差した。
「王妃様がこの通りに下水道を通し、街を綺麗にしてくださったおかげで、この第4区画は『パリで最も清潔で安全な一等地』に生まれ変わりました。……するとどうなるか。大元の土地を所有している地主貴族が、私に突きつけてきたのです。『土地の価値が跳ね上がったのだから、お前が払う地代も来月から倍に引き上げる』とね」
男の言葉に、私はハッと息を呑んだ。
「地代が倍になれば、私のような中間の管理人は破産してしまいます。だから、彼ら借家人から取る家賃も倍に引き上げるしかなかった。……彼らが払えないのなら、出て行ってもらうしかない。そしてこの建物を壊し、富裕層向けの『高級アパート』を建てて、新しく外国から来る金持ちに高い家賃で貸し出す。そうしなければ、私が地主に殺されるのです!」
「そ、そんな……! 土地の価値が上がったからって、今まで住んでいた人たちを追い出すなんて……!」
「それが『経済のルール』というものです、王妃様」
男は、冷酷な目で泣き崩れる労働者たちを見下ろした。
「綺麗で価値のある場所には、それに相応しい『金を持った人間』が住む。貧乏人は、それに相応しい『安くて汚い場所』へ移動する。……あなた方が街を美しくした結果、パリに『目に見える強烈な格差』が生まれただけのことです」
「……ふざけるなッ!!」
その時、激怒したルイが、管理人の男の胸ぐらを恐ろしい腕力で掴み上げた。
「僕たちは! 金持ちのために街を綺麗にしたんじゃない!! 彼らのような人々が、健康で幸せに暮らせるように、下水道を掘ったんだ!!それを、こんな……こんな紙切れ一枚の屁理屈で、彼らの生活を奪うなんて絶対に許さない!! 衛兵! こいつを捕らえろ!!」
ルイの怒号に、同行していた護衛のアーサーたちが動こうとした。
「……お待ちください、国王陛下」
その重苦しい空気を切り裂いたのは、氷のように冷たく、そして誰よりも苦悩に満ちた声だった。
法務顧問、マクシミリアン・ロベスピエールである。
「ロベスピエール! なぜ止める! こいつらは力弱き民衆から住処を奪う悪党だぞ!」
ルイが叫ぶが、ロベスピエールは銀縁の眼鏡を押し上げ、男の手にある『契約書』を食い入るように見つめ、ギリッと血が出るほど強く唇を噛み締めた。
「……捕らえることは、できません。この男の行いは、何一つ『法律』に触れていないからです」
「なんだって……!?」
私が絶句すると、ロベスピエールは血を吐くような思いで宣告した。
「新憲法は、権力の乱用から国民を守るため、【私有財産権の絶対的保護】と【契約の自由】を重要な柱として明記しました。……土地の所有者が、自身の財産の価値に見合った地代を請求すること。そして、契約通りに家賃を払えない借家人に退去を命じること。これは、法治国家において『合法』であり、正当な権利の行使なのです。……権力でこれを力ずくで止めれば、それこそが憲法への『重大な違憲行為』即ち『独裁』となってしまいます」
――ガツン、と。
私の頭を、目に見えない巨大な鉄のハンマーが殴りつけたような衝撃が走った。
民衆を守るために作った「法律」が。
民衆の命を救うために作った「清潔な街」が。
今、逆手に取られ、合法的な「暴力」として、一番守りたかった労働者たちの喉元に突きつけられているのだ。
「ロベスピエール先生の仰る通りです」
管理人の男は、ルイの手を振り払い、これ見よがしに衣服の乱れを直した。
「お前たち! グズグズするな、さっさと残りの家具も外へ出せ! 次のアパートの建設工事が遅れれば、『パリ都市開発信託』の投資家様たちに怒られるからな!」
再び家具が放り出され、泣き叫ぶ声が清潔な大通りに響き渡る。
「……王妃様」
寒空の下、路上にへたり込んだジャンが、私を見上げて力なく呟いた。
「俺たち……王妃様と一緒に、この街の地下でツルハシを振るっていた時が、一番楽しかったです。……悪臭が消えて、綺麗な水が出た時、本当にこれで子供たちが幸せになれるって信じてた。でも……綺麗になりすぎた街は、俺たちみたいな貧乏人が住んじゃいけない場所になったんですね」
ジャンの瞳から、絶望の涙がこぼれ落ちる。
「違う……! そんなことない! 私は、あなたたちを追い出すために街を綺麗にしたんじゃない!!」
私が悲痛な声で叫んでも、その言葉は彼らの心に届く前に、冷たい冬の風にかき消されてしまった。
「……マリー。これは単なる地価高騰の自然現象ではありませんよ」
少し離れた場所から、ナポレオンが懐中時計の蓋を閉じ、背筋が凍るような冷徹な視線を周囲の建物に向けていた。
「この第4区画だけでなく、パリ中の整備された地区で同時多発的に地代の引き上げと立ち退きが起きています。……先ほど男が口にした『パリ都市開発信託』。何者かが、水面下でパリの貴族たちから土地の権利を組織的に買い漁り、一斉に値上げを仕掛けている。……我々は、見えない敵から『経済という名の侵略』を受けているのです」
「見えない、敵……」
私は、震える拳を強く握りしめた。
物理的な暴力でもなく、剣や大砲でもない。
「法律」と「資本主義のルール」という、一切血を流さない最悪の凶器を使って、私たちが築き上げた「幸福な社会」を内側から崩壊させようとする悪魔のような知性。
(……一体、誰がこんな非道なことを……!?)
その頃。
遠く離れたバスティーユ監獄の特別独房で、デギュイヨン公爵は手元に届いた「本日の退去者数報告」のメモを読みながら、暗闇の中で最高に愉悦に満ちた笑い声を上げていた。
「クックック……。素晴らしい。これぞ市場の原理というものだ。さて、マリー・アントワネット。お前はこれからどうする? 法を破って独裁者となり、ブルジョワどもを敵に回すか。それとも、法を守って『冷酷な王妃』として労働者たちに見限られるか。……どちらに転んでも、お前の築いた美しい箱庭は、内部崩壊の運命にあるのだよ」
光の都と謳われたパリの街に、かつてないほど巨大で冷たい「地代の檻」が降り下ろされた。
それは、マリー・アントワネットが前世でも経験したことのない、現代の病理そのもの――「ジェントリフィケーション」という、残酷で厄介な、終わりの見えない『不動産戦争』の幕開けであった。




