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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第152話 ラプラスの悪魔

「……フッ。ハハハハハッ!」


 チュイルリー宮殿の執務室。

 私が突きつけた『ラプラスの悪魔』という言葉を聞いた瞬間、冷徹で傲慢だった天才数学者、ピエール=シモン・ラプラスは、腹の底から乾いた笑い声を上げた。


「面白い。私の理論を、そのようなオカルトめいた『悪魔』という表現で例えるとは。……王妃殿下、あなたは科学を理解しているようで、やはり感情論で動くただの素人だ」


 ラプラスは笑いを収め、銀縁の単眼鏡の奥から氷のような視線を私に向けた。


「いいですか。人間の『絶対に死なせたくない』という愛情も、『国を良くしたい』という熱意も、私から言わせれば脳内の微小な電気信号と化学物質の分泌が引き起こす、極めて物理的で予測可能な『反応』に過ぎません。……情熱が岩盤を砕きますか? 努力が、重力に逆らって汚水を高台へ押し上げますか?」


 彼は机の上のパリの地図を指先でトントンと叩いた。


「パリの地下は、ローマ時代から掘り尽くされた採石場の迷宮です。地盤は脆く、地下水脈が入り組んでいる。そこに全長数十キロに及ぶ下水道を、自然流下だけでセーヌ川下流へ流し切る。……そのためには、地下全域にわたって狂いのない勾配を設計し、かつその通りに土を掘り進めなければならない」


 ラプラスは、冷酷な事実を突きつける。


「たった数センチでも狂えば、あるいは掘る深さを間違えれば。……汚水は逆流し、ガスが溜まり、パリの地下は巨大な汚物爆弾と化す。だから私は『成功率ゼロ』だと言ったのです。人間の不正確な手作業で、宇宙の真理たる完璧な数式をなぞることなど不可能だからです」


「……不正確な手作業、ね」


 私は、彼の言葉を遮るようにして、ふっと口角を上げた。


「ラプラス先生。あなたの数式は完璧かもしれないわ。でも、あなたは『現場』を知らない。……今のフランスには、あなたのその完璧な数式を、寸分の狂いもなく現実に叩き出す『バケモノたち』が揃っているのよ!」


 私が扇子をバチンと鳴らした瞬間。


「その通りだ、数学者殿!」


 扉が開き、煤と油にまみれた革エプロン姿の男――フランス国王ルイ16世が、真鍮製の測量儀を肩に担いで堂々と入ってきた。


「君が勾配の数式を弾き出すなら、僕がそれを現実に落とし込むための『水準器』と『精密測量ユニット』を設計しよう! 労働者のカンに頼るんじゃない、機械の精度で彼らの作業を統制するんだ!」


「こ、国王陛下自らが、土木作業の測量機器を……!?」


 ラプラスが目を丸くする横で、今度はナポレオンが工程表を抱えて進み出た。


「そして、労働者の管理は私が担います。……一日八時間労働の厳守。疲労によるミスを防ぐためのシフト制導入と、作業区画ごとの責任と報酬の明確化。彼らの脳内化学物質すらも、私の策謀で完璧に統制してご覧に入れましょう」


 ルイの『テクノロジー』と、ナポレオンによる『マネジメント』。


「……なんという陣容だ」


 ラプラスの額に、微かな汗が滲んだ。

 彼の脳内で、決して覆ることのなかった計算式に、未知の変数が次々と放り込まれ、エラーを引き起こしていく。


「……ですが、まだ足りません」

 ラプラスは、震える手で眼鏡を押し上げた。


「理論と管理が完璧でも、パリの地下は泥と水との戦いです。地下水脈を遮断し、崩落を防ぎながら、汚水が絶対に漏れない『強固なトンネル』を建設する。……現在のフランスの脆い漆喰とレンガの技術では、数年で水圧に負けてトンネルが崩壊します!」


「その問題なら、すでに解決の手札を用意してありますよ」


 不意に、部屋の隅から氷のように冷たい声が響いた。いつの間にかそこに立っていたのは、アーサーだった。


「アーサー? 解決の手札って……」


「王妃様が『パリの地下を掘る』と決断された日の時点で、私は密かに動いておりました。……イギリス海軍の封鎖網をかいくぐり、我が祖国、大英帝国が誇る『最高の土木技術』を、パリへお連れしました」


 アーサーが指を鳴らすと、屈強な国民衛兵に両脇を抱えられた一人の初老の男が、執務室へと引きずり込まれてきた。


「離せ! 私は大英帝国の誇り高き技術者だぞ! 視察に来ただけだというのに、いきなり麻袋を被せて拉致するとは、野蛮なフランス人め!!」


 英国風のツイードのコートを着たその男は、真っ赤な顔をして喚き散らしている。


「ご紹介しましょう。イギリスの産業を根底から支える土木工学の権威であり、水中で固まる『水硬性セメント』の第一人者。……ジョン・スミートン氏です」


(――ッ!? ジョン・スミートン!? 土木工学の超天才を拉致してきちゃったの!?)


「アーサー! あなた勝手に他国の要人を力技で誘拐してきて!! 国際問題になるわよ!」


「ご安心を。彼にはすでに、チュイルリー工場の『ホワイト労働環境』と『極上マッシュルーム・ステーキ』を体験させております」


「えっ?」


「……むぐっ。あ、あの肉厚なキノコと、定時退社の概念は……確かに我が国のブラックな炭鉱とは比較にならない天国だったが……! いや、私は買収などされんぞ!!」


 スミートンは口の周りにうっすらとステーキソースの跡を残しながら、必死にイギリス人としてのプライドを保とうとしていた。


「スミートンさん! あなた、水の中で固まるセメントを作れるのかい!?」


 ルイが目を輝かせて詰め寄る。


「ふん。私はエディストンの灯台を建設した男だ。石灰石に粘土を混ぜて焼成した水硬性石灰を使えば、水びたしの地下だろうが、セーヌ川の川底だろうが、絶対に水を通さない強固なコンクリートの壁を作ることができる!……だが、その製法は我が大英帝国の最高機密。お前たちフランスの豚に教える気は……」


「予算は無制限よ」


 私が、スミートンの言葉をスパンと遮った。


「……な、なんだと?」


「パリの地下全域、数十キロに及ぶ世界最大の下水道トンネルネットワーク。そのすべての基礎工事の『総監督』をあなたに任せるわ。資材は使い放題。最新型蒸気ポンプも提供する。あなたの思い描く『最強の土木技術』を、いっさいの妥協なく、このパリの地下で実現させて欲しいの!」


「パ、パリ全域の地下を、私の設計したセメントで……!? そ、そんな天文学的な規模の土木工事、イギリスのケチな議会では絶対に予算が下りない……!!」


 スミートンの瞳孔が、極限まで見開かれた。

 技術者にとって、「無限の予算」と「世界最大のキャンバス」を与えられること以上の誘惑は存在しない。


「ど、どうする……! 祖国を裏切るのか……!? だが、私の水硬性セメントの真価を、世界で最も巨大なインフラとして歴史に刻む、これ以上のチャンスは……!」


 スミートンが葛藤で頭を抱える中、ラプラスがゆっくりと眼鏡を外した。


「……降参です」


 天才数学者は、深く、深くため息をついた。


「王の技術、軍事的天才による労務管理、英国最高の土木技術者の参画。そして、それらを結びつける王妃殿下の狂気的な熱量。……私の計算は、崩壊しました。いや、あなた方が『不可能という変数を物理的に叩き潰した』のです」


 ラプラスは、机の上に広げられたパリの地図に向かい合い、懐からコンパスと計算尺を取り出した。


「……私の『悪魔の計算力』のすべてを懸けて、パリの地下に完璧な『黄金の勾配』を引きましょう。ただし、1ミリの誤差も許しませんよ、ルイ陛下、スミートン殿」


「望むところだ!!」


「フン、イギリスの土木技術を舐めるなよ、数学者!」


 かくして。

 フランスのオタク王、未来の軍事皇帝、英国の土木王、そして未来予知の数学者という、18世紀の理系アベンジャーズが、パリの悪臭を浄化するための『地下大改造プロジェクト』に向けて結集したのである。


 だが、この途方もないメガプロジェクトを動かすには、避けては通れない「最悪の障害」が待っていた。


 数日後。チュイルリー宮殿の会議室。


「断固、反対する!!!」


 激しい怒号とともにテーブルを叩いたのは、パリの土地や商業利権を握る保守派の貴族たちと、大商人たちの代表だった。


「パリ中の石畳を剥がし、地下を掘り返すだと!? そんなことをすれば、馬車の通行は遮断され、我々の商店の売り上げは激減する! 経済活動がストップしてしまうではないか!」


「そうだ! 第一、平民のクソ尿を流すためのドブ掃除に、なぜ我々の血税を投じなければならないのだ! 病気が流行るなら、スラムの平民どもをパリの外へ追い出せば済む話だろう!」


 身勝手極まりない特権階級たちの猛反発。

 彼らにとって、自分たちの住む高級エリアさえ清潔であれば、街の裏側で子供たちがコレラで死んでいようが知ったことではないのだ。


「……静まりなさい」


 私は、サロペットの上からジャケットを羽織り、彼らを冷ややかに見下ろした。


「ドブ掃除? 随分と想像力の貧困な頭脳をお持ちのようね。私が計画しているのは、ただの下水道工事じゃないわ」


 私は、ルイとラプラスが徹夜で仕上げた『パリ大改造計画の完成予想図』をバサァッとテーブルに広げた。


「な、なんだこれは……!?」


 貴族たちが、その絵を見て息を呑む。

 そこに描かれていたのは、迷路のように入り組んだ汚い中世のパリの姿ではなかった。


 地下の下水道工事に合わせて地上の区画を整理し、広く真っ直ぐに伸びた美しい大通り。道の両脇には青々としたマロニエの並木が植えられ、夜になればガス灯が煌々と街を照らす。そして、セーヌ川沿いには、悪臭を放つ皮革工場を立ち退かせ、代わりに美しいレンガ敷きの『遊歩道』と、オープンカフェが並んでいる。


(……史実では、約70年後にナポレオン3世とオスマン男爵が成し遂げる『パリ大改造』。それを、私が今ここで前倒ししてプレゼンしてやるわ!)


「いいこと? 下水道工事で掘り返した土と石を使って、この狭くて汚いパリの街並みを、世界で一番美しく、最も価値のある『光の都』へと作り変えるのよ!」


 私は、圧倒的なカリスマ経営者のトーンで言い放った。


「今はスラム化している土地も、インフラが整備されれば地価は間違いなく十倍、二十倍に跳ね上がる! 通りが広くなれば、大型の馬車が高速で行き交い、物流の効率は飛躍的に向上するわ!」


「ち、地価が二十倍だと……!?」


 商人たちの目の色が、スッと変わった。


「私は、あなたたちに税金を払えとは言っていないわ。……この新しい大通り沿いの『商業区画の優先開発権』を、今のうちに買わないか、と言っているのよ」


 隣で、財務長官のジャンヌが、悪魔的な笑みを浮かべて分厚い契約書を並べた。


「工事資金は、皆様からの『土地利用権の先行販売』で賄います。今なら、パリの目抜き通り一等地の開発権が、破格のお値段で手に入りますわよ? ……もちろん、投資を渋って出遅れれば、数年後にはライバルの商人たちが莫大な富を独占するのを、指をくわえて見ていることになりますが」


「「「…………ッ!!!」」」


 貴族と大商人たちの間で、強烈な「欲望」と「ライバルへの出し抜き合い」の火花が散った。


 平民の命を救うための衛生事業など、彼らには一文の価値もない。


 だが、「投資すれば莫大なリターンがある都市開発」となれば話は全く別なのだ。


「買おう!! そのシャンゼリゼ通りとやらの区画、我が商会がすべて買い占める!」


「ふざけるな、私の方が先だ! 大通りのガス灯の設置利権もまとめて購入するぞ!!」


 怒号のような反対意見は一瞬にして消え去り、テーブルの上は、開発利権を巡る血で血を洗うオークション会場と化した。


「……人間心理の掌握と、資本主義のハック。……マリー、あなたは本当に恐ろしい方だ」


 ナポレオンが、呆れを通り越して畏敬の念を込めた目で私を見た。


「ふふっ。綺麗事だけじゃ街は綺麗にならないのよ。彼らの強欲なエネルギーも、パリの地下を掘るための立派な『重機』の一つなんだから!」


 資金の調達と、政治的反発の鎮圧。

 こうして、フランスの歴史上最大規模となる「パリ地下水脈の革命」の号砲が、高らかに鳴り響いたのである。


 マリー・アントワネット、26歳。

 彼女の冷酷なまでのビジネスセンスと、泥臭い命への執念が、中世の悪臭漂うパリを『近代都市』へと強制進化させるための、最も過酷で、最も壮大な工事の幕を開けたのであった。

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