第159話 不可侵なる権利
チュイルリー宮殿の奥深く。
窓の分厚いカーテンが閉め切られ、昼夜の区別すらつかない薄暗い執務室の中で、王室最高法務顧問マクシミリアン・ロベスピエールは、充血した目で羽ペンを走らせ続けていた。
彼の机の上には、フランス全土から集められた数万ページにも及ぶ古文書や、地方ごとの慣習法の写本が、崩れかけの塔のように積み上がっている。
「……ダメだ。これでは全く論理が通らない。北部の慣習法では合法とされている土地の相続が、南部では教会法に抵触して無効となる。さらには国王の勅令一つで、昨日までの合法が今日の違法へと容易く反転する……。こんなものは法治国家ではない。ただの『権力者の気分次第』の無法地帯だ」
ロベスピエールは、書き損じた羊皮紙を無造作に丸めて床に投げ捨てた。
彼の目の下には、もはや常態化しているどす黒い隈が、さらに深く刻み込まれていた。
マリー・アントワネットとルイ16世が推し進めた数々の改革。それは確かに民衆の腹を満たし、命を救った。しかし、それらはすべて「国王の強力な権限」という強引な力技によって実行されたものに過ぎない。
(もし明日、国王陛下が暗殺され、暴君が玉座に就けばどうなる? パリを潤す浄水施設の権利はすべて国王の一存で一部の貴族に独占され、平民は再び泥水を啜る日々へ逆戻りするだろう。……王の善意に頼る国家は、あまりにも脆い)
だからこそ、彼は己の命を削って起草していた。
王の権力を制限し、国民の権利を永遠に保障するための、フランスという国家の新たな土台。
すなわち、フランス王国新憲法の制定である。
「……お邪魔するよ、ロベスピエール。また徹夜かい?」
不意に執務室の重厚な扉が開き、廊下の明るい光とともに、作業着姿の国王ルイ16世と、エプロンを巻いたマリー・アントワネットが姿を現した。
「国王陛下、王妃様……! いけません、このような紙埃にまみれたむさ苦しい部屋に、お二人自ら足を運ばれるなど……」
ロベスピエールが慌てて立ち上がろうとするのを、私は扇子で制して笑いかけた。
「いいのよ。この国の新しいルールを作る大天才が、過労で倒れちゃったら困るもの。ほら、夜食を持ってきたわ。脳みそが疲れている時は、良質な糖分が一番よ」
私が合図をすると、背後に控えていた近衛兵のアーサーが、銀のワゴンを恭しく押し入れてきた。その上に乗せられていたのは、何十層にも薄く焼き重ねられた、黄金色に輝く円筒形の巨大なケーキだった。
「これは……?」
「『バウムクーヘン』よ。専用のオーブンで、薄い生地を何度も何度も回転させながら焼き重ねていくの。切り分けると、まるで樹木の年輪みたいに美しい層ができているでしょう?」
私は自らナイフを手に取り、そのプレミアムな焼き菓子を切り分けて、ロベスピエールの前に差し出した。
「法律も同じだと思うの。一朝一夕で魔法みたいにポンと出来上がるものじゃない。古い層の上に、新しい時代の価値観を少しずつ、丁寧に焼き重ねていって、やっと強固な大木になる。……あなたが今やっているのは、フランスという大木に、一番強くて美しい『新しい年輪』を刻む作業よ」
私の言葉に、ロベスピエールはハッと目を見開き、フォークを受け取った。
「……年輪、ですか。王妃様は本当に、恐ろしいほどに物事の本質を突かれる」
彼はバウムクーヘンを一口かじった。卵とバターの濃厚な風味、そして何層にも重なった生地の繊細な食感が、疲弊しきった彼の脳神経に染み渡っていく。
「美味しい……。まるで、絡み合った複雑な数式が、一つの美しい定理に収束していくような……調和です」
「でしょ? さあ、糖分を補給したら、あなたの大作を見せてちょうだい。……ついに、完成したんでしょう?」
私が促すと、ロベスピエールは姿勢を正し、机の中央に鎮座していた分厚い羊皮紙の束――真新しいインクの匂いが漂う、フランス新憲法の草案を恭しく差し出した。
「はい。過去の判例、啓蒙思想家たちの哲学、そして現在我々が直面している実体経済。そのすべてを考慮し、条文として体系化いたしました。……陛下、王妃様。これは『絶対王政の終わり』を意味する文書です」
ロベスピエールの声には、かつてないほどの緊張が孕んでいた。
絶対王政の終わり。それはつまり、目の前にいる国王ルイ16世から、国家を自由に動かす絶対的な権力を『剥奪』することを意味する。
「第一章は【国民主権】と【立憲君主制】の定義です。国家の主権は国民にあり、国王は『神に選ばれた絶対者』ではなく、『憲法と法律に従って国家を運営する最高執行責任者』として再定義されます。……もはや陛下は、法律を無視して税を取り立てることも、気に入らない者を理由なくバスティーユに投獄することもできません」
ロベスピエールは、処罰を覚悟するような固い表情でルイを見つめた。
何百年も続いた王の特権を取り上げるのだ。普通の王であれば、この草案を見た瞬間に激怒し、彼を反逆罪で処刑するだろう。
だが。
「……素晴らしい!! 本当に素晴らしいよ、ロベスピエール!!」
「え?」
当の国王ルイ16世は、怒るどころか、目をキラキラと輝かせてロベスピエールの両手をガシッと握りしめていた。
「前からずっと思ってたんだ! 王様だからって、何でもかんでも一人で決めるなんて非効率だし、何より責任が重すぎる!『法律』があって、それに従ってシステムが自動的に動く国家……まさに僕が夢見た自動制御社会じゃないか!!」
「へ……、陛下……? 権力を失うのですよ?」
「権力なんて要らないよ! 誰かを裁判で裁く暇があるなら、僕はボイラー室で蒸気機関のピストンを磨いていたいんだ!これからは面倒な政治の判断は全部『憲法』と『議会』に任せて、僕は国のお抱えチーフ・エンジニアとして技術開発に専念できるってことだね! 最高じゃないか!」
目をバキバキに血走らせて喜ぶ王の姿に、ロベスピエールは呆気にとられていた。
「……まあ、この人は元々こういう人だから。権力欲より開発欲なのよ」
私が苦笑しながら補足すると、ロベスピエールは深くため息をつき、そして安堵の笑みを漏らした。
「……本当に、歴史上類を見ない、奇跡のようなお方だ。ですが陛下、憲法とは王を縛るためだけのものではありません。……民衆の生活と命を、貴族の横暴から守るための『最強の盾』でもあるのです」
ロベスピエールは草案のページをめくり、最もインクが濃く、何度も推敲された痕跡がある重要な条項を開いた。
「今回、私が最も心血を注いだのが、第四章【私有財産権の保護】と【契約の自由】に関する法整備です」
「私有財産権の保護?」
「はい。これまで、フランスの土地の権利は極めて曖昧でした。農民が代々耕してきた麦畑も、領主である貴族が『今日からここは俺の狩り場だ』と言い出せば、何の補償もなく奪われてきたのです。……強者が弱者の財産を気分で奪える社会に、経済の発展はあり得ません」
ロベスピエールは、銀縁眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「だからこそ、新憲法では『何人も、正当な法的手続きと補償なしに、財産を奪われない』と明記します。そして、これを単なる理念で終わらせないために、実務的な法整備も同時に行います。……すなわち、【全国土の正確な筆界確認】と、【不動産登記システムの創設】です」
「筆界確認……。土地の境界線をハッキリさせるってこと?」
「その通りです、王妃様。現在、優秀な測量士たちを全国に派遣し、科学的な測量図面を作成させています。隣の土地との境界をミリ単位で確定し、その土地が『誰のものか』を国家が保証するのです。さらに、農地を別の用途に転用する際や、不動産を売買する際の『権利証のやり取り』を、すべて国家の認定した公証人を通じて厳格に行うことを義務付けます」
彼の説明を聞きながら、私は深く感心していた。
それは前世では当たり前のことだが、この時代においては極めて画期的で、革命的なシステムだ。
「土地の権利が明確になれば、貴族も農民から無理やり土地を奪えなくなるわね。自分の家が絶対に奪われないと分かれば、民衆は安心して働き、投資することができるわ」
「ええ。身分に関係なく、自らの労働で得た正当な富と土地は、憲法によって永遠に守られる。そして『契約の自由』により、平民であっても自由に商売をし、財産を増やすことができる。……王妃様がインフラで築き上げた『物理的な清潔さ』を、私は法律という『社会的な清潔さ』で強固に補強いたします」
ロベスピエールの言葉には、弱者を守り、平等な社会を創り上げようとする、燃えるような正義感と理想が満ち溢れていた。
「……完璧だわ、ロベスピエール!」
私は、その草案にそっと手を触れた。
「すぐに国民議会を召集しましょう。この新憲法を、可決させるのよ」
「……ですが王妃様」
ロベスピエールが、眉間に深い皺を寄せた。
「特権を手放し、平民と同じ法の下に置かれることを、誇り高い貴族や聖職者たちが大人しく承認するでしょうか? 激しい反発と抵抗が予想されますが……」
「ふふっ。心配ないわ、ロベスピエール」
私は扇子を口元に当て、冷酷なまでに現実的な笑みを浮かべた。
「今の彼らは、もはや『血筋の誇り』よりも、パリの都市開発や通販事業で味わった『資本主義の甘い汁』に完全に魅了されているわ。……『これからは王室の許可なく、自由に契約を結んで金儲けができる』『手に入れた財産は絶対に奪われない』と説明すれば……強欲な彼らは、むしろ喜んでこの憲法に賛成票を投じるはずよ」
私の予測は、見事に的中した。
数日後、ベルサイユに召集された国民議会において、新憲法草案は、商業的な発展を渇望する貴族と平民の圧倒的な支持を受け、歴史的な満場一致で可決されたのである。
* * *
チュイルリー宮殿の前庭に集まった数万のパリ市民の前で、歴史的な式典が執り行われた。
バルコニーに立ったルイは、真新しい羊皮紙の巻物を高く掲げ、朗々とした声で宣言した。
「フランスの市民たちよ! 本日、余は『フランス王国憲法』への署名を完了した!
これより我が国は、王の気まぐれではなく、万人に平等な『法律』によって統治される法治国家となる!!」
広場を埋め尽くした市民から、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
「人間は、生まれながらにして自由であり、権利において平等である!!
何人も、法の手続きによらなければ逮捕されず、そして……すべての市民の『財産』は、不可侵の神聖な権利として永遠に保護される!!」
「「「うおおおおおおおおっ!! 国王陛下、万歳!! 王妃様、万歳!! 新憲法、万歳!!」」」
帽子が宙を舞い、人々が抱き合って歓喜の涙を流す。
彼らは理解していた。自分たちが汗水流して手に入れた家が、給料が、もう理不尽な税や貴族の横暴によって奪われることはないのだと。
フランスは今、絶対王政という古い殻を打ち破り、近代的な立憲君主制国家として、完全に生まれ変わったのだ。
「……素晴らしい光景ですね」
バルコニーの片隅で、ロベスピエールが広場の熱狂を見下ろしながら、安堵の笑みを浮かべていた。
「ええ。あなたが不眠不休で焼き重ねた『年輪』が、ついに完成したのよ」
私が微笑みかけると、彼は誇らしげに頷いた。
「はい。法律とは、力弱き民衆を理不尽な権力から守るための『最強の盾』です。私有財産と契約の自由を絶対の権利としたことで、もう誰も、彼らの平穏な生活を脅かすことはできません」
正義感に燃える若き法務顧問の瞳には、一切の疑念はなかった。
彼が作り上げた法律は、確かに民衆を絶対王政の暴力から解放した。
……太陽の光が当たる「表のパリ」においては……。
チュイルリー宮殿の歓喜から遠く離れた、パリの東部。
そこには、清潔に整備された大通りや、光り輝く噴水とは無縁の、分厚く冷たい石造りの巨大な要塞がそびえ立っていた。
――バスティーユ監獄。
かつては国王の絶対的な権力を象徴し、政治犯や思想犯を光の届かない地下牢へと繋いできたこの巨大な牢獄は、皮肉なことに、王室が民衆と手を取り合ってパリを浄化していく過程で、人々の記憶からぽっかりと忘れ去られたように静まり返っていた。
その最上階の、冷たい風が吹き込む石牢の中。
鉄格子のはまった小さな窓から、遠くパリの中心部――ガス灯の黄金色の光に照らされ、夜通し活気に満ちている光の都を、じっと見下ろしている「一つの影」があった。
「……聞こえるか。あの愚かな豚どもの、平和を謳歌する笑い声が」
暗闇の中で、鎖の擦れる冷たい音が鳴る。
影の主は、ぼろぼろの囚人服を身に纏っていたが、その背筋は奇妙なほど真っ直ぐに伸び、月明かりに照らされたその唇には、おぞましいほどの知性と、底知れぬ悪意に満ちた冷笑が刻まれていた。
「マリー・アントワネット。そして、ルイ。……見事な仕事だ。お前たちは、このフランスという泥沼を、純白で、最も美しいキャンバスへと漂白してのけた」
影の主は、鉄格子を掴む痩せこけた指に、ギリッと力を込めた。
「だが、お前たちは知るまい。……人間という生き物は、清潔で満ち足りた檻の中では、決して満足できない獣なのだということを」
男は、暗闇の中で羽根ペンを動かし、密かに看守から手に入れた粗悪な紙の切れ端に、何かの数式とも、哲学の詩ともつかない、緻密で狂気的な文字をびっしりと書き連ねていく。
「法と秩序、そして美化された公共心。……結構なことだ。だが、そのルールが強固になればなるほど、そこからわずかでも外れた者への『同調圧力』と『排除の暴力』は、かつての絶対王政よりも遥かに冷酷な刃となる」
キリキリキリ……と、羽根ペンが紙を削る不気味な音が、石牢に響く。
「白く美しい布ほど、一滴の『鮮血』がよく映えるものだ。……楽しみにしているがいい、王妃よ。お前たちが創り上げたその『完璧な幸福のルール』を、この私が裏側からハックし、パリの街を最高の狂乱と殺戮の舞台へと変えてやろう」
男が低く、地の底から這い出るような笑い声を漏らす。
その背後で、看守の足音が近づき、牢の小さな覗き窓が開かれた。
「おい、囚人番号二七四号。夜更かししてねえで、さっさと寝やがれ」
「……ええ。おやすみなさい、看守殿。明日の朝も、この街が『清潔』であることを祈っていますよ」
男は鉄格子から離れ、再び暗闇の中へと姿を消した。
光が強くなればなるほど、影はより深く、より濃く、その輪郭を研ぎ澄ませていく。
私有財産権の絶対的保護。
契約の自由。
それは「持たざる弱者」を守るためのルールであると同時に。
知識と資本を持つ「強者」が、法という正義を振りかざして、合法的に弱者からすべてを搾取するための、『最強の武器』でもあったのだ。
広場が歓喜に沸くその裏側で。
パリの薄暗い裏路地や、あるいはバスティーユの冷たい石牢の中で。
「……フフッ。私有財産の不可侵、契約の自由、だと?」
ロベスピエールが心血を注いで書き上げた新しい法律の条文を読みながら、獰猛な笑みを浮かべる『資本の獣』たちが、目を覚まし始めていた。
「王妃よ。自ら王の絶対権力を手放し、すべてを『法と経済のルール』に委ねたこと……その青臭い理想が招く地獄を、とくと味わうがいい」
マリー・アントワネット、26歳。
パリが世界で最も清潔で美しい都市へと生まれ変わったその裏側で、歴史の修正力が生み出した「最悪の毒」が、バスティーユの石壁の中で、静かに、そして確実に培養され始めていた。
私たちの気づかぬ足元で、新たな「革命の足音」が、不気味な産声を上げようとしていたのである。




