第143話 悪魔の果実 前編
初夏の日差しが降り注ぐ菜園。
そこは今、ちょっとしたパニック状態に陥っていた。
「ひぃぃぃッ! 近寄るな! 呪われるぞ!!」
「王妃様! 危険です、どうかそれ以上近づかないでください!!」
農服を着た庭師や、護衛の兵士たちが、まるで恐ろしい魔物にでも遭遇したかのように青ざめ、後ずさっている。
彼らの視線の先、緑の葉っぱの間に実っていたのは――太陽の光を浴びて、艶やかに、そして鮮やかに熟した『真っ赤な果実』だった。
「もう、みんな大袈裟なんだから」
私は呆れながら、ふっくらと実ったその果実を素手でプチッと摘み取った。
「ヒィィッ!! 王妃様が『悪魔の果実』に素手で触れられたぞォォッ!!」
「ああっ、猛毒が皮膚から浸透してしまう! サンソン先生を! 早くサンソン先生を呼んでこい!!」
私が果実を持っただけで、庭師の一人が白目を剥いて気絶しそうになっている。
「毒なんてないわよ。これは南米原産の新しい野菜、『トマト』よ。イタリアのナポリあたりじゃ、もう平民も食べ始めているって聞いたけど?」
私が真っ赤なトマトを顔の横で掲げると、背後からカツンと鋭い足音が響いた。
「王妃様、それはイタリアのごく一部の貧民の話ですわ。……フランスにおいて、その植物は鑑賞用の『毒草』。ナス科の猛毒植物ベラドンナや、伝説の魔草マンドレイクの仲間であり、食べれば血を吐いて死ぬ『悪魔の果実』だと信じられていますのよ」
現れたのは、財務局長のジャンヌだった。彼女はハンカチで口元を覆い、トマトから露骨に距離を取っている。
「そんな迷信……っ! 確かに葉っぱや茎には微量の毒性があるかもしれないけれど、完熟したこの赤い実には、毒どころか最高の栄養と『旨味成分』がたっぷり詰まってるのよ! これを食べないなんて、フランスの食文化にとって数百年単位の国家的損失だわ!」
私はプンスカと怒りながら、採れたてのトマトをカゴに山盛りにした。
(現代のイタリア料理やフレンチに欠かせない最強の旨味の宝庫、トマト! この時代、ヨーロッパの大部分ではまだ『有毒な観賞用植物』として忌避されているのよね。……でも、この旨味成分『グルタミン酸』の力を使えば、フランスの食糧事情はさらに豊かになるはず!)
「……騒ぎを聞きつけて来てみれば、また厄介な代物を持ち込みましたね、マリー」
ため息とともに現れたのは、ナポレオンだった。
「ナポレオン! あなたなら分かるでしょ? これが毒じゃないって!」
「ええ。科学的に考えれば、致死性の猛毒を含んでいる植物がこれほど鮮やかな果実を実らせ、鳥や獣に捕食される進化を遂げるのは不自然です。……しかし、問題は『大衆の心理』です」
「現在、保守派の貴族たちが『王妃が宮殿で毒草を栽培し、呪いの儀式を行おうとしている』という荒唐無稽な噂を流布し始めています。このままでは、我々の農業改革そのものが『悪魔の所業』として糾弾されかねません」
「くっ……グラモン公爵たちね! ベニエの美味しさに屈したくせに、まだ懲りてないのね!」
私はカゴいっぱいのトマトを見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「言葉で『毒じゃない』って説明しても、誰も信じない。……なら、圧倒的な『美味しさ』で、彼らの固定観念を力でねじ伏せるしかないわね!」
「美味しさでねじ伏せる……。また新しいお菓子ですか?」
「ううん、今回はご飯よ。お菓子よりもガツンと胃袋に響いて、トマトの酸味と旨味を極限まで引き出す、最強のジャンク・フード……『ピザ』を作るわ!!」
私が高らかに宣言すると、仲間たちは「ピザ?」と首を傾げた。
「小麦粉を薄く丸く伸ばした生地に、このトマトで作った濃厚なソースを塗りたくるの! そして、たっぷりのチーズとオリーブオイル、バジルの葉を乗せて、超高温で一気に焼き上げるのよ! 香ばしい生地と、トロトロに溶けたチーズ、そして熱せられて旨味が爆発したトマトの組み合わせは、まさに完全無欠の破壊力よ!!」
私の熱弁を聞いて、ジャンヌがゴクリと喉を鳴らした。
「……王妃様がそこまで仰るなら、きっと素晴らしい利益を生む料理なのでしょう。ですが、オーブンで焼けばいいのですか?」
「ダメよ。宮殿のキッチンのオーブンじゃ温度が低すぎるの。極上のピザを焼くには、最低でも『摂氏400度』以上の超高温で、わずか1分半という短時間で一気に焼き上げなきゃいけないのよ! じわじわ焼いたら、生地の水分が飛んでカチカチのビスケットになっちゃうわ!」
「400度……!? 一般的なオーブンの倍以上の温度ですか!?」
ナポレオンが驚愕して目を見開く。
「ええ。だから、ピザ専用の『ドーム型石窯』が必要なのよ。薪を燃やして石のドーム内に熱を蓄え、遠赤外線の力で生地を一瞬でカリッサクッ、中はモッチリに焼き上げる最強の調理設備がね!」
「なるほど。超高温の調理機器か! ならば僕の出番だね!!」
ドガアァァンッ! と、菜園の入り口の門が開き、全身油まみれのルイがメガホンを持って乱入してきた。
「アントワネット! 高温が必要なら、石炭を使った『超高圧・蒸気駆動ロータリー・オーブン』を設計しよう! 燃焼室の圧力を極限まで高め、ベルトコンベアで生地を高速回転させながら……」
「ストーーーップ!!」
私は、両手で大きくバッテンを作って、暴走しかけたオタク王の口を塞いだ。
「ルイ! 今回は発明は禁止よ!ピザの石窯は『土と炎』の原始的な力が不可欠なの! 蒸気パワーじゃ、薪の香ばしい匂いと遠赤外線の魔力は出せないわ!」
「ええっ!? 僕の科学力が……禁止!?」
ルイはショックでガーンと落ち込んだ。
「でもね、ルイ。石窯作りには、高度な建築技術と力仕事が必要なの。機械を使わず、あなた自身の『設計の知識』と『その鍛え上げられた腕力』で、私たちと一緒にゼロから窯を手作りしてほしいの!」
「手作りで……建築を……!」
ルイの瞳に、再びキラキラとした輝きが戻った。彼はもともと錠前作りや建築が好きな、根っからの職人気質なのだ。
「よし、分かった! 機械を使わない純粋なドーム建築だね! 任せてくれ、ローマ時代のパンティオン神殿の構造を応用して、熱効率が最強の石窯を設計してみせるよ!!」
「さあ、そうと決まれば石窯プロジェクトの始動よ! みんな、汚れてもいい服に着替えて中庭に集合!」
数時間後。
チュイルリー宮殿の中庭には、大量の耐火レンガ、川砂、粘土、そして水が運び込まれていた。
「マリー。ドームの設計図と、熱流体力学に基づいた排気構造の計算は終わりました。窯内の熱気の対流を最適化するため、入り口の高さはドームの天井高の『63パーセント』に設定します」
ナポレオンが、黒板に完璧な石窯の設計図を書き出していた。
「さすがね、ナポレオン! じゃあ、まずは土台作りよ。アーサー、ルイ! お願い!」
「承知しました。基礎の水平出しは狙撃の生命線と同じ。1ミリの狂いも許しません」
アーサーが、普段は暗殺者を狩るその正確無比な動きで、レンガを寸分の狂いもなく水平に並べていく。
「重い石材運びは僕の得意分野だ! ふんっ!」
そしてルイは、鍛え上げられた分厚い胸板と太い腕の筋肉を隆起させ、数十キロはある巨大な石のブロックを軽々と持ち上げ、次々と土台を組み上げていった。
(やっぱりルイのフィジカル、バケモノね……! 機械オタクなだけじゃなくて、肉体労働も完璧にこなせるなんて、一家に一台欲しい最高の旦那様だわ!)
「王妃様! 粘土と川砂の練り合わせ、完了しましたわ!」
ジャンヌが、ドレスの袖をまくり上げ、サロペット姿で泥まみれになりながら報告にきた。彼女の隣では、処刑人にして名医のサンソン先生が、シャベルを持って泥を捏ねている。
「見事な粘度です、ジャンヌ殿。この泥に藁を混ぜることで、人体でいうところの筋繊維のような強靭な結びつきが生まれ、400度の熱にもひび割れない極上のモルタルとなります」
「ふふっ、これでお金を生む最高の調理設備ができるなら、泥まみれになるくらい安い投資ですわ!」
教職員アベンジャーズの変人たちが、各々の専門知識と異常なスペックを「ただの石窯作り」に全振りし、和気藹々《わきあいあい》と作業を進めていく。
「よし、土台ができたわね! 次はドーム部分よ! ナポレオンが作った砂の山の周りに、レンガをアーチ状に積んでいくの! ルイ、アーサー、隙間なく泥を塗って!」
「任せろ! 錠前の歯車を合わせるより簡単な作業さ!」
「はい。防弾トーチカの構築手順と同じです」
ペタペタ、ドスッ、ペタペタ。
みんなで泥だらけになりながら、レンガを積み上げる。
誰かが泥を顔に飛ばして笑い合い、ルイが力自慢をしてアーサーに涼しい顔で受け流され、ジャンヌが「レンガの無駄遣いですわ!」とナポレオンの計算にケチをつける。
王族も貴族も平民も関係ない。ただ一つの美味しい目的のために、みんなで汗を流して何かを作り上げる。その時間は、宮廷のどんな豪華な夜会よりも、ずっと楽しく、輝いていた。
「……完成よ!!」
夕暮れ時。
宮殿の中庭に、美しい丸みを帯びた見事なドーム型の石窯がそびえ立っていた。
「完璧なドーム構造だ……。熱を逃さず、輻射熱をピザの中心に集中させる究極のフォルム! 僕の建築史に残る傑作だよ!!」
ルイが感動のあまり、泥だらけの顔で涙ぐんでいる。
「さあ、中に入れた砂を掻き出して、火入れよ! 薪を燃やして、窯の中の温度を一気に400度まで上げるの!」
アーサーが手際よく薪を組み、サンソン先生が火を放つ。
パチパチという心地よい音とともに、石窯の中で炎が上がり、周囲に暖かい熱気が広がっていった。
「マリー。窯の温度が安定するまで、数時間かかります。その間に、肝心のピザの準備ですね」
ナポレオンが、黒板の設計図を消し、次に料理のタイムスケジュールを書き込む。
「ええ! 小麦粉の生地はもう発酵させてあるわ。問題は、この悪魔の果実……トマトをどうやって『最高のソース』に仕上げるかよ!」
私は、カゴに山盛りにされた真っ赤なトマトを見つめ、腕まくりをした。
「このまま生で出しても、警戒されて誰も口にしない。だから、じっくり煮込んで水分を飛ばし、旨味だけを極限まで凝縮した『特製トマトソース』を作るのよ! ニンニクとオリーブオイルの香りで、彼らの鼻腔を完全に支配してやるわ!!」
その時。
中庭の入り口から、嫌味ったらしい声が響いた。
「……泥だらけで何事かと思えば。王妃殿下、まさか本気でその『毒草の果実』を料理するおつもりですか?」
現れたのは、保守派の重鎮・グラモン公爵と、数名の貴族たちだった。彼らは鼻をつまみ、私たちが作った石窯とトマトを汚いものでも見るように睨みつけていた。
「あら、グラモン公爵。ちょうど良かったわ。これから最高の晩餐を振る舞うところだったの」
「ご冗談を! そんな真っ赤な悪魔の果実など、豚でも食いませんぞ! 我々誇り高きフランス貴族を毒殺する気ですか!!」
「毒殺? フフッ……」
私は、真っ赤なトマトを一つ手に取り、公爵の目の前で不敵な笑みを浮かべた。
「いいえ、公爵。私があなたたちにかけるのは毒じゃないわ。……絶対に抗えない『悪魔的な美味しさ』という名の魔法よ。後で泣いて『もう一枚ください』って土下座しても、食べさせてあげないからね!」
王立DIY石窯の炎がゴウゴウと燃え盛る中。
人類最強のジャンクフード「ピザ」による、華麗なるトマトの復権作戦が、今まさに火蓋を切ろうとしていた。




