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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第155話 命の泉

 ラプラスの悪魔的計算と、労働者たちの血と汗の結晶により、パリの地下に張り巡らされた下水道網は稼働し始めた。


 セーヌ川へと無秩序に垂れ流されていた汚水は隔離・排出されるようになり、花の都パリの街角から、あの致死量レベルの悪臭が嘘のように消え去ったのである。


「……素晴らしいわ。深呼吸しても、肺が腐る気がしない!」


 チュイルリー宮殿のバルコニーで、私は胸いっぱいに朝の空気を吸い込み、歓喜の声を上げた。


「ですがマリー、喜ぶのはまだ半分です。下水道で『出す方』を整備しただけでは、熱病の根本的な解決には至りません。市民が日常的に口にする『入れる方』――つまり、安全で清潔な飲料水の確保こそが、衛生革命の要です」


 ナポレオンが、懐中時計で時間を測りながら冷徹に指摘した。


「分かっているわ。だからルイに、郊外の綺麗な湧き水を引いてくる上水道管と、浄化システムの設計を頼んであるのよ」


「ええ、アントワネット! 設計は完璧だ!」


 油まみれの作業着を着たルイが、自信満々に巨大な図面を広げてドヤ顔を見せた。


「パリ郊外の水源から、『密閉式鋳鉄パイプ』で街の中心部の各広場まで水を引く。そして、そこに設置した『浄水ステーション』で、水を極限まで綺麗にするんだ! 名付けて『トリプル・バリア・フィルター』システムだ!」


 オタク王の熱弁によれば、構造は三段階に分かれている。

 第一段階で『砂利と砂の層』を通して泥や大きなゴミを濾し取り、第二段階で『ある特殊な粉』の層を通す。そして最後に、工場の排熱ボイラーを利用して『100度以上での煮沸消毒』と『石灰による凝集沈殿』を行うという、現代の浄水場とほぼ同じオーバーテクノロジーであった。


「このシステムを通せば、セーヌ川の泥水ですら、アルプスの雪解け水のように純粋で無菌に近い状態になる! これでパリ市民を苦しめる水系感染症はシャットアウトできるはずだ!」


 ルイが拳を握りしめ、目をキラキラと輝かせた。

 だが、この画期的なシステムが稼働を始めようとした矢先、パリの街で思わぬ猛烈な反発が巻き起こった。


「断固反対する!! 王妃殿下は、我々パリ市民に『毒』を飲ませるおつもりか!!」


 チュイルリー宮殿の門前に押し寄せてきたのは、保守派の重鎮グラモン公爵と、パリの『水売りギルド』の商人たち、そして彼らに扇動された数千人の市民たちだった。


「毒ですって? 綺麗な湧き水を浄化して配るだけよ」


 私がバルコニーから見下ろして反論すると、グラモン公爵が扇子を震わせて叫んだ。


「誤魔化さないでいただきたい! 浄水ステーションの建設現場に、大量の『真っ黒な粉』が運び込まれているのを大勢が見ておりますぞ! あんなススや泥のような黒い粉を通した水など、汚らわしくて飲めるはずがない!」


「そうだそうだ! 王室は俺たち平民を、黒い魔法の粉で呪い殺そうとしてるんだ!」

「セーヌ川の水をそのまま飲むのが、昔からの伝統だ! 俺たちの商売を邪魔するな!」


 水売り商人たちが怒号を上げ、市民たちが同調して拳を振り上げる。


(……出たわね、無知ゆえのパニックと既得権益者の結託。18世紀の人間にとって、『黒い炭』=『汚れ』という認識しかないのね)


 彼らが恐れているルイの『トリプル・バリア』の第二段階。それは、木材を高温で蒸し焼きにして作った「活性炭」の層である。現代では脱臭・水質浄化の要として当たり前に使われている活性炭だが、この時代の人々には「水を黒く汚すだけの不吉な物質」にしか見えなかったのだ。


 しかも、これまでセーヌ川の濁った水を樽に詰め、高値で売りつけて暴利を貪っていた水売り商人たちにとって、王室が無料で清潔な水を配ることなど、死活問題以外の何物でもない。


「……マリー。群衆の興奮状態は危険水域です。ここは一度、国民衛兵を出動させて武力で解散させるべきでは」


 ナポレオンが冷徹な目で群衆を見下ろしながら進言するが、私は首を横に振った。


「ダメよ。ここで力でねじ伏せたら、彼らは永遠に科学を恐れ、王室を恨み続けるわ。……未知の恐怖を打ち破るには、圧倒的な『事実』を目の前で見せつけるしかないのよ!」


 私はメガホンを手に取り、バルコニーの最前列へと歩み出た。


「静まりなさい!! グラモン公爵、それにパリの市民たち! 百聞は一見に如かず、よ! 今からここで、その『黒い粉』がどれほどの奇跡を起こすか、証明して見せるわ!!」


 私の圧倒的な覇気と大音声に、広場の怒号が一瞬ピタリと止んだ。


「ルイ! アーサー! 準備していた『アレ』を中庭へ出しなさい!」


「了解しました、王妃様!」


 アーサーの指揮により、中庭のど真ん中に、巨大な『透明なガラスの筒』を三つ縦に連結した、特大のデモンストレーション装置が運び出された。


 私はサロペットの袖をまくり上げ、群衆の目の前へと降り立った。


「よく見なさい! まず、これがあなたたちが毎日飲んでいる、セーヌ川の淀んだ泥水よ!」


 私は、バケツに入った茶色く濁り、悪臭を放つ水を、一番上のガラス筒に勢いよく流し込んだ。


「第一のフィルター、『砂利と砂』の層! ここを通ると、大きな泥やゴミが引っかかって……ほら、少し透明になったでしょ?」


 一番上の層を通った水が、二番目の筒へと滴り落ちる。確かに泥や小石は取り除かれていたが、水はまだ薄茶色く濁り、嫌な匂いも残っている状態だった。


「だが王妃殿下、ここからだ! その水が、次にあんたの用意した『黒い粉』の層を通るのだろう!? そんなことをすれば、ただでさえ濁った水が真っ黒の墨汁になってしまうではないか!」


 グラモン公爵が勝ち誇ったように叫ぶ。水売り商人たちも「そうだ! 毒の粉だ!」と囃し立てた。


「ふふっ。なら、その目で見届けなさい! これが『吸着の科学』よ!!」


 私はニヤリと笑い、二番目の筒から三番目の筒へ続くバルブを一気に開いた。

 薄茶色の水が、二番目のガラス筒――びっしりと『黒い木炭の粉(活性炭)』が詰まった層へと吸い込まれていく。


 群衆が、固唾を呑んで三番目の筒の出口を見つめた。


 ポタッ……ポタッ……。


 黒い炭の層を抜け、一番下のガラス容器に落ちてきた水。

 それを見たグラモン公爵も、水売り商人たちも、そして数千の市民たちも、全員が息を呑んで絶句した。


「な……なんだ、これは……!?」


 そこに落ちてきたのは、黒い水ではなかった。

 不純物も、濁りも、一切の汚れを持たない……まるで磨き上げられた水晶のように『透明でキラキラと輝く純水』だったのだ。


「ば、馬鹿な……! なぜ真っ黒な粉を通ったのに、こんなに透明になるのだ!? 魔術か!?」


「木炭の表面には、目に見えない無数のミクロの穴が空いているんだよ!」


 白衣を着たルイが、目を輝かせて解説に割り込んだ。


「そのミクロの穴が、水の中に溶け込んだ悪臭の成分や、目に見えない濁りの粒子を物理的に『吸着』して閉じ込める! だから、炭を通った水は驚くほど無臭で、透明になるんだ!! 黒い粉は水を汚すどころか、汚れを根こそぎ奪い取ってくれる最強のスポンジなんだよ!」


「すげえ……! 魔法じゃねえか!!」

「あんな泥水が、アルプスの湧き水みたいに透き通ってやがる!」


 市民たちから、感嘆のどよめきが湧き上がる。


「だが、これで終わりじゃないわ!」


 私は、その透明な水をガラスのビーカーにすくい取った。


「いくら透明に見えても、この中には病気を引き起こす『見えない怪物(細菌)』がウヨウヨしているの! 熱病の原因は、この目に見えない怪物よ! だから最後に、工場のボイラー熱で『100度以上でグツグツと煮沸』し、石灰でミネラル分を調整して殺菌するの!」


 ルイがアルコールランプでビーカーの水を沸騰させ、浄化された『究極の安全水』を完成させた。


「……だが、そんな見世物の手品で騙されるワシではないぞ! いくら透明でも、そんな怪しい工程を経た水を、誰が命懸けで飲むというのだ!」


 グラモン公爵が、最後の一線を越えまいと必死に抵抗する。


「誰が飲むか、ですって?」


 私は不敵に微笑み、沸騰して適温に冷まされたその『命の泉』の水を、クリスタルのグラスになみなみと注いだ。

 そして群衆の目の前で、それを一気に飲み干した。


「……ぷはぁっ! 臭みなんて一切ない、最高に甘くて美味しいお水よ!」


「お、王妃自ら毒見を……!?」

「だが、大人が少々飲んだところでごまかせるかもしれん! か弱い子供が飲めばどうなるか……!」


 まだ食い下がる商人の声に、私は広場の奥に向かって呼びかけた。


「ジョゼフ! こっちへいらっしゃい!」


「ママーッ!!」


 私の声に応え、宮殿の入り口から元気に走ってきたのは、もうすぐ5歳になる王太子、ジョゼフだった。彼は少しも王族らしくなく、シャツの袖をまくり上げたわんぱくな姿で私の足元に飛び込んできた。


「みんな、よく見ていなさい。これがフランスの未来を背負う王太子のための『命の水』よ」


 私は、新しいクリスタルグラスに浄化水をたっぷりと注ぎ、ジョゼフに手渡した。


「ジョゼフ、喉が渇いているでしょう? さあ、飲んでごらんなさい」


「うんっ!」


 ジョゼフは両手でしっかりとグラスを受け取ると、数千人の市民が息を呑んで見守る中、ゴクゴクと勢いよく水を飲み干した。


「ぷはーっ!!」


 グラスを空にしたジョゼフは、口元を手の甲で無造作に拭うと、とびきりの笑顔を弾けさせた。


「ママン、このお水、すっごく冷たくてあまい!! いつものお水より、ずーっとおいしいよ!!」


 5歳目前の男の子の、嘘偽りのない真っ直ぐな感想。

 その元気いっぱいの声と笑顔が広場に響き渡った瞬間、市民たちの間に張り詰めていた疑念の糸が、完全に断ち切られた。


「……王妃様が自ら飲み、あんなに元気な王太子殿下までが……!」

「見ろ! 王室が自らの命を懸けて、子供の口に入る安全を保証してくれたんだ!」

「あの水は本物だ!! 王妃様は俺たちを呪う魔女なんかじゃない、俺たちを救ってくれる女神様だ!!」


 もはや、疑う者は誰一人いなかった。

 一国の王妃と王太子が、群衆の目の前でその安全性を身をもって証明したのだ。これ以上の説得力など存在しない。


「さあ! 各広場の浄水ステーションのバルブを開きなさい! パリの市民たちに、究極の『美味しくて安全な水』を配るのよ!!」


 私の号令とともに、アーサーと労働者たちが浄水ステーションの巨大なバルブを回す。


 ザバァァァァァァッ!!!


 パリ中の広場に設置された真新しい蛇口から、勢いよく透き通った水が溢れ出した。


「うおおおおおおっ!! 冷てぇ! そして甘ぇ!!」

「これで俺たちの子供も、泥水を飲んで腹を下さずに済むんだ!!」


 水売り商人たちの抗議の声など、市民たちの歓喜のうねりの中に完全に掻き消されてしまった。


「……見事なデモンストレーションです。これで公衆衛生の概念は、民衆の心に『科学的な信仰』として深く根付きましたね」


 バルコニーから見下ろしていたナポレオンが、手帳にチェックを入れながら感嘆の息を漏らした。


「ええ。それに、水売りギルドの連中には、もう用済みですわ。彼らがこれまで不当に貪っていた利益は、我が財務局がすべて没収し、浄水施設の維持費に充てさせていただきますのよ」


 ジャンヌが、銀縁眼鏡を妖しく光らせてソロバンを弾いている。


「フフッ。これでパリは、文字通りの『命の泉』を手に入れたわね」


 私は「もう一杯!」とお代わりをねだるジョゼフの頭を撫でながら、市民たちが笑顔で水を汲み合う光景を誇らしく見つめた。


 マリー・アントワネット、26歳。

 彼女は、18世紀の蒙昧な衛生観念を、木炭の魔法と圧倒的な「母と子の証明」によって見事に粉砕し、パリに『命の泉』を湧き上がらせたのである。


 ……だが。

 市民たちの歓喜の裏側で、この絶対的な敗北を喫した保守派貴族と闇の商人たちが、次なる「物理的な破壊工作」に向けて、不気味に牙を研ぎ始めていることを、私たちはまだ知る由もなかった。

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