第156話 闇に潜む牙
「トリプル・バリア・フィルター」による王立浄水ステーションがパリ各所に設置されてから、わずか数週間。
街の変化は、誰の目にも明らかだった。
各広場に設けられた真新しい蛇口からは、二十四時間いつでも冷たく透き通った水が溢れ出し、市民たちはそれを無料で自由に汲むことができる。
子供たちは泥水でお腹を下すことなく元気に広場を駆け回り、労働者たちは清潔な水で顔を洗い、一日の疲れを癒やす。かつて「ドブネズミの街」と蔑まれた不衛生なパリの姿は、もはや過去のものになろうとしていた。
……だが、光が強くなればなるほど、濃くなる影がある。
「……ふざけるな。王室がタダで綺麗な水を配るせいで、我々『水売りギルド』の商売は干上がってしまったではないか!!」
パリの裏路地の、どんよりと澱んだ空気が漂う地下酒場。
これまでセーヌ川の濁った水を樽に詰め、高値で市民に売りつけて暴利を貪っていた悪徳水売り商人たちが、乱暴にジョッキをテーブルに叩きつけて激怒していた。
「しかも、下水道工事のせいで立ち退きを食らった地主の貴族たちも、怒り狂っているそうだ。……おい、裏社会の連中を集めろ」
ギルド長が、血走った目で懐から重い金貨の袋を取り出し、薄暗い部屋の隅に座るならず者たちへと放り投げた。
「明日は、パリの中心に巨大な『大噴水』を完成させる記念すべき『大通水式』らしいな。……その前に、セーヌ川沿いにある『メイン浄水プラント』の心臓部を爆破してしまえ! ボイラーが壊れれば、水はまた濁った泥水に戻る。そうすれば市民は再び、我々にすがりついて高い水を買うしかなくなるのだ……!」
「へへっ、任せな。王妃様が気取って作ったオモチャを、粉々に吹き飛ばしてやるよ」
顔に傷のある工作員のリーダーが、金貨の袋を貪欲な笑みで受け取った。
既得権益を奪われた者たちの、身勝手極まりない最悪の凶行。彼らは、市民の健康よりも己の懐を潤すことしか頭にないのだ。
その日の深夜。
セーヌ川のほとりに建設された、巨大なレンガ造りのメイン浄水プラント。そこはパリ全土に水を供給する、いわば新しい都市の「心臓」であった。
月が雲に隠れた暗闇の中、十数人の黒装束に身を包んだ工作員たちが、音もなくプラントの敷地内へと侵入を果たした。
「……見ろ。警備の兵士は一人もいやしねえ」
リーダーが、舌打ち交じりに冷笑する。
「天下の王室も、油断しきってるな。タダで水を配れば民衆が喜んで守ってくれるとでも思ってるのか? おめでてえ頭だぜ。……さあ、あの中央にある巨大な蒸気ボイラーの根元に、この火薬樽を仕掛けろ」
工作員たちは、暗闇の中で巨大なボイラー群へと忍び寄り、導火線付きの爆薬を次々と設置し始めた。
これが爆発すれば、濾過システムも煮沸システムも破壊され、復旧には数ヶ月を要するだろう。
彼らは知らなかった。
王室がここに兵士を配置していないのは、「油断」からではないということを。
「……おい、そこのネズミども。アタイらの大事な『命の泉』に、何を小細工してるんだい?」
工作員の一人がマッチを擦ろうとした、まさにその瞬間だった。
――カチッ。
暗闇だったプラントの内部で、いくつものランタンの明かりが一斉に灯された。
「な、なんだ!?」
工作員たちが驚いて振り返ると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
深夜だというのに、油まみれのサロペットを着た数十人の『パリの労働者たち』が、巨大なモンキーレンチや鉄パイプを肩に担いで、ぐるりと彼らを包囲していたのだ。
先頭に立つのは、市場の女リーダーにして工場長を兼任するカトリーヌと、かつてルイに命を救われた配管工のジャンだった。
「な、なぜお前らがこんな夜中に工場にいる!? 王妃の工場は『一日八時間労働の定時退社』が原則のはずだ!」
「ハッ! 知らねえのか? このプラントにはな、王様がアタイらのために作ってくれた『サウナ』と『大浴場』が完備されてんだよ! 夜勤明けの連中が、サウナでととのってから特製ポタージュを飲んでダベるのが、日課になってんだ」
カトリーヌが、首にかけたタオルで汗を拭きながら、獰猛な笑みを浮かべた。
「お前ら、水売りギルドの犬だな。……王妃様が俺たちの子供を救ってくれたこの綺麗な水と、王様が命懸けで作ってくれたボイラーを、ぶっ壊そうってのか?」
ジャンが、ギリッと歯を食いしばり、極太の鉄パイプを握り直す。
「ち、チィッ! ただの土方風情が粋がるな! 殺せ!!」
リーダーの号令とともに、工作員たちが隠し持っていたナイフや短銃を抜き、一斉に労働者たちへと襲いかかった。
だが、彼らは相手を、そしてこの『場所』を間違えていた。
「相手をしてやれ、野郎ども!! この工場は、アタイらの『誇り』だ!!」
「「「うおおおおおおおおっ!!」」」
バキバキに仕上がった『超ホワイト労働者』たちのフィジカルは、酒と裏稼業で体を甘やかしたならず者を遥かに凌駕していた。
「おらぁっ! 配管締めの要領で関節を極めてやる!」
「蒸気バルブ、開放!! 熱気で目潰しだ!!」
プシュァァァァッ!!
労働者たちは工場の複雑な構造を知り尽くしている。配管から高温の蒸気をピンポイントで噴射して工作員の視界を奪い、その隙に巨大なレンチによる見事な連携プレイで、次々と凶漢たちを床に組み伏せていく。
王室の近衛兵など出る幕もない。
自分たちの職場と、家族の健康を守るという『圧倒的な当事者意識』が、彼らを最強の防衛部隊へと変貌させていたのだ。
「な、なんて馬鹿力だ……! ぐはっ!」
ものの数分で、大半の工作員たちは手足をロープで縛られ、床に転がされていた。
「クソッ……! 舐めるなよ平民どもが! 一緒に吹き飛べェェッ!!」
だが、追い詰められたリーダー格の男が、血走った目で火のついた松明を、導火線の束に向かって力一杯に投げ放ったのだ。
「しまっ……! 導火線に火がつくぞ!!」
ジャンが絶叫する。
松明が放物線を描き、爆薬の山へと吸い込まれていく。労働者たちの位置からは、とても止めに入るのは間に合わない。
ボイラーが吹き飛ぶ。誰もがそう直感し、目を閉じた瞬間。
――カッ!!!!!
突如として、プラント全体、いや、セーヌ川沿いの広大な敷地一帯が、まるで『真昼の太陽』が出現したかのような、暴力的で圧倒的な「光」に包み込まれた。
「な、なんだぁっ!?」
「目がぁぁっ!!」
突然の閃光に、松明を投げた男も、労働者たちも、思わず両目を覆って悲鳴を上げる。
暗闇に慣れきった人間の網膜を焼くほどの眩い光。
それは、ルイが密かにプラント周辺の街路に設置していた数十基の『石炭ガス灯』が、一斉に点火された光だった。
「……そこまでです。愚かなネズミども」
光の洪水の中、整然とした足音を響かせて現れたのは、マスケット銃を構えた数十名の国民衛兵たちと、懐中時計を片手にしたナポレオンだった。
「な、衛兵だと!? 警備はいなかったはずだ!」
「警備兵を配置すれば、あなた方は警戒して別の場所を狙うかもしれない。……だから、あえて『最も隙のある状態』を偽装し、このプラントに誘い込んだのです。すべては私の計算通り。……アーサー!」
「イエス、ボス!!」
光で目が眩んだ工作員のリーダーの背後に、いつの間にか音もなく忍び寄っていたアーサーが、彼の手首を容赦なく捻り上げ、そのまま床に叩きつけた。
「ぎゃあぁぁっ!」
「安心しろ。投げられた松明は、スミートン殿特製の『水硬性セメント』で作られた防火シャッターで、空中で完璧に叩き落としておいた」
アーサーが冷酷な笑みを浮かべ、爆薬の前に下ろされた頑丈なコンクリートの壁をコンコンと叩いた。
圧倒的な光と、完璧な包囲網。
もはや、工作員たちに逃げ場はなかった。
「……見事な制圧力ね。さすがは私の誇る『最強の防衛部隊』だわ」
衛兵たちの後ろから、私はゆっくりと歩み出た。
作業用サロペットではなく、王妃としての豪奢なドレスを身に纏い、手には扇子を握りしめている。
「お、王妃様……!!」
カトリーヌやジャンたち労働者が、ハッとしてその場に跪こうとする。
「立っていなさい。今日はあなたたちが主役よ」
私は扇子をパチンと閉じ、彼らに向かって最高に誇らしい笑顔を向けた。
「命令されたわけでもないのに、自分たちの意志でこの場所を守り抜いてくれた。……金で雇われた兵士じゃない、自分たちの職場と街を愛する心こそが、どんな軍隊よりも強い『最強の盾』になるって証明してくれたわ!」
「王妃様……ッ!」
ジャンたち労働者の目に、熱い涙が浮かぶ。
「こいつらはどうしますか、マリー」
ナポレオンが、捕縛された工作員たちを一瞥して問う。
「監査局のジャンヌに引き渡しなさい。彼らを雇った悪徳商人や貴族から、損害賠償という名目で全財産をむしり取ってもらうわ。……このパリに、綺麗な水を拒むような特権階級の居場所はないってことを、骨の髄まで教えてあげるのよ」
「了解しました。……しかし、あのガス灯の光は凄まじい。ルイ陛下の技術力には恐れ入ります」
ナポレオンが、夜空を白日のように照らし出す黄金の光を見上げて感嘆する。
「ええ。これなら、どんな闇夜の犯罪者も一網打尽よ。……さあ、みんな!」
私は、プラントを照らす光の中で、高らかに宣言した。
「夜明けとともに、ついに『大通水式』が始まるわ! 邪魔者はすべて消え去った。私たちの創り上げた新しいパリの姿を、世界中に見せつけてやるのよ!!」
「「「うおおおおおおおおっ!! 国王陛下、万歳! 王妃様、万歳!!」」」
労働者たちと衛兵たちの歓声が、夜明け前のパリの空に響き渡った。
既得権益という名の古き悪臭を放つ牙は、民衆自身の力強い手と、王室の知恵によってへし折られた。
マリー・アントワネット、26歳。
彼女と市民たちとの間に結ばれた絶対的な絆は、いよいよ明日、光り輝く水の都の誕生とともに、歴史を書き換えるクライマックスへと向かっていくのである。




