第160話 バスティーユの亡霊
パリの東端、市街地と郊外を分かつ境界線にそびえ立つ、巨大な冷たい石の塊。
かつてはフランス絶対王政の「恐怖と権力の象徴」として市民から忌み嫌われ、数々の政治犯や思想犯をその暗黒の腹の中に飲み込んできた要塞――バスティーユ監獄。
しかし、1782年の秋。
マリー・アントワネットとルイ16世が主導した「パリ・インフラ大革命」によって、街が『光の都』へと変貌を遂げていく熱狂の中で、この古き要塞は皮肉なほど静まり返っていた。
理不尽な理由で投獄される平民は激減し、王室への不満から暴動を起こす者もいなくなった。清潔な水と豊かな食料、そして温かなガス灯の光に包まれたパリにおいて、バスティーユはもはや「過去の遺物」として、人々の記憶から忘れ去られようとしていたのである。
その最上階。
分厚い石壁に囲まれ、セーヌ川の湿った風が鉄格子から吹き込む特別独房の中に、その男は座っていた。
「……五万リーブル。いや、利子を含めれば六万には膨れ上がっている頃か」
男――元フランス王国宰相、デギュイヨン公爵は、暗闇の中でボソリと呟いた。
かつて、王室の裏の顔として秘密警察を操り、汚職と密告による恐怖政治を敷いていた男。前王ルイ15世の逆鱗に触れ、極秘裏にこの牢獄へ幽閉された旧体制の怪物である。
彼の衣服は色褪せた囚人服であり、手足には重い鉄の鎖が繋がれている。
だが、月明かりに照らされたその落ち窪んだ双眸には、囚人特有の絶望や狂気は微塵もない。そこにあるのは、獲物の急所を正確に見定める、冷酷で研ぎ澄まされた「知性」だけであった。
「……なんの話だ、囚人番号二七四号」
鉄格子の向こう側から、松明を手にした初老の看守、モローが忌々しげに声をかけた。
モローの顔には、深い疲労と焦燥感が色濃く刻まれている。目の下にはどす黒い隈ができ、手入れの行き届いていない制服の袖口はすり切れていた。
「お前の抱えている『借金』の総額の話をしているのだよ、看守殿」
デギュイヨン公爵は、鉄鎖をジャラリと鳴らして微笑んだ。
「なっ……! き、貴様、なぜそれを……!」
「簡単なことだ。お前が履いているそのブーツの踵の減り方、そして指先に染み付いた安物のインクの跡。……何より、ここ数ヶ月のお前の『ため息』の重さがすべてを物語っている。高利貸しへの言い訳の手紙を毎晩書き綴り、返済の算段に脳をすり減らしている男の特有の匂いがする」
モローは顔を青ざめさせ、周囲に他の看守がいないことを確認してから、デギュイヨンを鋭く睨みつけた。
「……黙れ。牢屋のネズミが、看守の懐事情を詮索するな」
「無理もないことだ」
デギュイヨンは、モローの強がりなど意に介さず、冷徹な分析を続けた。
「あの『偉大なるオーストリア女』が、パリの街を綺麗に掃除してくれたおかげで、お前たち平民の生活は劇的に良くなった。……『表面上』はな」
デギュイヨンは、鉄格子越しに見えるパリの街明かり――暗闇を切り裂くように灯る、黄金色のガス灯の輝きを指差した。
「街が清潔になり、悪臭が消えた。治安も良くなった。素晴らしいユートピアだ。……だが、街の価値が上がれば、当然、そこに住むための『家賃』も跳ね上がる。お前は、愛する妻や子供たちを、かつてのような不衛生なスラムに住まわせたくなかった。王妃が整備した『清潔で安全な地区』のアパートに住まわせ続けたかった。……だから、給料に見合わない高い家賃を払うために、高利貸しから金を借りた。違うか?」
「…………ッ」
モローはギリッと奥歯を噛み締め、うつむいた。
図星だった。マリー・アントワネットのインフラ改革は、確かにパリから疫病を駆逐した。だが、それは同時にパリの不動産価値の高騰――いわゆるジェントリフィケーションを引き起こしていたのだ。
清潔な地区に住み続けるためのコストは、末端の看守の給料を超えていた。善意によって作られた美しい街が、皮肉にもモローのような小市民の首を絞めつけているのである。
「王妃は、水や病気のことは計算できても、人間の『経済』という魔物を全く理解していない。……美しすぎる街は、貧者を静かに殺すのだよ」
デギュイヨン公爵の悪魔のような囁きが、石牢に響き渡る。
「……俺を、からかっているのか。なら、さっさと寝ろ」
モローに対し、デギュイヨンはゆっくりと立ち上がった。
「モロー。お前の借金、私が肩代わりしてやろう」
「……は?」
モローは間の抜けた声を出し、それから鼻で笑った。
「狂ったか、元宰相閣下。あんたの財産は、王様によってすべて没収されたはずだ。こんな石牢の中で、どうやって払うってんだ。石ころでも錬金術で金貨に変えるつもりか?」
「錬金術などというオカルトは信じない主義でね。だが、王室の監査局を出し抜く程度の『隠し資産』なら、ヨーロッパ中に分散させてある」
デギュイヨンは、自らの囚人服の襟の裏地を指先で器用に破り、そこから一枚の薄く折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
それは、スイス銀行の無記名為替手形だった。
「この手形の価値は、ざっと十万リーブル。……これをお前にやろう」
モローの目が、驚愕に見開かれた。十万リーブル。それは彼が一生かかっても稼げないほどの、莫大にして圧倒的な大金である。
「お、俺に……脱獄の手引きをしろと言うのか!? 無理だ! いくら金をもらっても、こんな最重要犯を逃がせば、俺は国家反逆罪で処刑だ!!」
モローがパニックに陥って後ずさるのを見て、デギュイヨンは不気味に喉を鳴らして笑った。
「クックック……安心しろ。私は、檻から出ようなどとは欠片も思っていない。脱獄して手配犯としてコソコソ逃げ回るなど、私の美学に反する。私はあくまで、この特等席から、あの憎き王妃が絶望に顔を歪める様を観劇したいだけなのだ」
「出ない……? じゃあ、何を……」
「私に代わって、外の世界で私の『手足』となれ、モロー」
デギュイヨンは鉄格子の隙間から、その十万リーブルの手形と、もう一枚のリストが書かれた紙を突き出した。
「お前は明日、この金で借金を全額返済しろ。そして看守の仕事を辞め、立派なスーツを着て『投資家』を名乗るのだ。……これが、私の『経済的な脱獄』だ」
モローは震える手で、その手形とリストを受け取った。
「このリストは……?」
「パリ市内に広大な土地を所有しているにも関わらず、時代の変化に取り残されて貧窮している没落貴族たちの名簿だ」
デギュイヨンの目に、冷酷な資本家の光が宿る。
「いいか、モロー。今のパリの不動産構造は、極めて歪で脆い。土地の所有者は『貴族』だが、彼らは実際に建物を建てて管理するブルジョワに土地を安値で貸し出し、わずかな地代を受け取っているだけだ。ブルジョワどもは、王妃のインフラ整備に便乗して家賃を釣り上げ、ボロ儲けしている。だが、大元の土地を貸している貴族たちは、何百年も前の古い契約のせいで地代を上げられず、歯ぎしりして悔しがっているのだ」
デギュイヨンは、ニヤリと残酷に笑った。
「お前は、このリストにある貴族たちを訪ね歩き、彼らの持つ『地代徴収権』を、少しの色をつけて買い漁れ。彼らは目先の現金欲しさに、喜んで権利を売り渡すだろう。……そして、パリ中の不動産権利を束ねた巨大な『管理ギルド』を設立するのだ」
「そ、そんな権利を買い集めて……どうする気だ?」
モローが恐怖に震えながら問うと、デギュイヨンはまるで新世界を創造する神のような尊大な態度で宣言した。
「すべては『合法的な復讐』のためだ。……王妃は街を美しくした。だが、その足元にある『地面』が誰のものであるかを、彼女は致命的に忘れている」
デギュイヨンは、鉄格子を強く握りしめた。
「パリの地面の権利の過半数を我々が掌握した時。……ブルジョワどもとの借地契約を『一斉に更新』し、地代を現在の倍……いや、三倍に引き上げるのだ。払えなければ、契約違反として法的に彼らの建物を差し押さえ、そこに住む貧民どもを路頭に迷わせる。すべては新憲法が保障する『神聖不可侵なる私有財産権』と『契約の自由』の名の下にな!」
ゾクッ、と。モローの背筋に氷のような悪寒が走った。
それは、暴力やテロリズムではない。フランスという国家が定めた法律と、資本主義のルールを逆手にとった、最悪の経済侵略の宣言であった。
「……王妃は、公衆衛生という美徳で民衆の心を掌握したつもりだろう。だが、住む家を追われ、愛するパリから叩き出された民衆は、必ずこう思うはずだ。『王妃が街を綺麗にしたせいで、俺たちは住む場所を奪われたのだ』と。感謝は憎悪に変わり、美化された街は、持たざる者たちの怒りの炎で焼き尽くされる。……それこそが、私の描く最高のグランド・フィナーレだ」
デギュイヨンの狂気に満ちた知性が、石牢の暗闇の中で禍々しく輝いていた。
「さあ、モロー。選べ。このまま看守として借金に潰され、家族をスラムへと道連れにするか。それとも、私の手足となってパリの不動産王として君臨し、家族に最高の生活を約束するか。……簡単な二択だろう?」
モローは、手の中にある十万リーブルの手形を見つめた。
脳裏に浮かぶのは、借金取りに怯えて泣く妻の顔と、無邪気に笑う子供たちの顔。
彼に、それらを捨てることなどできるはずがなかった。
「…………分かりました、閣下」
モローは、手形とリストを深く懐に仕舞い込み、デギュイヨンに向かって、看守としてではなく、共犯者として深く一礼した。
「私の命と人生、あなたに賭けましょう。……明日、私は辞表を出します。そして、ご指示の通りに、パリの貴族たちを『買い上げ』に参ります」
「賢明な判断だ、我がエージェントよ。……存分に暴れろ。資金が足りなければ、いくらでも工面してやる。王室の国庫が尽きるのが先か、私の隠し資産が尽きるのが先か、存分にやり合おうではないか」
モローが去った後。
再び静寂を取り戻した石牢の中で、デギュイヨン公爵は鉄格子の隙間から、眼下に広がるガス灯に照らされたパリの街並みを冷笑と共に見下ろした。
「楽しみにしているがいい、マリー・アントワネット。……お前が心血を注いで磨き上げたその『純白のキャンバス』を、人間の強欲という泥で、完膚なきまでに真っ黒に染め上げてやろう」
バスティーユ監獄の亡霊は、一歩も外に出ることなく、ただ「契約書」と「借金」という目に見えない鎖を使って、分厚い石壁をすり抜けた。
マリーたちがインフラ革命の成功に酔いしれ、平和な日々を謳歌しているその足元で。
パリの土地という土地を食い尽くす、凶悪な「不動産戦争」のカウントダウンが、今、引き金を引かれたのであった。




