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マリーアントワネットに転生したけど処刑されたくないので、お菓子はほどほどに  作者: てっぺい
第六章

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第151話 悪臭の都

 裏切り者カミーユ・デムーランを追放し、宮殿内に巣食っていた見えない「影」を断ち切ってから数ヶ月。


 1782年の夏、フランスはかつてないほどの圧倒的な活気に満ちていた。


 ルイの蒸気機関は順調に稼働し、ジャンヌの徹底した財務管理と「誰も飢えさせない」ホワイト労働政策により、パリの経済は右肩上がりの爆発的な成長を遂げている。対仏大同盟の不穏な動きも、今のところ国境付近での小競り合いに留まっていた。


 私たちの築き上げたユートピアは、ついに安定期に入った。

 ――かに、思えた。


「……っっっ!! く、くっさぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 ある夏の朝。

 チュイルリー宮殿のバルコニーに立ち、優雅に朝の空気を胸いっぱいに吸い込もうとした私は、あまりの悪臭に肺を裏返さんばかりに咽び、その場にうずくまった。


「お、王妃様!? 大丈夫ですか!」


 背後に控えていたアーサーが、慌てて香水の染み込んだハンカチを私の鼻元に当ててくれる。


「ゲホッ、ゴホッ……! ありがと、アーサー。……でも、なんなのよこの匂い! まるで生ゴミとヘドロと、何日も放置された汲み取り式トイレをミキサーにかけて炎天下で煮詰めたような……!」


 私は涙目でパリの市街地を見下ろした。

 煙突からは景気良く白い水蒸気が上がり、通りには馬車や人々が行き交っている。しかし、その街全体を覆うように、目に見えない黄色い悪臭のもやが立ち込めているように感じられたのだ。


「無理もありませんわ、王妃様」


 分厚い帳簿を抱えたジャンヌが、ハンカチで鼻を押さえながらバルコニーへやってきた。


「ホワイト工場の噂を聞きつけ、地方から仕事を求めてパリへ移住してくる移民の数が爆発的に増え続けているのです。現在、パリの人口はかつての1.5倍……およそ七十万人に膨れ上がっております」


「七十万人……!」


「ええ。ですが、パリの街のインフラは中世から全く変わっておりませんのよ。道端にはゴミが山積みにされ、人々は相変わらずおまるの中身を窓から直接通りへ投げ捨てる。……人口が急増した分、排泄物と生活排水の量も増え、それがすべて未処理のままセーヌ川へと流れ込んでいるのです」


 ジャンヌの言葉に、私は絶句した。


 18世紀のパリは「世界一不潔な都市」として悪名高い。

 宮殿の内部こそ私たちが清潔に改造したが、一歩外へ出ればそこは巨大な汚物溜まりなのだ。私たちが作り上げた「圧倒的な経済成長」が、皮肉にもパリの許容量を超えさせ、致命的な環境破壊を引き起こしていた。


 そして、その不衛生のツケは、最悪の形で私たちの足元をすくい始めていた。


「……王妃様。事態は極めて深刻です」


 その日の午後。アカデミーの医務室で、主治医であるサンソン先生が重々しい声で告げた。

 医務室のベッドには、高熱で顔を真っ赤にして苦しそうに息をする子供たちが、何十人も横たわっていた。


「うぅ……、あたまが、いたいよぉ……」


 私は、ベッドの一つに駆け寄った。

 そこで苦しんでいたのは、我が息子ジョゼフの「おともだち」であり、いつも一番元気に走り回っていた少年・マルセルだった。


「マルセル、しっかりして! お水、飲める!?」


「ママン……マルしぇる、あついって……」


 ジョゼフが、自分の大切にしている木製の歯車のおもちゃを握りしめ、涙目でマルセルのベッドにしがみついている。


「サンソン先生、これは一体何の病気なの!? 昨日まであんなに元気だったのに!」


「……『腸チフス』、あるいは『コレラ』の初期症状に似ています。激しい下痢と高熱を伴い、急激に体力を奪っていく恐ろしい熱病です」


 サンソン先生は、冷水で絞った布をマルセルの額に乗せながら、悔しげに唇を噛んだ。


「アカデミーの児童だけではありません。工場の労働者たちの間でも、ここ数日で突発的な発熱と下痢を訴える者が急増しています。……原因はおそらく『水』です」


「水……セーヌ川の水ね!」


「はい。急激な人口増加により、川の水質汚染が限界を突破したのです。生活用水としてその毒水を使用している限り、病魔の連鎖は止められません」


 サンソン先生の言葉に、私の背筋を冷たい氷が滑り落ちた。


「マリー。このまま感染が拡大すれば、工場は閉鎖せざるを得なくなります」


 医務室の入り口に立っていたナポレオンが、極めて冷徹な予測を口にした。


「カミーユの思想的テロは防ぎましたが、今度は病魔です。労働者が倒れれば、生産ラインは止まる。生産が止まれば、我々が血の滲むような思いで得た経済の好循環が、すべてドブに流されることになります」


 ナポレオンの言葉は残酷だが、紛れもない事実だった。

 どんなに素晴らしい蒸気機関を作っても、どんなに美味しい食事を用意しても。それを動かし、食べる人間が病に倒れてしまえば、国家はあっという間に崩壊する。


(ここに来て、バイ菌に国を滅ぼされるなんて、冗談じゃないわ!!)


 私は、高熱に苦しむマルセルの小さな手を、両手でギュッと握りしめた。


「……サンソン先生。子供たちに、一度煮沸した白湯と、塩と砂糖を少し混ぜた水を少しずつ飲ませて脱水を防いでちょうだい。絶対に、彼らの命を落とさせないで」


「承知いたしました。私の命に代えましても」


 私は立ち上がり、サロペットの汚れを強く払って振り返った。


「ナポレオン、ルイを呼んで! 今すぐ緊急の御前会議を開くわ!!」


 * * *


 一時間後。チュイルリー宮殿、作戦会議室。


「……パリ全土の『上下水道』の整備。……本気かい、アントワネット」


 巨大なパリの市街地図を前に、作業着姿のルイがゴクリと息を呑んだ。


「ええ、本気よ! もう誤魔化しはきかないわ。パリの地下に、汚水を一滴残らずセーヌ川の遥か下流へと排出する『地下下水道トンネル』を掘るの! そして同時に、郊外の綺麗な湧き水をパリの中心部まで引っ張ってくる巨大な水道網を張り巡らせる!!」


 私が扇子で地図をバンッと叩くと、ジャンヌが頭を抱えて悲鳴を上げた。


「お、王妃様、正気ですか!? パリ全域の石畳をひっぺがし、地下にトンネルを掘るなど……それこそ利益が吹き飛ぶどころか、再び天文学的な借金を背負うことになる超絶スーパー・メガ・プロジェクトですわよ!!」


「ええ、お金はかかるわ。でも、民衆の命と労働力が失われれば、国そのものが死ぬのよ! 命より高いインフラ投資なんてないわ!!」


 私は一歩も引かずに言い放った。


「それに、ただの出費にはしないわ。ジャンヌ、パリ中の商人たちに『清潔な水が通った安全な商業エリア』の優先利用権を事前販売しなさい。工事資金を調達するのよ!」


「……ッ!! な、なるほど、未来のインフラ価値を担保にしたクラウドファンディングの進化系……! それなら、なんとか資金は回せるかもしれませんわ!」


 ジャンヌの目が再び金貨のマークに変わる。


「だが、問題は技術だ」


 ルイが、眉間に深いシワを寄せて地図を見つめた。


「パリの地形は、平坦に見えて実は非常に複雑な起伏がある。汚水を『重力だけ』で自然に流し切るためには、全域の地下トンネルに完璧な勾配をつけなければならない」


 オタク王の顔に、かつてないほどの深刻な影が落ちた。


「もし傾斜の計算を間違えれば、汚水は逆流し、地下で溢れ返ってメタンガスによる大爆発を起こす。……僕一人の力では、パリ全土の地形の流体力学と、土圧の計算を弾き出すのは不可能だ」


 ルイの言葉に、部屋の空気が重く沈んだ。

 あの天才発明家のルイをして「不可能」と言わしめるほどの、圧倒的な計算量の壁。


「……計算力、ですか」


 その時、ナポレオンが懐中時計の鎖をもてあそびながら口を開いた。


「ならば、その壁を打ち破る『最強の頭脳』をスカウトすればいい。……実は最近、陛下が発表された蒸気機関の論文を読んでか、王室に頻繁に手紙を送ってくる、一人の狂気的な数学者がいます」


「数学者?」


「ええ。彼は『この宇宙のすべての原子の運動を計算できれば、過去から未来のすべてを完璧に予測できる』と豪語する、極度の決定論者にして天才的頭脳の持ち主。……名を、ピエール=シモン・ラプラスと言います」


(――ッ!? ラプラス!? あの『ラプラスの悪魔』の語源になった、歴史に名を残す超・天才数学者じゃないの!!)


 私の脳内に、再び前世の歴史知識がバチバチと音を立てて閃いた。


「そのラプラス先生を、すぐにこの宮殿に呼びなさい! 彼なら、パリの地下水道の傾斜を計算できるかもしれないわ!!」


 * * *


 翌日の午後。

 チュイルリー宮殿の執務室に、一人の男が案内されてきた。


 ピエール=シモン・ラプラス。

 神経質そうに細められた目と、ボサボサに乱れた髪。彼の腕には、厚い計算式の束が何冊も抱えられている。


「……王妃殿下、ならびに国王陛下。私のようなしがない数学者を呼び立てるとは、一体どのようなご用件でしょうか。私の時間は、宇宙の真理を解き明かすための計算で、一秒たりとも無駄にはできないのですが」


 挨拶もそこそこに、ラプラスは極めて傲慢で、人間嫌いな態度を隠そうともしなかった。


「単刀直入に言うわ、ラプラス先生」

 私は、彼の前にパリの巨大な地形図を広げた。


「このパリの地下に、汚水を排出するための『重力による自然流下トンネル』を張り巡らせたいの。あなたのその頭脳で、パリ全土の地形データを解析し、狂いのない『勾配ルート』を計算してほしいのよ」


「……下水道の、計算?」


 ラプラスは、私が広げた地図を一瞥し、そして……フッと、鼻で嘲笑った。


「お断りします」


「えっ?」


「計算するまでもありません。私の脳内における確率論的予測モデルによれば、このプロジェクトが成功する確率は万に一つもない。……事実上の、ゼロです」


「ゼ、ゼロ!?」

 ルイが驚いて身を乗り出す。


「ええ。地形の複雑さだけではありません。地下に眠る硬い岩盤、未知の地下水脈、そして何より……無知で怠惰な労働者たちが、私の計算した完璧な数式通りに土を掘れる確率など皆無です」


 ラプラスは、冷酷な目で私を射抜いた。


「人間は、数式のように美しく動かない。必ずミスをし、疲労し、サボる。……そんな不確定要素の塊である『人間』を使った大工事など、途中で必ず崩落事故や汚水の逆流を引き起こし、破綻します。私は、最初から失敗すると分かっている無駄な計算に、尊い時間を浪費する気はありません」


 それは、天才ゆえの絶対的な未来予測であり、不完全な人間に対する深い絶望だった。


「……失礼します、王妃殿下。あなた方は、自らの手で墓穴を掘ろうとしているだけです」


 ラプラスが冷たくきびすを返し、部屋を出て行こうとした。


 だが。


「……待ちなさい」


 私は、彼に向けて、低く、しかし絶対に引かない声で告げた。


「0パーセント? ……上等じゃないの」


「何?」

 ラプラスが怪訝そうに振り返る。


「あなたは致命的な変数を見落としているわ! あなたの数式には、『絶対に死なせたくない』という人間の愛情と、『この国を良くしたい』という民衆の熱が1ミリも考慮されていない!!」


 私は、扇子をバチンと開き、未来を予知する天才数学者に真っ向から指を突きつけた。


「私たちの情熱が、あなたのその計算を凌駕できるかどうか……私と勝負しなさい、ラプラスの悪魔!!」


 静まり返る執務室。

 天才数学者の凍りついた瞳と、私の燃え盛る生存本能が、真っ向から激突した。


 マリー・アントワネット、26歳。

 政治的な裏切りという見えない影を切り抜けた彼女は今、不潔な病魔に沈むパリを救うため、人間の限界を超えた「パリ大改造計画」へと、再び泥まみれの戦いを挑むのである。

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