第149話 不協和音
内通者がいる。
その事実が発覚してから数日間、チュイルリー宮殿内部の空気は、目に見えない薄氷を踏むような緊張感に包まれていた。
「……マリー。アーサーの諜報部隊と、ジャンヌ局長の財務監査によるスクリーニングが完了しました」
深夜の執務室。
分厚い報告書を机の上に叩きつけるように置いたナポレオンの顔は、冷酷な尋問官のそれだった。
「このチュイルリー宮殿や、事件現場であるベルサイユ宮殿。その双方を自由に出入りできる権限を持ち、書物庫の警備の死角を把握できる頭脳を持つ者。……容疑者は、ある一人の男に絞られました」
私は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
信じたくない。共に汗を流してきた仲間の中に、裏切り者がいるだなんて。
「……誰なの?」
「……ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです」
「なっ……! モーツァルトが!?」
私は思わず椅子から立ち上がった。
あの無邪気で、音楽のことしか頭にないような彼が、カリオストロと手を組んで国家機密を売ったというのか?
「信じられないわ! 彼は確かに素行は悪いし、冗談ばかり言っているけれど……国を売るような真似をするはずが……」
「王妃様、感情論は横に置いて、現実の『数字』を見てくださいませ」
ジャンヌが、氷のように冷たい声で報告書の1ページを指差した。
「彼の浪費癖は異常ですわ。フェスやアカデミーの教師として給与を支払っているにもかかわらず、彼は夜な夜なパリの酒場や賭場に入り浸り、常に多額の『借金』を抱えています。……先月など、高価なビリヤード台を三台も衝動買いして、財務局に前借りの申請に来たほどですのよ」
「……ビリヤード台を三台!?」
(あの男、史実通りの超絶浪費家っぷりを発揮してるじゃないの!!)
「金に困窮している人間は、最も容易に買収されます。動機としては十分すぎる」
ナポレオンが引き継ぐ。
「さらに、彼は音楽祭などの興行を理由に、ベルサイユ宮殿の内部にも頻繁に出入りし、構造を把握できる立場にあります。その上、アーサーの報告によれば、ここ一ヶ月、モーツァルトは深夜になると自室を抜け出し、ウロウロと徘徊していたそうです」
「え……?」
「そして決定的な証拠が、これです」
ナポレオンは、懐から数枚の『紙切れ』を取り出し、机の上に広げた。
それは、五線譜が印刷された楽譜だった。だが、そこに書き込まれている音符の並びは、素人の私が見ても異常だった。
「これ、楽譜……なの? 音符が黒く塗りつぶされていたり、異常なほど高い音と低い音がメチャクチャに配置されていたり……」
「彼の部屋のゴミ箱から回収したものです。……マリー、これは音楽などではありません。五線譜のフォーマットを悪用した『暗号通信』です」
「暗号……ッ!」
「音符の玉の位置と、符尾の向きでアルファベットを表現しているのでしょう。彼が興行の合間にベルサイユで警備の死角を調べ、さらに深夜にチュイルリーの書物庫周辺を徘徊して機密図面を盗み見し、この暗号楽譜に変換して外部のカリオストロに渡していたとすれば……すべての辻褄が合います」
物証の数々。
借金という動機、深夜の徘徊という行動、そして暗号という証拠。
「……呼んでちょうだい」
私は、震える手を握りしめ、覚悟を決めた。
「彼自身の口から、真実を聞くわ」
数十分後。
密室状態となった執務室に、派手な真紅のコートを着たモーツァルトが、欠伸をしながら連行されてきた。
「ふぁぁ……。夜更けに何の用ですか、マリー様。僕は今、新しい曲のインスピレーションが湧きかけていて……」
「座りなさい、モーツァルト」
私の冷たい声に、彼はピタリと動きを止め、部屋の異常な空気に気づいたようだった。
彼の背後にはアーサーが立ち、逃げ道を塞いでいる。
「モーツァルト。単刀直入に聞きます。……あなたは、カリオストロ伯爵に王室の機密図面を売り渡しましたね?」
ナポレオンが、机の上に『暗号楽譜』をドンッと叩きつけた。
「借金を返すため、この楽譜に偽装した暗号で警備体制を外部に漏洩させた。……言い逃れはできませんよ」
モーツァルトは、机の上の楽譜を見つめ、ポカンと口を開けた。
「……え?」
「とぼけるな! 興行のついでにベルサイユを嗅ぎ回り、深夜のチュイルリーの工場や書物庫までうろついていたことはすでに調査済みだ!」
ルイが、裏切られた悲しみと怒りで拳を震わせながら叫んだ。
「君の音楽を信じていたのに……! なぜだ、モーツァルト君! 金が足りないなら、どうして僕たちに相談してくれなかったんだ!!」
ルイの悲痛な叫びが響く中。
モーツァルトは、自分の書いた楽譜と、殺気立つ私たちを交互に見比べ……。
「……ぷっ。……アハハハハハハハハッ!!!!」
突如として、腹を抱えて大爆笑し始めたのだ。
「な……ッ! 何がおかしいのよ!!」
私が怒鳴ると、モーツァルトは笑いすぎて涙目になりながら、机の上の楽譜を手に取った。
「いや、傑作だ! さすがのナポレオン長官も、音楽の才能は絶望的に無いらしい! これが暗号に見えるだって!? アハハハハ!」
「貴様……!」
アーサーが短剣に手をかけるが、モーツァルトはそれを手で制し、咳払いをした。
「いいですか皆さん、よく見てください。これは暗号なんかじゃありません。正真正銘、僕が脳内の限界を突破して書き上げた『最新の楽譜』ですよ!!」
「嘘をつくな! こんな不協和音だらけのメチャクチャな音階、人間が弾けるわけがないし、音楽として成立しないでしょうが!」
ジャンヌが眼鏡を光らせて反論する。
「ええ、人間の指じゃ弾けませんし、優雅なクラシックでもありません。……だってこれは、陛下がチュイルリー大広間に作った『高圧蒸気機関のピストン音』をサンプリングした曲ですからね!!」
「……は?」
私とルイは、同時に素っ頓狂な声を上げた。
「深夜の工場をウロウロしていたのは、静かな時間帯にあの『巨大ボイラーの稼働音』や『歯車が噛み合う金属音』を聴き込むためです!シュゴォォン! ガシャン! ズドドドン! というあの圧倒的なインダストリアル・ノイズ!あれこそが新しい時代の『ビート』なんですよ!!」
モーツァルトは、熱病に冒されたように目を輝かせて語り始めた。
「僕は、あの工場の轟音を、複数のピアノと打楽器で完全再現する交響曲を作っていたんです! 既存の音楽理論をすべて破壊する、重低音と不協和音の嵐! 僕はこれを『ヘヴィ・メタル・シンフォニー』と名付けました!!」
(……出たァァァァッ!! 天才ゆえの斜め上すぎる発想!! 18世紀にヘヴィメタルの概念を生み出しちゃったの!?)
「待ってくれ!」
ルイが、身を乗り出してモーツァルトの楽譜を食い入るように見つめた。
「この四分の四拍子の強烈なバスの刻み……まさか、僕が設計した『複動式シリンダー』の往復運動のストローク間隔と一致しているのか!?」
「その通りです陛下! あの蒸気エンジンの脈動こそが、この曲の心臓! だからこんな異常な音符の配置になっているんです! いやぁ、あのピストン運動、最高のグルーヴですよ!!」
「素晴らしい……! 僕の作った機械のリズムを、音楽に昇華してくれるなんて……ッ!!」
オタク王と天才音楽家が、謎の『インダストリアル・メタル』の話題で意気投合してしまった。
「……つまり」
ナポレオンが、こめかみを押さえながら深くため息をついた。
「あなたは、借金まみれの状態で深夜の地下を徘徊し、誰が見ても暗号にしか見えない狂った楽譜を書き散らしていた……ただの『音楽ジャンキー』だったと?」
「失礼な! 芸術への熱い探求と言ってくださいよ! あ、借金に関しては……新しいシンバルの開発費がかさみまして。てへっ」
テヘッ、じゃないわよ!!
私は全身の力が抜け、その場にヘナヘナと座り込んだ。
(よかった……! モーツァルトは裏切り者じゃなかった! 彼はただの、金遣いが荒くてヘヴィメタルに目覚めた天才音楽家だったんだわ!)
安堵の空気が、執務室を包み込む。
アーサーも短剣を収め、ジャンヌも「人騒がせな……」と呆れたように眼鏡を拭いている。
だが、安堵は長くは続かなかった。
「……待ってください」
ナポレオンの氷のような声が、再び部屋の空気を凍りつかせた。
「モーツァルトが白だとすれば……『真の裏切り者』は、まだこのチュイルリー宮殿に潜伏していることになります」
「ッ……!」
そうだ。誰かがカリオストロに情報を流したのは間違いないのだ。
その時。
執務室の扉が、バンッ!! と激しい音を立てて開け放たれた。
「王妃様!! ナポレオン長官!!」
飛び込んできたのは、情報収集のためにパリ市街へ出ていたアーサーの部下――情報部のエージェントだった。彼は息を乱し、顔面を死人のように蒼白にさせている。
「どうしたの!? そんなに慌てて」
「情報漏洩の『ルート』が……ッ、判明いたしました!!」
エージェントは、一枚の『紙』を震える手で机の上に叩きつけた。
「これは……最近パリで大流行している、『王室礼賛のパンフレット』じゃない」
私が手に取ったのは、安価な紙に刷られたパンフレットだった。そこには、私たち王室が労働環境を改善し、美味しい給食を配っていることを褒め称える文章が書かれている。
「王室を支持する内容よ。これがどうして情報漏洩と関係あるの?」
「王妃様。……その紙を、ランプの光に『透かして』みてください」
アーサーが、ランプの火を近づけ、パンフレットの裏側から強い光を当てた。
「――ッ!!!!」
私の全身の毛穴が、総毛立った。
光に透かされたパンフレットの紙面。
文字の裏側に、肉眼では見えない『特殊な透かしインク』によって、極めて緻密な線が描かれていたのだ。
ベルサイユ宮殿の地下見取り図。
警備兵の交代時間。
そして、チュイルリー宮殿にある宝物庫設計図の正確な保管位置までが。
「……な、なんてことだ。この王室を褒め称えるパンフレットそのものが……外国の産業スパイに向けた『機密情報のカタログ』だったのか……!!」
ルイが戦慄して後ずさった。
王室を支持するパンフレットを隠れ蓑にし、堂々とパリ中に機密情報をばら撒いていた。
これを手にしたカリオストロは、誰にも怪しまれずに情報を手に入れたのだ。
「高性能な印刷機を持ち、取材パスを使って誰にも疑われずにチュイルリー宮殿とベルサイユ宮殿の双方を自由に出入りし……書物庫の機密や王室のスケジュールを完全に把握できた人物」
ナポレオンの言葉が、死刑宣告のように重く響く。
「……そんな人間、一人しかいないわ」
私の口から、絶望とともに、ある男の名前がこぼれ落ちた。
私たちと共にフランスの未来を語り合っていた、若き革命の旗手。
「……カミーユ・デムーラン」
新聞記者であり、情報発信のプロフェッショナル。彼こそが、私たちの足元に潜んでいた、真の『裏切り者』だったのだ。
「なぜ……どうしてカミーユが……!」
私が混乱と悲しみで叫ぶと、ナポレオンが冷酷に現実を突きつけた。
「……彼は『記者』であり『革命家』です。王室が圧倒的な力を持つことを、心の底では恐れていたのでしょう。我々が技術を独占し、民衆が王室に依存しすぎる現状を破壊するため……技術を他国に流し、意図的に『混乱』を引き起こそうとした」
「狂っているわ……! 国を売ってまで、自分の理想の革命を正当化したいの!?」
「追いますか、マリー」
アーサーが、短剣の柄を握りしめ、冷徹な暗殺者の目に戻った。
「……ええ」
私は、震える拳を強く、強く握りしめた。
悲しんでいる暇はない。彼がこれ以上、フランスの機密を他国に売り渡せば、私たちが血と汗で築き上げた平和は完全に崩壊する。
「ペンで国を売るというなら……私たちが、そのペンをへし折ってやるわ!」
マリー・アントワネット、26歳。
信頼していた仲間の裏切りという最悪の絶望を前に、彼女は逃げることなく、革命の炎を自らの手で鎮火させるため、暗闇のパリ市街へと乗り出していくのである。




